桂正範 その1
「それは、そんなにやっかいなコンピュータウイルスなんですか。」
桂正範は、デスクにコーヒーを置くと、同僚の話の続きを促した。桂の同僚である新崎は、東京都のサイバー犯罪対策室の中でも「技官」と呼ばれる特別捜査官だ。細面にメガネを光らせ、見るからにインテリという顔をしている。いわゆる最新の情報通信技術に精通しており、テクノロジーに関しては、桂がはるかに及ばない知識を持つ。
「やっかい、ですね。」
新崎は整った顔を、しかめていった。
「技術的に特殊であることはもちろんですが、このウイルスのもう一つの大きな特徴は、社会心理学的な要素を絡めてターゲットにアプローチしている、、、という点です。」
「へえ。」
桂は、変わりばえしないオフィスを眺めながら、缶コーヒーをすすった。桂は生まれつき、飲食物に頓着しないタイプだ。コーヒーはもっぱら、お決まりの缶コーヒーを二階の自販機で買ってくる。
「社会心理学的な要素というと、、、」
「要するに、ターゲットの興味をそそるということですかね。『これは、天才科学者が残したプログラムだ』とか、『不老不死の秘密が隠されている』とか、ね。そんな奇妙な噂が流れているから、皆興味をもってアクセスしてしまう。それこそ、有名国立大学に通うような優秀な学生が、コロッとひっかかって、ウイルスに侵されるわけですからね。」
「もったいないねえ。未来ある若者がねえ。」
桂はため息をついた。桂は今年、三十五歳になった。まだ老け込むような年ではないが、かといって学生時代の若々しいノリもまた、遠い昔の記憶になりつつある。一人息子は二歳になり、たどたどしい言葉をしゃべり始めた。桂の若者に対する感情は、どこか、息子に対する感情とかぶる。
「犠牲者は皆、学生ですか?」
「今のところ、判明しているだけで三人。皆、十代から二十代の学生です。水面下では、もっと被害者が出ているかもしれません。」
桂と新崎が話題にしているのは、今年になってその存在が確認された新型のコンピュータウイルス「Shizuku」(シズク)についてだった。まだ、その存在を知るものは少ない。このウイルスを警察がマークし始めたのは最近のことだったが、何しろ史上初の、パソコンではなく「人間の脳」を破壊するウイルスということで、上層部も強い関心を示していた。
人間に直接的な被害をもたらす、コンピュータウイルスといえばマスコミも飛びつくだろう。被害が拡大しないうちに鎮静化しないと、妙に世間で騒ぎが拡大する懸念がある。もしかすると、模倣犯もあらわれるかもしれない。治安が乱れる、、、という上層部の考えも、もっともなところがあった。外見は一見、地味ではあるが、実はサイバー犯罪対策室で随一の成果を上げている桂正範が担当に指名されるのも、当然といえば当然に思われた。
「被害者は、今、どういう状態ですか。」
「どうも、こうもないですよ。昏睡状態です。意識が戻らないわけですからね。」
新崎は、技官にありがちな、正義感の強さが前面に出るタイプだ。今回の事件に関して言えば、Shizukuの開発者が、憎たらしくてたまらないらしい。
「意識が、飛ぶわけですか。」
「というより、脳の中の意識や、記憶データ一式が、どこか別の場所に格納されてしまったような状態で、、、。脳がどの程度のダメージを受けたか、さらに言えば、回復の見込みがあるのかも、よく分からない状況です。」
桂は頷くと、少し考え込むようにして、新崎に丁寧に言った。
「分かりました。ちょっと私のほうでも調べてみて、情報をキャッチアップしますので、技術面で分かったことがあれば、また教えて下さい。」
新崎はその言葉を聞くと、恐縮した様子で、さっと一礼をして去って行った。桂はふうと息をつくと、缶コーヒーの残りを飲み干した。それからゆっくりデスクに向かうと、モバイル情報端末を叩いて、いわゆるアングラサイトにアクセスし始めた。アンダーグラウンド、すなわち違法性の高い情報を主に扱うサイトだ。
