第56話 化身
ラノンサが言う。
「そうかい......やっぱり君らも、天世界へ帰りたいのか」
「はい。向こうで待ってる人がいるんです」
重い空気が流れている。
1週間寝た藁布団、その畳まれた姿が視界の奥にある。
「じゃあ、もうお別れか」
「そうなりますね......」
沈黙。
会話が続かない。
「オレらと一緒に来るか? 1週間世話になったしよ」
シュゼがそんなことを言った。
「ハハ......いや、無理だね。君らは強い。僕は足手まといにしかならない。それに、みんなを置いて僕だけってわけにはいかないよ」
空気に押され、俺はコップを手に取る。
前にも飲んだ、あの紫の液体が入っている。
「こう言っちゃ変だけど、僕はこの集落が好きなのさ。生活は苦しいけど、みんなで助け合っている」
言葉は続く。
「魔裏界は地獄だ。高位の悪魔がわんさかいる。足手まといになったうえ無駄死にするくらいなら、ここで生涯を終えるよ」
悲しげな声は暖かみを取り返し、部屋を満たす。
「で、いつ頃出発するんだい?」
「荷物が整い次第、すぐに」
「そうかい。ハハ」
乾いた笑いだ。
ラノンサがコップを揺らし、ちゃぷんと音がした。
▶▷▶▷▶▷
翌日。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「気にしないでくれ。ここの者なら、誰だってああしたさ」
洞窟の、集落の出口。
俺と、シュゼと、ラノンサがいる。
「それと、ガルファム様から伝言があったんだ。
『はっきり言って期待していない。帰還を目指して死んだ奴など山ほどいる』とのことだよ。
でも、僕はそうは思わない。君たちは強い。あの数の怠惰級を蹴散らしたんだからね」
そして、最後に言う。
「頑張ってね」
「......はい!」
後ろを振り向き、歩き出した。
荷物の中には、彼らの食料を分けてもらった物がある。
他にも、色々な情報も貰った。
食べられる木の実とか、悪魔に効く毒草とか。
子供たちには、何とか言いくるめてくれるそうだ。
心配しなくても良いだろう。
ガルファムはあんな伝言をしたが、本気でそう思っているのなら、あんなこと言わない。
付き合いなんて無いに等しいが、そんな気がする。
同じ師匠を持ったよしみか。
他の人も、苦しいながら生きていた。
互いに支え合って、慎ましく暮らしていた。
部外者の俺たちにも、分け隔てなく接してくれた。
彼らは何も悪いことはしていない。
彼らの先祖だって、何もしていない。
それなのに、こんな所に連れてこられて。
自分で鏡を割った俺たちと違い、無理やり連れてこられて。
それでいて、いつ悪魔に襲われるか分からない恐怖と戦いながら生きている。
そんなのダメだ。
俺たちは、天世界へ帰る。
俺はミーヴのもとへ、シュゼはザルトのもとへ帰る。
でも、そのあと必ず戻ってくる。
彼らを魔裏界から助け出す。
神殿にこのことを伝えられたら、もっといい。
莫大な時間が掛かるだろう。
救えない命も出てくるだろう。
でも。
それでも。
絶対に。
「シュゼ」
「あん?」
「いつかこの人たちのこと、助けに戻ろう」
少しの沈黙の後、「ふっ」と笑い声がした。
「だよな」
今度は俺から笑い声が漏れた。
「はは。じゃあ、よろしくな、これから」
「おうよ」
赤い空に睨まれ、岩を踏みしめ歩き出す。
▶▷▶▷▶▷
魔裏界には、悪魔が溢れかえる。
魔裏界全体を満たす濃密な魔力から、悪魔は生まれる。
