第76話 火蓋
アルタが何故ここにいるのか。
彼は牢屋に入っていたはずである。
簡単なことだ。
脱獄してきたのだ。
無論、容易に為せることではなかった。
アルタとシュゼは当初、壁の悪魔を倒すつもりだった。
しかし、何をしても倒せなかった。
色石以外の攻撃は無効な上、色石に当てるのも難しかった。
なので、方法を変えた。
攻撃を色石にクリーンヒットさせた後、そこには穴が開く。
その穴をシュゼが引っ張って広げている間に、アルタが抜け出る、というやり方になった。
シュゼも同じやり方で脱出すれば良い。
それはそうだ。
しかし、そうしなかった。
牢屋の上、都では既に催しは始まっていた。
遠くの方から、大きな音がした。
戦闘音であった。
サキュラは恐らく、界鏡を手放さない。
奴は、闘技場で怠惰級の戦いぶりを見てるはずだと、彼らはそう思った。
もう1度色石に当てるには、時間がかかる。
だから、界鏡が悪魔の手に渡る前に、天世界が悲劇に堕ちる前に、アルタは向かった。
シュゼもまた、それを当然といった目で見送った。
建物の上を飛び越え、闘技場の近くに来たアルタが聞いたのは、歓声であった。
そしてその中に、別の声があったのも聞こえた。
苦痛に歪むペタの叫び声であった。
▶▷▶▷▶▷
「何だお前は!」
「そいつの味方すんのかー!」
「何様のつもりだ!」
「降りてきやがれ!」
アルタは観客らしき悪魔たちに野次を飛ばされるが、気に留めない様子で舞台を見下ろす。
そしてそのまま、視線を動かさずに言う。
「ペタ」
「アルタさん......ありがとうございますっ......ぅ!」
「気持ちは分かるがあとにしてほしい。頼みがある」
ペタはハッとしたような顔をして、邪念を払拭するように首をぶんぶんと振った。
そして、真剣な面持ちになった。
「はい」
「城の地下に牢屋がある。その中にシュゼがいる。侵入して、出してやって欲しい」
「えっ!? でも、そんな、ぼくじゃそんなこと......」
「大丈夫だ、今城には誰もいない。脱出の仕方はシュゼに聞いてくれ」
「で、でも......」
「ペタ」
涙がまだ乾いていない目が、アルタの横顔を見た。
「頼む」
「......」
ペタは黙って、目を強く閉じた。
開かれた赤く頼もしい目は、アルタの目には映らなかった。
しかし、その気持ちは伝わっただろう。
「分かりました。任せてください」
決意は固まったようだ。
「あぁ。頼む」
アルタはペタを降ろした。
そしてペタはすぐに、城へ向かって走って行った。
魔術も使えない能無しがいなくなった状況に、観客のざわめきが増した。
「黙れ」
闘技場の、最上部。
サキュラの声であった。
瞬く間に、全員が黙った。
「ソルガよ」
「ハッ」
ソルガの心に、違和感が浮かんだ。
主の声色がおかしいのだ。
今から何か、面白いものでも見るような、そんな声。
今から、ここにいる誰かが死ぬ。
それを、主は楽しみにしている。
普段なら、ソルガはそう思っただろう。
何も疑わずに、そう思っただろう。
(いや、気のせいか)
ソルガは主を慕っていた。
この方は優しきお方だ。
この男への、自分の殺しぶりを、高く評価してくださる。
違和感は、彼方へ消え去った。
「その者を殺してみせよ」
「仰せのままに」
ソルガが駆け出した。
彼方へ消えた違和感は、何も気のせいでなかったことを、ソルガは知ることになる。
そしてその違和感を信じようとそうでなかろうと、自分の生がここで終わっていたことを、知ることになる。
▶▷▶▷▶▷
ソルガが駆け出し、アルタの目の前まで迫る拳。
