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5.長谷川さんの恩返し?

 

 

     *



 日も斜めに傾き掛けた午後四時過ぎ。家路を急ぐカラスの鳴き声と野球部の野太い掛け声、そして陸上部のホイッスルが遠く聞こえてくる。


 帰りのホームルームを終えて家へまっすぐ帰る予定だった帰宅部の俺が、気付いた時には詰襟を脱いでシャツを腕まくりし、なぜか腐葉土満載の手押し車を押していた。なんでこんなことになったのか、検証してみる必要があるだろう。


 けれど、ひーひー言いながら保健室前の花壇まで腐葉土を運んでくると、


「うわー、ありがとうー。大内君って、とっても頼りになるですー」


 満面の笑みの長谷川さんに労われたので、俺の脳会議は早々に検証を放棄した。


 そうだ、思い出した。俺はポンと手を打つ。

 何も乗せていない状態の手押し車を、すでによろよろしながら押している長谷川さんを見掛け、挨拶だけして通り過ぎることができなかったのだ。

 どういうわけだか、こういう時に限って幼女好き共は誰も姿を現さない。


『わかった! 長谷川さんは実は特命用務員でアンドロイドなんだよ! 昨今学校に巻き起こる様々な問題を解決するために、教育委員会から送り込まれたんだ!』


 とかなんとか喚いていた坊主頭の石井は野球部員だし、アンドロイドにするなら未来からきた転校生でよくね(疑問形)とSFカテゴリーにしようとする秋山は学習塾、鬼の風紀委員こはるはバレーボール部と、皆多忙なようである。


 よくもまぁこんな力仕事をちっちゃい長谷川さんにやらせるものだと手押し車を押しながら思ったが、きっと俺みたいな間抜けがみるにみかねて手伝うのも、想定内の労働力なんだろうと思い直した。

 さすが井上のじーさん、伊達に何十年も用務員をやってはいないらしい。


 校舎裏から運んできた湿った腐葉土をシャベルで花壇に入れてやると、長谷川さんは肥料っぽいものを何種類かを、ビニールから移植ゴテですくって振り掛ける。

 俺は促されるまま、歪んだシャベルでザクザクと混ぜ込んでやった。


「――ふぅ、こんなもんでいいっすか?」

「うんうん、おっけー。やっぱ大内君って、手際がいいのですー」


 移植ゴテを片手に花壇の縁を形作る煉瓦に膝をついた長谷川さんは、どう見ても砂場で山をペンペン叩いている幼稚園児にしか見えなかった。

 俺は取り出したハンカチで額の汗をぬぐいながら、長谷川さんをチラ見する。


「……長谷川さん、事務服なんて持ってたんすね」


 そう、今の長谷川さんは紺の大きなサイズの事務服を、袖を折って着ているのだ。昼休みにホースの奪い合いをしてずぶ濡れになったことを知っているが、まさか生徒指導室から見ていましたとも言い辛い。

 長谷川さんは開いた襟元が気になるのか、何度も触りながら、


「うん、昼間ドジっちゃって、びしょ濡れになったのです。でも、支給されている上着はちょっと大きくて。ロッカーに置きっ放しにしておいて良かったー」


 赤い首輪の襟首から覗いたタグは、なんとSSサイズだ。LLならともかく、そんなサイズ見たこともない。長谷川さんはどんだけちっさいというのか。

 けれど、飾り気のない紺の事務服も、長谷川さんが袖を折って羽織ればまるで、彼氏のダブダブのシャツを借りて恥ずかしげに頬を染める女の子のように見えなくもない。所謂、彼シャツというヤツだ。


 ふいに、濡れた白の袖付きエプロンを身体に張り付かせた長谷川さんの映像が、どーんと脳裏に甦った。その身体に凹凸などあるはずもなく、涙目の下がり眉で濡れそぼった子犬みたいな表情の長谷川さんが、なぜか酷く扇情的に思えてくる。