意外なことに、サイバー犯罪の情報収集に一番役立つのは、この手のアングラサイトだ。インターネット上の無法地帯であり、地雷原を歩くようなものだが、対策があればセキュリティも確保できる。サイバー犯罪対策室では、専用のプロキシサーバ(代理サーバ)を用意しており、アングラサイトから安全に情報収集する仕組みを整えていた。
――自分の子供には、こんなサイトにアクセスしてほしくないものだな。
我が子のやすらかな寝顔を思い出し、思わず少し微笑んだ後で、桂は顔を引き締めると、端末をせわしなく操作し始めた。
◇◇◇
丸一日、桂があちこちのサイトを巡り歩いて、整理した情報はおよそ次の通りだった。まずShizukuは、とある「天才科学者」が創り上げたコンピュータ・プログラムである。天才科学者の素性について、詳しいことは分かっていないが、どうやら日本人であるらしい。
彼の妻は早くに病死したが、忘れ形見の一人娘がおり、科学者はこれを溺愛していた。しかし、不幸は重なるものだ。大学生になった娘は、ある日、交通事故に会ってしまう。即死は免れたものの、娘は残念ながら頭部を強く打って植物状態になってしまった。それ以降、天才科学者は、何かにとりつかれたように研究に没頭し始めた。
天才科学者が考えたのは、植物人間である娘が、実は、正常な意識を保っているのではないかということだった。娘の大脳は、見たところ大きなダメージを受けていないように見えた。ただ延髄から脊髄にかけての損傷が激しく、神経の電気信号を通すことが困難な状況だった。これでは、大脳からの命令信号が正しく伝わらず、身体を動かすことができない。手も動かせず、話もできないので、思考・感情を周囲に伝えることができない状況だった。それならば、この「壊れた体」から娘を救出し、解放してやらなければならない。科学者は寝食を忘れ、娘の意識を探る研究に没頭した。
そしてついに、娘の意識と思しき一定の信号パターンを抽出・保存することに成功する。この「娘の意識を抽出・保存したもの」こそが、Shizukuと呼ばれるプログラムであるという。プログラムの中で、彼女は年をとらない。電脳の世界に封じ込められた意識が、永遠に空間を彷徨っている。そう、天才科学者は不老不死の人間を創りだすことに成功したのだ――というのが、サイトの解説だった。なお、プログラム名称のShizukuとは、科学者の娘の名前である「しずく」から来ているという。
その後、科学者と娘がどうなったか、知る者はいない。一説によると、科学者は別の「身体」を用意して、娘の意識をそこに移し替えるつもりだった。それはすなわち、娘と同年代の女性を殺害することを意味した。この計画が露見し、警察に逮捕されたのだ、、、という。ただし、桂が警察にあるデータベースにアクセスして調べた限りでは、過去十年の間に、それらしい「天才科学者」の逮捕事例はなかった。
「ここのところは、ガセネタくさいなあ。」
桂は、モバイル端末を操作する手を止めて、つぶやいた。桂は、事実の裏付けがない情報を徹底的に信用しない。それが、犯罪捜査に関わる人間が心がけるべき、基本だという信念がある。
桂にとってもう一つ、疑問だったのは、なぜShizukuにアクセスすると、昏倒状態に陥るのかということだった。ネットの解説ではまことしやかに、「現世に未練を残す、科学者の娘の『呪い』がそうさせるのだ」と記載されていた。
「呪いって時代でも、ないしなあ。」
桂は、冷めた顔をして、モバイル端末を軽く指先ではじいた。一連のストーリーは、確かに若者が飛びつきそうな、興味深いものだ。ただ、全くと言っていいほど、ファクトが伴っていなかった。これではただの、都市伝説だ。
ふと時計を見ると、もう十時をまわっていた。今日のところは、これぐらいにしよう。桂はカバンに荷物をまとめると、地下鉄に乗るべくオフィスを後にした。