そのノートは思いを載せて
紫陽花にいくつもの大粒の雨が降り注ぎ、歓喜するようにその上を蝸牛が意気揚々と歩いていた。
梅雨前線が齎す大雨に打たれながら、少女はそれを尻目に青色の傘をさして走っていた。靴が雨水に濡れ、白い靴下に泥が跳ねることも厭わずに、高校からの帰り道を目的地目掛けて。
否、厭う厭わない以前に、17時12分の電車を逃すまいという思考が、頭の中を支配していたからである。
「うう、間に合うかなぁ…」
中学2年生の少女、中白芽唯は時計を一切見ずに友達と駄弁っていた、少し前の自分自身を恨んでいた。
駅前に建てられた、17時10分を示す時計台を見て、芽唯は漸く一息をついた。傘を閉じてポケットから定期を取り出し、改札に軽く触れる。
芽唯は走ったせいで頬が火照り、その清洌な肌にはところどころ汗が浮かんでいる。梅雨特有の湿気のせいで蒸発しないせいである。彼女がタオルを取り出してそれを拭いている間に、電車が轟音を立ててホームにやって来た。
芽唯が一車両目に乗り込むや否や、体にまとわりついたうざったい湿気が、車内にかけられた冷房によって一掃される感覚を味わった。
「うわー、結構泥ついちゃってるなぁ…」
誰に言うでもない台詞を吐いて、自身の足元を確認していた彼女は、昨日までそこになかったとある物を目にした。
「これって…」
「電車ノート」その土地土地の人々の思いを乗せて日本各地を旅するそれが、彼女の目の前にあったのだ。彼女は何気なくそれを手に取ると、パラパラとページをめくり、そこに書かれていた内容を流し見し始めた。
彼女の想像した通り、『〇〇参上!』『〇〇たんマジLOVE』等、くだらない書き込みが大多数を占めていた。しかし中には思い人に思いを馳せるものもあり、なかなか興味をそそられる。
せっかくの機会だし、と芽唯が書き込もうと、鞄、ひいてはペンケースからシャープペンシルを取り出したその時に彼女は一つの文章を見た。
『いつかあなたに…N.Mさんに届きますように。秋田県のK.Sより』
所謂思い人へのメッセージで、他人からすればいいとこ、頑張れくらいしか感想の出てこないものである。しかし芽唯の視線はその一点に奪われてしまっている。それは決して、秋田県という遠方で書かれたものだからという安直な理由ではない。
N.Mというイニシャルが自分のそれと違わぬことは偶然なのだろうか。彼女の頭には、今しがた引っ越し終えた電車を逃すまいという思考に取って代わって、それがでんと、傲慢にも横たわった。そいつは頑として動く素振りすら見せなかった。
「でもまあ…偶然だよね?」
そうしてノートと暫し睨めっこをし、時間が経ちたどり着いた結論はそれであった。脳内には住人が一人とていなくなり、入居者募集の看板が立てられている。
『↑それ私です(笑)多分人違いのN.Mより』
と、そのメッセージの下に付け加えるだけにとどめておいた。ノートに書き込んでいる人は大概書いた場所も記載しているので、彼女もそれに倣って追記する。
芽唯はノートを持って、自宅の最寄駅で電車から降りた。冷房の効いた空間を後にするには惜しいくらいの湿気と温度である。
芽唯は暑さで少しばかり苦痛に歪んだ顔をしながら、車掌室に電車ノートを預けて帰路に着いた。最寄り駅から家までは、1kmもないくらいである。
「K.S…何か忘れてるような?」
彼女は未だ雨の降り続く道を見て、傘を開きながら言った。
それから一年と三ヶ月が経ち、芽唯は中学3年生になっていた。中学生活は残り半年くらいなものだ。
中学2年生の梅雨真っ只中のあの出来事を、彼女はすっかりと忘れてしまっていた。別段覚えるべきこともないので当然のことである。
通い慣れた通学路を歩き、学校からの最寄駅へと向かう。17時12分の電車には以前と違って余裕で間に合いそうだ。