軽々かわされ、思わずソルガはよろける。
すぐさま振り返り、拳を次から次に放った。
それらの攻撃は捌かれ、逆に自分が追い詰められていくのを感じる。
バチン、バチンと拳は落とされる。
「ふんっ!」
ついに、両手が後方へ押し退けられたソルガ。
無防備となった頭に放たれる、アルタの跳び蹴り。
「ぼがっ!」
初めての経験であった。
顔の肉がえぐれたのは。
ソルガはバランスを崩し、地面へ膝をつく。
再生された眼に映ったのは、アルタの冷たく燃える目だった。
「や、やれ! 俺!」
叫び。
直後、アルタの背後からソルガが蹴り込んだ。
分身であった。
首へ向けられる蹴りを、アルタはしゃがんで回避した。
その動きは無駄にしない。
回避のためにしゃがみ、それをすかさず踏み込みとし、
「があっ! やめろ! 離せッ!」
ソルガの分身を捕った。
暴れるが、アルタの腕はほどかれない。
ソルガの過ちは、焦りであった。
魔術『妖傭並魔』。
自身と同じ力量の分身を際限なく作り出す魔術。
しかしその分身が死ねば、他の分身も、本体も、全部死ぬ。
アルタに、分身を捕られた。
いつもであれば、振りほどいて終わりだった。
ソルガは強かったのだ。
しかし今回、ソルガは知っていた。
この男は、自分より強いことを。
そして、蘇ったのだ。
あの、サキュラから感じた違和感が。
サキュラが、死ぬと勘ぐったのは、この男ではなく、自分だと。
その気持ちが心に戻った時、ソルガは焦った。
焦って、20を越える分身を出した。
それが間違いであった。
アルタは、自分の捕まえた分身の首を掻っ切った。
すると瞬く間に、全てのソルガが消えた。
黒い液となって、色石を残して溶け消えた。
英雄が死んだ。
その光景に、観客の全員が絶句を貫いた。
皆、ソルガが勝つと思っていた。
この催しを勝ち抜き、優勝し、魔術の使えない者をなぶった。
加えて、乱入してきたこの男もまた、魔術は使えないようだった。
それどころか、魔力すら無かった。
誰もソルガが負けるとは思わない。
自らの主の反応もまた、おかしかった。
物珍しそうな顔をして、ただ見続けていた。
何も言わずに。
全員の心に、様々な感情が渦巻いていた。
良い感情でないことは明白である。
「流石じゃな」
「......」
英雄が死んだにも関わらず、男に称賛を送るサキュラに、誰もが疑問を感じた。
しかし、口に出す者は1人もいない。
その場の空気に圧されていた。
「よくもまぁ、ソルガを倒したものよ」
「助けてやらなくて良かったのか?」
アルタの視線が、サキュラを貫く。
「何、後からどうとでもなる。貴様が気にせずとも良い」
「そうかよ」
凍てつくような空気。
女王は男を見下ろし、男は見上げる。
誰もが女王が戦うことを確信した。
だというのに、勝利を確信できた者はいなかった。
そしてそのまま、心は無へ帰って行った。
表情から生気が抜け、全員が席を立つ。
サキュラの魔術『惑民誓魔法』。
額の第三の眼を通じ、知性ある悪魔に見返りを与え、自らの"民"とする術。
民となった者は常に半洗脳状態となり、サキュラへ忠誠を誓う。
人形は、サキュラの手となり足となる。
「妾とて、貴様らを殺すのは惜しいと思っておるのじゃぞ? 武力としては中々のものじゃからの」
「嘘つけ。日に日に食料も減っていた。どこかの日に見限っていたんだろ」
「さあの」
同時、サキュラの指がクイっと曲げられた。
観客席に立ち尽くす悪魔のうちの、ほんの数体。
それらの肉体が混ざり合い、1つの肉塊となった。
黒い液体を垂らしながら、宙に浮く。
「―――『冥礫失魔』」
戦いの火蓋は切られた。