8.長谷川さん、危機一髪!?
*
俺はひと気のない廊下を猛ダッシュで、職員玄関に滑り込んだ。
長谷川さん名義の靴箱には、サイズの小さな子どもブーツもどきが残っている。
時刻はすでに五時過ぎ、となるとただいま着替え中というところだろうか。
灯りのついた女子職員更衣室から少し離れた場所で身を縮めて待っていたが、一向に出てこない。それどころか、女性にしてはかなり大きな影が女子職員更衣室ドア上部の磨りガラスの向こうを横切った。
耳を澄ませば、やはり女性にしては酷く低い声が聞こえてくる。俺は意を決してドアノブを回したが、内側から鍵が掛っていた。
俺は一瞬、パニックを起こしたらしい。
「長谷川さんっ、大丈夫ですかっ? 大内です、鍵を開けてくださいっ!」
そう叫んで、ドアの磨りガラスを握りこぶしで叩いていた。女子職員更衣室の中に籠っているのが他の職員である可能性を、俺は欠片も考えなかった。
たとえば、石井達は幼女好きだと言っても実行力なんてまるでなくて、せいぜいハナミズキの陰から鼻血を垂らして長谷川さんを見詰めるぐらいが関の山、つまり妄想だけで実害はない。それはそれでキショイけれども。
けれど、上田先生は違う。
長谷川さんに本気で求婚していた――と思うし、嫌がる長谷川さんを押し倒して無理矢理頷かせてしまう男の力を持っているのだ。だがそんなことは道義的に許されないし、そもそも教育的配慮に欠けるし、とにかく俺は問答無用でイヤだ。
ああそうさ、誰が許しても俺がイヤなのだ。そんなことはこの俺が許さない。
「長谷川さんっ、返事をしてくださいっ! 長谷――」
さらに声を張り上げようとした途端、急にドアが開いたと思いきやグレーのスーツの袖が伸びてきて、俺は女子職員更衣室に引っ張り込まれてしまった。
女子職員更衣室は、むせ返るような女性用化粧品の匂いが漂っていた。
けれど、俺は自分を引っ張り込んだ相手より、向かいのロッカーの前でブラウスのボタンを留めているサンダルに生足の長谷川さんに目が釘付けになった。
すげー、大人の女性なのに下着がタンクトップだけだなんて。
本当につるぺただったんだ。いや、本当にってどこから?
「頼むから、大人しくしててくれよ、大内」
こちらは予測通りの上田先生だが、俺そっちのけでスーツのまま床に正座して、
「お願いします、長谷川さん。しばらくの間でいいですから、私と付き合っていることにして貰えませんか? 頷いて貰えるまで、私は出ていきませんからっ!」
そう言って、大の男が女子更衣室で土下座している。その向こうで長谷川さんが我関せずとばかりに着替えをし続けているわけだから、非常にシュールな光景だった。すっかり頭が冷えた俺は、なんだか上田先生が憐れに思えてきて、
「お見合いって、どうしても断れないんすか?」
頭を上げた上田先生は、生真面目に正座したまま答える。
「それが駄目なんだ。うちの両親と先方の両親、お相手の女性も乗り気なのだ」
「……ひょっとして、お見合いがイヤだから嘘の幼女好きを演じてるんすか?」
「いやっ、それはっ、それだけは違うぞ大内っ! 先生は始業式の壇上で、長谷川さんを一目見た瞬間に恋に落ちたのだっ! それだけは真実なんだっ!」
あの長谷川さんを見て心を揺す振られないなんて人として何かが間違っている、そう握りこぶしで熱く語る上田先生を見て、何故か胸を撫で下ろす俺がいた。
そして着替えを終えた長谷川さんは、正座したままの上田先生に向き直った。
ちなみに長谷川さんは白いブラウスの上にすとんとしたラインで短めの黒いジャンバースカートを着ていた。どう見ても子供服売り場のサイズだ。
しかし身支度は終わらず、今度は髪を解いて梳き始めた長谷川さんだったが、
「いいですかー、上田先生」
「はっ、はいっ」
「私に一目惚れなんて、それは逃避ですー。結婚させられそうだからテキトーな女を見繕ってその場凌ぎなんて駄目ですー。イヤならきちんと断るべきですー」
いつもの喋りだが、はぐらかさない長谷川さんを初めて見た気がする。
「やっ、私は本当にアナタのことが」
「それに、先生の口から出る言葉は軽過ぎるですー。これでは言葉が可哀想ですー。国語の先生なら、もう少し言葉に対して敬意を払って使って欲しいですー」
「あっ、えっ?」
「二葉亭四迷や夏目漱石がどれだけ考えてアイラブユーを日本人の情緒に合うように訳したのか、その苦労を考えるヨロシですー。私から言えることは以上ですー」
言われてみれば確かに、君のためなら死ねるとかあなたと見る月は綺麗ですねと言うのは昔の文豪の言葉だった気がする。だけど、こっちはいつもどおりのぐらかしだ。長谷川さんは上田先生の恋心にトドメを刺してはいなかった。これが大人の女性の処世術というものだろうか。中坊の俺にはよくわからない。
もはや長谷川さんから一歩も譲歩を引き出せないと観念したのか、
「どうも御迷惑をお掛けしました……」
上田先生は大きな身体を縮めてスゴスゴと女子職員更衣室から出ていった。
周囲の期待に弱いのかもしれないけど、いい大人なんだから自分のことは自分で何とかしてください、上田先生ガンバレ。俺は心の中でエールを送った。
「それで大内君は、私が上田先生に無理強いされると思って来てくれたのー?」
「あ、あの、確かに、ちょっとパニくって騒いだっすけど……す、すいません」
狼狽えている俺に、梳き髪のままの長谷川さんが手招きをする。頭を下げろということかと少し屈んで中腰になると、小さな手が俺の頭に触れた。
「いつも助けてくれてありがとうですー。よしよしー」
マイペースな長谷川さんに、完全に子供扱いされている俺だった。
ヒンヤリとした小さな指に髪を梳かれるのは、存外に気持ちが良い――じゃなくて、安心したら妙に腹が立ってきた。一矢報いてやろうと第二次反抗期の俺は思ったが、さすがに長谷川さんって本当は幼女なんですかとは聞けなかったので、
「その首輪……じゃなくて鈴付きチョーカーは、長谷川さんの趣味なんすか?」
「ああ、コレ? 弟が誕生日にくれたのですー。可愛いでしょー?」
長谷川さんが小さな指で銀の鈴を摘まんで鳴らす。姉の誕生日に首輪紛いのチョーカーをプレゼントする弟というのはいったいと思ったが、口には出さなかった。
しかし、ひとつだけ分かったことがある。
長谷川さんは弟がいるせいで、異性慣れしているのだ。だから、俺達の前で生着替えをしても動じなかったに違いない。いや、それはちょっと無理があるか。本当の、幼女の無邪気さなのかも……いや、でも幼女であるはずはなくて――。
そして幼女で妹な長谷川さんに、新たなる属性『姉』が加わったのである。