 俺はノーマルだ、そんなものに何の感情も動かされやしない。

 そう思おうとすればするほど、鼻にテッシュを突っ込んだイカレた男達の『だが、それがいい!』という大合唱が聞こえてきて――。


 俺の妄想と幻聴を断ち切ったのは、手に当たった冷たい何かだった。


「あとはひとりでできるのですー。大内君はひとやすみしてるといいですー」


 いつの間に用意したのか、俺の手には紙パックのコーヒー牛乳が握らされていた。黙って洗い場で手を洗った俺は、長谷川さんが手入れをしている花壇のひとつ横の花壇の縁に腰を下ろしてストローを啜った。労働のあとの心地良い甘さだ。


「それ、他の先生にはナイショだからねー。フンフフンフフ~ン」


 ずずずずずと紙パックを凹ませて、ようやく正気に戻ってきた。

 さっきの変調はなんだったのか、低血糖だろうか。あるいは、普段から変態共の傍にいるから、変態がうつってしまったのだろうか。あーいやだ。


 変な鼻歌を歌い始めた長谷川さんは、入学式の時に飾ったピンクと白のサクラソウをビニールの鉢から取り外した。まるでお勤めご苦労様でしたとでも言うように、移植ゴテで丁寧にひとつひとつ花壇に埋めていく。

 徐々に空気に含まれるオレンジ色の成分が濃くなる中、俺は労働する長谷川さんをぼんやりと眺めていた。



 実際のところ、長谷川さんの手伝いをするのはこれが初めてではなかった。

 始業式で衝撃的デビューを飾った長谷川さんだが、当初は長谷川さんと俺は何の関係もなかった。しかし数日後の、掃除当番でゴミを捨てに行った時のことだ。


 校舎の裏にはゴミを一時的に溜めて置くための倉庫があって、その傍に古い焼却炉があった。今でこそゴミは収集車で定期的にクリーンセンターに持ち込まれているが、井上のじーさんが若い時は焼却炉で全部燃していたそうだ。

 けれど、ダイオキシンが発生するなどの環境問題から自前の焼却炉は廃止され、錆びてボロボロに朽ち果てた姿を晒しているばかりだったのだ。


 俺がゴミ箱を抱えて焼却炉の傍を通り掛った時に、小さな鈴の音が聞こえた。


 その昔、焼却炉から出た灰を埋めるために、焼却炉の周囲にはいくつか穴が空けられていた。埋め戻されてはいるけれど、長年の風雨に晒されて大きな穴が口を開いてしまうこともある。どうも鈴の音は、その穴から聞こえてくるようなのだ。


 飼い猫でも落ちたのかと穴の縁まで行って覗き込むと、嵌っていたのは猫にあらず、(くだん)の長谷川さんだったというわけだ。


 普通の中学生レベルの身長があれば問題のない深さだが、ちんまい長谷川さんにとっては致命的だったようだ。何度も抜け出そうとしたのか、長谷川さんは全身泥だらけだった。俺は一瞬、可愛いと可哀想は紙一重だなと思ってから慌ててしゃがみ込み、長谷川さんの泥に塗れた手を掴んで引っ張り上げた。


 今思うと不思議なのだが、なぜか俺はほぼ初対面の長谷川さんの身体を無遠慮にバシバシ叩いて泥を払ってやり、ハンカチで顔まで拭いてやった。およそ、大人の女性にすることではなかった。どうして助けを呼ばなかったのかと問うと、長谷川さんは子供みたいに口を尖らせてからぼそっと、恥ずかしかったからと答えた。

 それが、長谷川さんと俺の本当の出逢いだった。



「よし、終わりっと。隣の花壇もやっちゃおうかー。もう一仕事、お願いー」


 石井の与太話じゃないが、長谷川さんの正体が何かの小動物だとしたら、恩返しにくるのに相応しい姿形かもしれないと思いながら、俺は立ち上がった。


 実際のところは、恩返しどころか逆にいいように手伝わされているのだったが。

  

  

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