濃密な魔力の満ちる魔裏界に、色欲級などという雑魚は生まれもしない。
暴食級は強欲級に狩られる。
強欲級は、蔓延る怠惰級に殺される。
無知の怠惰級は、知性を持つ怠惰級が殺す。
知性がある分、同じ怠惰級でも強さに差は出るだろう。
彼らは天世界では"知性個体"と呼ばれる者共だ。
群れ、共に格下の悪魔を狩ったり、他の群れと争ったり、そんなことをして生きている。
生きるため。
死なぬため。
しかし、彼らは知っている。
自分たちがどれほど群れようと、儚く弱い存在だ、と。
憤怒級。
怠惰級をも凌駕する力を持った悪魔だ。
憤怒級は群れない。
群れる必要などないからだ。
群れずとも、他を圧倒する力を持っている。
皆、自身の縄張りを持つ。
怠惰級を配下にしたり、こき使ったりしている。
憤怒級が自分の元を訪ねた日には、誰もが恐れをなすだろう。
たが、彼らもまた知っている。
自分たちなど、"頂点"には程遠いと。
嫉妬級がいる。
計6人。
魔裏界を6分割し、1人1つの地域を支配している。
それぞれの支配領域の中で、服従を条件に憤怒級に縄張りを構えることを許している。
憤怒級たちもまた、従属を条件に怠惰級たちが群れて村を形成するのを許可している。
魔裏界の、頂点に君臨する悪魔たち。
そんな彼らが今日、ここに集まっていた。
「やほー、みんな」
桃色の髪に、頭の猫耳。
右目に色石を携える悪魔、アイリアが言った。
「アイリア。何故貴様はこうも遅れてくる」
顔中にシワの入った、老齢の悪魔、オクトブは不満げだ。
「いいじゃんいいじゃん。どうせディンセルより早く来れば問題ないでしょ」
「ふん」
「あらあら、アイリア。そう言って彼より遅く来たことが何回あったかしら?」
長い赤髪の女悪魔はからかうような口調で呟いた。
「やめろクォーリン。どォせ、こんなヤツに言ってもムダだ」
「えー? なにー? ザーナってば、ボクより弱いからって、嫉妬してるのー?」
「......チッ」
机の上に足を投げ出し、全身を黒い外郭で覆った悪魔、ザーナは舌打ちを漏らす。
表情は不機嫌を隠そうとしない。
普段から毛嫌いしてるのだろうと見てとれる。
そこへ、年端も行かなそうな、少年の悪魔がたどたどしく言う。
名は、ガノ。
「え、えと......僕は、別にいいと思うよ......」
「だよねだよね。ガノはよく分かってんじゃん! ジジイは頭が固いなぁ」
「若人が。早う座れ」
「はーいはい」
アイリアは空席に座る。
ザーナの憎しみの籠る視線が刺さるが、彼女の知ったことではない。
「で、なんで俺らは集められたんだよ。去年集まったばっかだろ」
「儂が知らんのだから、貴様らも知らんだろうよ。―――全く、鍛練の時間がどんどん無くなっていく」
「んだよ、時間なんて無限にあんだろーが」
「より早く、より強くなりたいと言っておる。怠け者には分からんかな」
「ケッ、そォかよ。ご立派なこった」
オクトブとザーナの会話が途絶える。
クォーリンが首を突っ込む。
「それはそうと、ザーナ。あなた、ロクな統治もしていないらしいじゃない?」
ザーナの目が細められる。
眉間にシワが寄る。
「だから何だってんだよ」
「そんなんじゃ、どこからか虫が湧くわよ?」
「ハッ、俺に勝てる奴なんざいねェよ。問題無ェ」
「だったらいいわね」
クォーリンの目線が、ザーナから外れていく。
弱者でも見るような目で......
