第91話 終わり-薄氷の勝利
ザーナは己の体へ目をやる。
長い時を共にした肉体だ。
硬い外殻に覆われた青い肌からは出血が絶えず、赤い血が屈辱を助長させる。
(クソッタレが。やっぱ治らねェ)
何度試みても傷が治ることはなく、そのことに歯痒い思いをするばかりであった。
(......まぁ関係ねェ。俺が負けるはずない。さっさと殺す)
その重い足で踏み込み、先程と同じ殺意の拳を打った。
しかし、その拳はするんと流れてしまった。
「あぁん?」などと疑問を浮かべるまもなく、ザーナは痛みを覚えた。
アルタが攻撃をいなし、自身の攻撃を叩き込んでいた。
「ガっはッ!? ふんッ!」
ひるまずもう1度打拳を仕掛けるが、やはり不発。
憤怒級をも簡単に消し去る速度を誇っていたはずなのに。
いつの間にか半歩引いたアルタにはかすりもせず、反撃の蹴りが既にザーナの腹へめり込んでいた。
10メートルほど後方へ飛び、ザーナはよろけながら止まる。
肩を震わせ、アルタを見る眼を血走らせ、息もだんだん荒れていく。
(何なんだよ.......何なんだよコイツ......ッ!)
その鋭い歯を食いしばり、アルタを睨みつける。
しかし、その姿が次の瞬間には消えていた。
「......」
このとき、ザーナが見たもの。
眼前に迫るアルタの拳と言えば、そうだろう。
永遠のような一瞬が簡単に過ぎ去り、轟音と共に激痛を生んだ。
しかし、意識が集中したのはそこではない。
その表情だ。
光のない目がこちらを見つめ、顔に暗い影を落とし、狂気の沙汰としか思えないその表情だ。
ザーナだって、狂気というものを知っていた。
身近にいたからだ。プスコフという名の憤怒級だ。
主のためであれば、己の命そ捨てることにも躊躇しない男。
狂気が何かを知っているつもりだった。
しかし、今のアルタはそれとは明らかに違う何かがあった。
およそ生物のする貌ではない。
「......ッ!」
叫ぶ間もなく閃光のような拳が通った。
ザーナの体が、ゆっくりと地面へ崩れ落ちる。
見れば、白目を剥いてーーー
瞳がギロリと戻った。
「ハァ......ハァ......」
身の毛もよだつような叫び声が轟く。
「ガァァァァァアアッッ!!」
頬の傷など気にも留まらない。
ザーナが叫ぶ。
屈辱に叫ぶ。
「効いてねェんだよ......こんな攻撃ィ......」
まるで言い聞かせるようだ。
「何なんだオマエ。何もできないボロボロの体のくせにィ......そんなンに俺が負けるなんて、あり得ねェんだよ……」
その瞬間、大地が爆ぜる。
「あり得ねェからなァ"ァ"ァ"ア"!」
この戦闘中初めて出す全力で、ザーナが地面を蹴った。
アルタへ掴みかかろうとする。
雨のように降りしきる攻撃の嵐。
その1つ1つが、当たれば致命傷は避けられない凶打だ。
が、やはり全て当たらない。
かすりもしない。
正確に起動からズレてしまう。
さらにそこへ援軍が来る。
シュゼが何とか力を振り絞り、特攻と共にザーナへ攻撃を仕掛けようとした。
(来やがったなァ)
しかし、強者ザーナはこれを見逃さない。
即座に攻撃を中止し、飛び上がる。
「っはぁァ!」
「ーーーは?」
「逃がさねェからなァッ!」
アルタはシュゼの気配に気づけていなかった。
なぜか?
眠っているからだ。
シュゼが人質に取られたことにも、当然気づかない。
「っハハ......プスコフ殺したかァ、スゲェじゃねェか。だがそれも無駄になったなァ!」
ザーナはシュゼの首を掴み、高く掲げる。
アルタに見えるように、高く。
「テメェが自害すりゃァコイツは生かしてやるよ」
アルタがぐるっと首を向ける。
力が入っていないような、だらんとぶら下げた頭をゆっくりと持ち上げる。
そしてそのまま、歩き始めた。
1歩1歩、何かに取り憑かれたとしか思えない風貌で、確実にザーナとの距離を縮めていく。
その目にはシュゼなど映っていない。
「アルタっ! ......アルタ?」
シュゼもようやく気が付く。
おどろおどろしい雰囲気を身に纏う"仲間"の姿が。
仲間。
仲間?