17時5分。手慣れた手つきで改札を通り、ホームへと足を踏み入れた。九月になって暑さのピークはとうにすぎたとは言え、まだまだ残暑はその鳴りを潜めることなく居座っている。
芽唯が以前と同様にタオルで肌を拭いていると、到着メロディが閑散としたホームにこだました。なんでもこの土地のアーティストの音楽が採用されているらしい。
やがてメロディをかき消す、レールと車輪とが軋んで発生する金切音のような音があたりに響いた。
芽唯は電車に乗り込んで一息ついた。冷房が熱を持った肌を優しく冷ましてくれる。
「…あ」
そこで、再び彼女は電車ノートを見つけた。長らく見ていなかった代物だが、恐らく彼方此方を行ったり来たりして、再度ここへ戻ってきたのだろうと見当をつけた。
芽唯は唐突に昔書き込んだことを思い出して、ノートを手に取ってパラパラとめくった。
相変わらずのくだらない書き込みはさておき、彼女の気になっている点は、以前に見たあのメッセージと、それに対する自分の記入について。もしかすると何かの偶然で返答があるかもしれないという思いに少し胸を躍らせながら、彼女はそのページを見た。
『↑それ私です(笑)多分人違いのN.Mより』
『K山S太という人物を、覚えていないでしょうか?貴方にこのメッセージが届くことを祈ります』
芽唯はK山S太という文字列を見た瞬間に、それを思い出した。昔小学校に通っていた時に、転校していった男の子のことを。彼の名前は確か、木山聡太といったはずだ。転校先も秋田だった。
そして、彼のことを好きだったことも思い出した。少女の脳内で恋心が再燃し、彼と過ごした数年前の日々が走馬灯のように駆け巡った。
まさか、そんな、なんて言葉は電車内ゆえに無論出せない。芽唯は顔に動揺の二文字を浮かび上がらせながらも、ペンケースからペンを取り出してその四文字を書き殴った。
『会いたい』
このノートが再度彼の元に届くなんていうのは、都合の良すぎる話だ。彼の名前を思い出そうと、連絡など取れようもないからどうしようもない。
芽唯はノートを持って、自宅からの最寄駅で降りた。一縷の望みを、一冊のノートに託して車掌室に預けた。
1kmもない帰り道は、歩くたびにその分伸びる魔法がかけられているかのように、長く感じられた。
月日の流れは早いもので、もう芽唯も高校一年生が終わって、終業式の午後、通学路を歩いていた。
あの四文字を書き込んでから、芽唯は聡太のことを思い続けていた。誰かから告白されようと、好きな人がいるの一点張りで断っていた。その思い人が遥か遠方にいて連絡もつかないというのだから、側から見れば狂っているとしか思えない。
芽唯だってそれは痛感していた。しかし、しょうがないとも思っていた。もはや呪いのように、聡太の顔が頭に浮かぶのだから。
普段の17時台の電車ではなく、13時台の電車に乗ろうと道を歩く。今年は春が来るのが早いようで、桜が既に七分咲きになっている。
芽唯は高校から一番近い駅に着くと、定期券を出して改札に触れた。やがて電車が来る。そこに乗り込むと、彼女はその一点に目を奪われた。
「電車ノート」がそこにはあった。彼が返事を書いてくれている確証などないのに、一目散にそれを取って、そのページを確認した。
『会いたい』
自分が書き殴った四文字がそこで今も生きていた。芽唯は視線をその四文字の下に向ける。そこに書いてあったのは——
『俺も会いたい。だから、会いに行くよ』
会いに行く、の意味を芽唯の脳が処理する前に、彼女が降りるはずの駅に電車が着いて、ドアが開いた。
「…っ!」
「久しぶり」
芽唯はノートを元に戻してから、衝動的に電車を降りて、聡太を腕いっぱい抱きしめた。彼も抱きしめ返した。
「会いたかった!」
「俺も!」
そのノートは今も、思いを載せて旅をしている。