そして机の反対側では、別の会話が行われた。
「ねぇクォーリン。キミの魔術、最近どう?」
「そうね、あまり進歩はないわ」
「あはは。そんなんじゃ強くなれないよ?」
「いいのよ。貴女やディンセルほどにならなくても、私の支配領域を統治できれば満足よ」
「ふーん。ガノは?」
「え、僕は、その......魔術じゃなくて、肉体的なのを頑張ってるから......ちょっと......」
「あー、キミの魔術リスク高いんだっけ? 相変わらず臆病だね」
「うっ......で、でも魔力は増えたよ。再生もちょっと速くなったし......」
「へーえ、いいじゃん。ちょっと試しに千切ってみよっか?」
アイリアがガノの二の腕を握る。
少しずつ力が込められる。
「いギっ! ......や、やだぁ......!」
「その辺になさい、アイリア」
「分かったよクォーリン。ガノも悪かったねー」
「う、うん......」
嫉妬級は談笑する。
ここが争いの世界であることを忘れてるように。
否。彼らはこの世界の頂点だ。
危機感など必要なかろう。
そこへ、最後の、最古の、6人目の悪魔が来た。
「―――珍しく俺より先に来たな、アイリア」
「当然。ボクが遅刻したことある?」
アイリアは顎を出して挑発的なポーズをとっている。
「そうか、馬鹿は数も数えられないか。―――さて、今回の召集は、天魔界鏡のことだ。俺の下に置いていた界鏡が、その効力を失った。つまり―――」
「どこかで天使が迷い込んだのか」
「そうだ、オクトブ。そして今、この魔裏界のどこかに、天魔界鏡がある。
去年と同じように、また探して俺の下へ持ってこい。持ってきた奴は、支配領域を増やしてやる」
ディンセルは席を立ち、場を去ろうとする。
しかし、それは止められた。
「あのさーディンセル。いっつも思うんだけど、なーんでボクらがそんなことしないといけないワケ?」
「何だと?」
アイリアの言葉に、ディンセルの目が光った。
「キミが掲げてる"目的"だって、ボクらからすればどーおでもいいんだけど。言ってみてよ」
アイリアは己の髪をいじりながら、軽い言葉で伝える。
ディンセルの背後から、若干の殺気が漏れ始めているが、気にする素振りは見せない。
気づいていないのか。
あるいは喧嘩で勝てると考えているのか。
「我々の目的は"あの御方"の―――」
冷たく、鋭い眼差しで、ディンセルは続ける。
「神が1柱、最悪の化身、悪魔神ルシフェル様の復活だ」
どす黒い声は耳を通り、脳に伝わり、震わせる。
殺気が嫉妬級たちを襲う。
「ひっ、ひぃッ!」
「何という気迫......」
「ぐっ......やっぱ嫌いだアイツら」
「化け物ね、ホント......」
それぞれが、考える間もなく思ったことを呟いた。
アイリアとディンセルのみが、視線を交差させていた。
「それが意味分かんないの。ボクらはそのルシフェル様が死んでから生まれたんだよ? 何に恩義を感じろってのさ」
「この魔裏界を満たす濃密な魔力は、全てルシフェル様の残滓だ。魔裏界に存在する全ての悪魔は、ルシフェル様に生み出されたということだ」
「知らないよ。天世界乗っ取れるって聞いたから、キミに着いていってるんだけど? 悪魔神様が復活してどうなるワケ?」
「去年、天世五魂神を人世界へ封印したろう。ルシフェル様は天使がお嫌いだ。だからこそ、復活なされた後に、天使の殺戮をご覧いただくのだ」
「天世界を"掃除"して、綺麗にしてから献上すればいいじゃん。その方が手っ取り早いし」
「主に仕えたことの無い者が語るな。あの方はそういう方だ」
殺気が空気を揺らす。
周囲にいた怠惰級以下の悪魔など、とっくに消滅していよう。
「は~ぁ......ほんっっと、キミ嫌い。ボクなんでキミと天世界旅できたんだろ」
アイリアが、右目に手を伸ばしたときだった。
「変幻武色―――」
鈍い音がした。
アイリアの顔に、自身の血がべっしゃり付いていた。
「あれ?」
アイリアの手、肩から先が消し飛んでいた。
「......」
ディンセルの血走った目がアイリアを刺す。
空気が歪む。
「......分かったよ。ちゃんと探すから、そんな怒んないでよ」
消えた手を再生させながら言う。
謝罪はしたが、誠意は無さそうだ。
「......ふん」
ディンセルの殺気が治まっていく。
その背中から黒い翼が生やされる。
ディンセルは飛び去った。
嫉妬級の悪魔たち
ディンセル
長い緑髪にエルフのような耳が特徴の男の悪魔。
アイリア
桃色の髪に猫耳が激しく主張された少女の悪魔。
クォーリン
長い赤髪にツノを生やした、紫色の肌の女の悪魔。
オクトブ
シワの走った老齢の悪魔。
ガノ
前髪の伸びた、幼い少年の姿をした悪魔。
ザーナ
青い肌を黒い外郭で覆った男の悪魔。