「どうしたんだよ......アルタ」
声が震える。
今見ているのは本当にアルタなのか?
アルタのはずだ。
炎を背に、アルタが立っているはずだ。
ならば何故、こんなに寒気がするのか?
「アルタ! 起きろ! アルタ!」
シュゼが叫ぶ。
裂けた喉を痛めながら、ひたすら名前を呼ぶ。
「死ぬぞ! 起きろ! アルタ!」
沈み、もう動きを失った彼の心にかすかな波紋が浮く。
血を吐きながら叫ぶシュゼの声が、また1つ波紋を作る。
その波紋はどんどん広がるーーー
「もォいい。もォいい!」
ザーナの叫び声。
「うるせェんだよ。テメェから先に殺してやるよ!」
その場にシュゼを投げ飛ばす。
ドサッと背中から叩きつけられたシュゼ。
そんなシュゼの目に、素早く迫るザーナの拳が映った。
一瞬で死を覚悟した。
しかし、拳が届くことはなかった。
「あん?」
ザーナが振り返ると、腕を絡めて打拳を阻止するアルタの姿があった。
その目には、光が灯っていた。
「俺だろ?」
直後、アルタが拳を放つ。
全身全霊、限界の先を見る拳。
ザーナの心臓目掛けて、炸裂した。
「ぐふッ!?」
(反応が遅れた!)
拳はザーナの胸を打ち、バゴンッと硬く鈍い音を鳴らす。
だが拳は止まらない。
殻を砕き、肌を破り、肉を掻き分け、心臓へ近づく。
アルタは冷静に、魂気を操作した。
拳の先端を鈍い円錐のようにし、殺傷能力を底上げしたのだ。
初めて試みることであった。
その手がザーナの心臓を握る。
「このッ!」
しかしザーナだって素直に死ぬはずがない。
アルタにも分かっていた。
ザーナは己の胸に突き刺さったアルタの腕を両手で鷲掴みにした。
「握りつぶしてやる!」
「ホざけェッ!」
辺りには、ただただ叫び声が渡っていた。
力強さを感じさせる両者の叫び声。
勝利のためにもがく両者の雄叫び。
景色は動かない。
炎の渦巻く大地の中で、天使と悪魔が掴み合っているだけだ。
しかし。
もしもこの場に観客がいたのなら、その誰もが、2人はこの上なく激しく動いていると思うだろう。
シュゼがそうだった。
互いに全く力を緩める気配はなく、激しく闘う2人の間に、シュゼが入る余地などなかった。
「うおぉぁぁぁあああッ!」
最後の攻防が制された。
▶▷▶▷▶▷
シュゼはしばらく動けなかった。
出血も多く、大きな疲労が体を押さえつけていた。
響き続けたたまけるような叫び声が止まると、周囲の炎のバチバチという音が押し寄せる。
しかし、それもシュゼには聞こえていない。
シュゼに聞こえたのは、人が倒れる音だ。
ゆっくりと、地面に崩れ落ちるアルタを、息も忘れて見ていた。
それしかできなかった。
急所を潰され、死に溶けるザーナへ向けて倒れる。
黒い液を被りながら、アルタの見る地面が垂直になっていく。
アルタが倒れる音を聞いたとき、シュゼはハッとした。
痛む体を無理やり動かし、這いつくばって腕で歩く。
こんな痛み、アルタのものと比べれば何てことないはずだ。
アルタの瞳から光が消える。瞳孔が徐々に開いていく。
倒れた体はピクリとも動かない。
「アルタ......っ」
1秒でも早く、少しでも速く。
(絶対帰らねーと......!)
シュゼは黒い液の中に、オレンジ色に輝くものを見つける。
小さな手鏡であった。
(天魔界鏡! 早くーーー)
シュゼの手が、アルタの背中へトンと触れる。
「ガっ......らぁぁあ......ッ!」
残った力を捻り出す。
拳を振り上げ、思い切り界鏡へ叩きつけた。
周囲が光に包まれるーーー