3話『パンを携えて』
「ケホッ……ケホッ……」
アンジェリカは、自身の咳によって目が覚める。
そこはいつもの屋根裏部屋、埃っぽい空気とネズミにまみれた私の部屋だった。
(もう朝……ですか)
体と目の奥がズンと重く感じる。
思わず額に手を当ててみると、やはり熱があるようだった。
昨日水を浴びた事と、その後に頼まれた深夜の見回りが効いたのか、私は風邪をひいてしまったようだ。
「パンを買いに行かなきゃ……」
早朝にパン屋さんに向かうのが、私の一日の仕事始まりだった。
いけない、元気を出さなきゃ。
私が行かなければ、皆の食べる物がなくなってしまうもの。
「……よし」
私はふら付く足取りで城下町に出た。
いつもなら清々しい朝の空気も、ぼうとする頭では良くわからない。
「お嬢ちゃん大丈夫かい? 体調が悪いみたいだけど……」
私の様子を見かねたのか、パン屋の親父さんが心配してくださった。
いつも何かと、この人にはお世話になっている。
ここでご迷惑をかける訳にはいかないわ。
「ええ、大丈夫ですよ。このくらいいつもの事ですから」
私は無理にはにかむと、屋敷へと戻った。
ますます体が重く感じ、私は額に手を当てる。
(熱い……です、ね)
どうやら熱が上がってしまったようだ。
「アンジェリカ、体調が悪いみたいだねぇ? 大丈夫?」
起きてきた叔母様が私の様子にすぐに気が付いて、優しい声と共にお薬をくださった。
「……ありがとうございます叔母様」
私は受け取ったその粉末を飲み込んだ。
とても苦いはずの薬は何故か味がしない。
「これで今日も一日頑張れるわよね? あなたのような下女はやっぱり働いてこそですからね。それが幸せなのですよ」
もうろうとする意識の向こうから叔母様の声が聞こえてくる。
私は家に住まわせて頂いている身分だから、頑張って働いて少しでも恩をお返ししなくちゃ。
「……はい」
私は無理やり笑顔を作り、いつものように働きだした。
数分後、私の体に異変を感じ始める。
熱いわけでもないのに汗が噴き出し、体の震えが止まらないのだ。
「お嬢様……流石にお休みになられた方が……」
メイドさんが私に何か声をかけてくださっているが、声が上手く聞き取れない。
おかしいわ、背筋が凍るように寒い。
まだそんな季節じゃないのに。
そんなことを考えた瞬間、世界がグルリと反転し私の意識は途絶えた。
「苦しい……」
私はうなされていた。
息が詰まるような、まるで水中にいるかのような苦しさ。
溺れているのにいつまでたっても気絶できないような感覚。
「ぁ、ぁぁ……」
気が付くと私の歯が全て砕けていっている。
そんな、虫歯もないのに何故……?
嫌よ、待って。
慌てて口を押えたが、指の隙間からどんどんと歯が零れ落ちていく。
止まらない、止まらない。
『可哀そうなアンジェリカ』
とまどっていると背後から声がかけられる。
私は慌てて振り向いた。
「どなたですか?」
『もう18歳になるというのに、年頃の娘たちのように遊ぶことも無く叔母にいじめられて、すり減っていく日々』
その声の主は小さなネズミであった。
私はようやくここが夢の中である事を理解する。
「ネズミさん、私は今の生活で十分幸せですよ」
ネズミはゆっくりと目を閉じると、うなずく様にささやいた。
『本当に愚かで愛おしいアンジェリカ、君を幸せにしてあげよう』
ネズミは小さな指を振ると、そこから白砂糖のような光があふれ出す。
その光は星屑のように流れ、私の胸の中に吸い込まれていった。
『アンジェリカ、明日からは全てが変わっているよ。安心してお休み』
私は暖かな光と共に、安心感に包まれていく。
優しい羽毛のような感覚に、気持ちよく意識が薄れていく。
薄れていく……うすれ、て……
「まぁ! なんてことなの!」
屋敷に大きな叔母様の声が響き渡る。
朝に目が覚めると、私の姿は大きく変わっていた。
(夢の中で何か……思い出せません……)
頭頂部から生えた耳は大きく長く、まるでロングヘアーのように垂れ下がり、お尻の上にはフワフワのしっぽが生えていたのだった。
なぜか私はウサギの獣人になってしまったのだ。
「獣人なんて……汚らわしい……!」
叔母様が青ざめた顔で私を侮蔑する。
扇子の奥から罵倒の言葉を私に突き立てたのだった。
「あの……私、自分でもよくわかっていません」
話には聞いたことがある、獣人と呼ばれる動物と人のハーフのような種族が存在しており。
この国では不浄の象徴として、嫌われていたのだった。
「追放よ! 国外追放よ!」
叔母様は半狂乱になりながら、私を指差し叫んだ。
そこからはとんとん拍子で話が進み、私は衛兵さんに連れられて国を去る事になってしまった。
「ふん……そんな正体を隠していたなんてね。今までさんざんオモチャにしてきたけど、それすらも気持ちが悪いわ」
あんなに優しかった叔母様が豹変したかのように強い言葉を私に向けた。
いいえアンジェリカ、叔母様も状況が上手く呑み込めず動揺しているだけなんだわ。
「叔母様、長い間お世話になりました。ここでお別れですけれど、どうぞお元気で」
最後の時、叔母様はそっぽを向き私を見向きもしなかった。
悲しいお別れになってしまったけれど、ここで気を落としてしまってはいけないわ。
新たな環境に向けて私は元気を出した。
(そういえば、驚くほど体が軽いです。獣人は身体能力が高いと聞いたことがありますけど……)
その身一つで身支度とも言えないような準備を済ませ、私は国の門へと連行されていく。
連行される中、城下町では周囲から奇異の目が私に向けられていた。
「獣人ですって……」
「嫌だわ、不吉よ」
「初めて見たなぁ」
「お嬢ちゃん!?」
その中に一人、私を呼び留める声があった。
駆け寄ってきたパン屋の叔父さんが驚いている。
「この娘は獣人だという事がわかった、これから国外追放とする」
叔父さんを、厳しい声色で衛兵さんが制止した。
「せめてこれだけでも……」
戸惑いながらも叔父さんは、いつもの食パンを私に手渡してくれる。
なんてありがたいのでしょう、少なくともこれで数日は生きていけます。
「ありがとうございます叔父さん。さようなら」
挨拶もままならないまま、押し出されるように私は門の外へと締め出されてしまった。
ドスンと。
ゆっくりと大きく重い金属の門が閉じ、私の前には街道が広がっている。
「よし、くよくよしていても仕方がないわアンジェリカ。元気を出して頑張りましょう!」
私は獣人たちが暮らすという、動物の国へと向けて元気よく歩き始める。
その後ろ姿を、門の上から一匹のネズミが優しく見守っていた事には気が付くことは無かった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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