きみのいない空の下では 2
広い湖の上に、ぽつんと、イスが浮いている。
そこに、ラフロは座っていた。
腰のあたりまである長い髪は、紫紺色をしている。
白いティーカップを手にしていた。
紫紅の瞳が、水面を見つめている。
そこに、さざ波を立てる。
ラフロの紫紺の細い眉が、ほんの少し持ち上がった。
「よお、ラフロ」
「やあ、クヴァット」
「その名も、ついぞ聞かねぇな。今の俺は、ゼノクルって呼ばれてる」
「知っているよ。それは、20年前だかにも聞いたからねえ」
「そうだったか。人の時間ってのは、あっという間だな」
クヴァット、もとい、ゼノクルは、そう言って笑う。
20年ぶりの里帰り、といったところだ。
ラフロとは、かれこれ3百年ほどのつきあいだった。
ロキティスとのつきあいよりも、ずっと長い。
「人で遊ぶのに飽きたのかい?」
「いや、お前がどうしてるかなと思って、帰ってきただけだ」
「ふと思い出すには、おかしな時期じゃないか」
ラフロが、この国特有の茶を口にしながら、紫紅の瞳を細める。
ゼノクルの里帰りの理由を、知っているに違いない。
いつも、この湖にいるからと言って、外が見えないわけではないのだ。
ゼノクルは、湖の上に立っていたのだが、自分用のイスを出して座る。
ラフロが出してくれないと、わかっていたので。
「俺だって、驚いたんだぜ? こんなことってあるもんなんだな」
「きみは、相変わらず、私にさえ平気で嘘をつくねえ」
呆れたようでもなく、ラフロに言われて笑った。
どうせバレているのだから、嘘にもならない。
そんなことは、お互いに承知している。
ここを、人は「聖魔の国」と呼ぶ。
ラフロのような「聖者」と呼ばれる者と、ゼノクルのような「魔人」と呼ばれる者が住んでいた。
人とは違う摂理の中で生きている。
人間よりずっと長生きだし、肉体もあってないようなものなのだ。
だから「戻る」つもりなら、ここに長居はできない。
「20年前、きみに駄々をこねられて妥協したことを悔やませる気かな?」
「そう言うなよ、ラフロ。ありゃあ、お前のため……お前のせいでもあるだろ」
「そうやって、なんでも人のせいにするのも変わらないねえ」
「そもそも、お前が人間の女に関心を持ったってのに、俺は関心があったのさ」
「きみの娯楽好きは底なしで、困ったものだ」
言いつつも、ラフロは微笑んでいる。
特段に怒った様子は見受けられない。
もっともラフロが「人間みたい」に怒ることなどないのだが、それはともかく。
20年前。
ゼノクルはまだ、クヴァットとして、この国で暮らしていた。
たいした「娯楽」もなく、長く退屈をしていたのだ。
そこに、ラフロが「人の国」に行ったと知って、驚いた。
2百年ほど前から「人の国」には出入りができなくなっていたからだ。
「あれを作った女に、お前は入れ込んでたが、あの女は、その女とは違ったろ?」
「人の命は、2百年もは保たないよ、クヴァット」
「知ってるさ。だから、よけいに興味がわいたんじゃねぇか」
「フェリシア・ヴェスキルは、防御障壁を作った彼女に、とてもよく似ていた」
ここで言う「似ていた」というのは、外見や性格のことではない。
聖魔は、精神の「色」で相対を判断する。
なにかを比較したり、区別したりするときの基準も「人間」とは違うのだ。
20年、ゼノクルとしてやってきたので、その違いが、よくわかる。
「それで? 体の調子はどうだい?」
ふっと、ラフロが話題を変えた。
ゼノクルは、軽く肩をすくめてみせる。
「長持ちしてるんじゃねぇの?」
「私の時よりは、そうだね。相性が良かったのかな」
「さぁね。ガキの頃に借りたってのもあるかもしれねぇぞ」
聖者も魔人も、人にはない力を持っていた。
主に、精神に干渉する力だ。
あの忌々しい「防御障壁」ができるまで、聖魔の者は、娯楽場として「人の国」に自由に出入りしていた。
人間は、精神に干渉を受け易い生き物で、簡単に玩具にできる。
互いを争わせ、殺し合いをさせることさえ、容易だったのだ。
「それはあるだろうね。子供は自我が弱いから」
「おまけに、こいつは第1王子だってのに、疎まれてたしな」
人の精神に干渉するのは容易い。
が、人の体を「借りる」のは難しい。
3つの条件を満たす者は、なかなかいなかった。
いくらゼノクルが「駄々をこねた」としても、借りられる肉体がなければ、どうにもならなかっただろう。
そう、ちょうどいい具合に、十歳のゼノクル・リュドサイオが現れなければ。
「良い巡り合わせがあって良かったのじゃないかい?」
「こいつの母親は、頭のおかしな女だって言われてたんだぞ。魔人の血が、ほんのちょっと入ってたってだけのことでよ。失礼な話だって思うだろ?」
「そのせいで、その子の母親は娯楽好きだったのだから、しかたがないさ」
ゼノクルの母は、まだ「防御障壁」ができる前の時代に、魔人と交わってできた子の流れを汲んでいた。
ラフロの言うように「そのせいで」娯楽好きに過ぎたのだ。
魔人の好む娯楽も様々で、人間に害のあるものもあれば、ないものもある。
ゼノクルの母の血に交じっていたのは「害がある」ほうだった。
「夜な夜な、人を殺してたんじゃ、そう言われんのも、わからなくはねぇがな。人なんざ、大勢いるんだし、数十人くらい殺したっていいじゃねぇか」
「おやおや、その子として過ごしているうちに、母親に情でもわいたのかねえ」
「まさか。けど、魔人からすりゃ数十人なんて殺したうちにも入らねぇんだぜ? そんくらいで、頭がおかしいって言われたかねぇや」
だいたい、人間だって人を殺す。
その数は、数十人どころではない。
戦争という名の元に、万単位で死人を出しているではないか。
3百年も「人の国」を見てきたが、人間は聖魔から干渉を受けなくても、争いをやめない。
「おかげで、その子を借りられたのだから、文句を言うものじゃないよ」
「そりゃそうだ」
人の体を「借りる」には、ラフロの持っている「力」が必要だった。
が、その前に、条件が満たされている必要がある。
ひとつは、人間として「まとも」な血ではないこと。
もうひとつは、自我が弱い、もしくは、自分の意思を持たない者であること。
「こいつが、あの日、防御障壁を越えたのは、自分の血を確認したかったからだ」
これが最も難しい条件となる。
人間は、聖魔を恐れ、防御障壁を越えては来ない。
近づこうとさえしなかった。
そして、人として認識される「血」を持つ者は、そもそも、障壁を抜けられない仕組みになっている。
聖魔の存在は古くから知られており、恐れられてきたが、つい2百年ほど前まで人は対処不能だった。
なすすべもなく弄ばれてきたのだ。
その問題を解消したのが、何世代目かのラーザの女王。
人を守る壁を作った、ラフロの「想い人」でもある。
「あの女が、よけいなもん作らなけりゃ、こんな苦労せずにすんだのに」
「彼女は、素晴らしい存在だったからねえ」
ラフロの言葉に、ゼノクルは舌打ちした。
2人が聖魔として生じたのは3百年前で、防御障壁が作られたのが2百年前。
つまり、たった百年程度しか「人の国」で遊べなかったのだ。
その原因を、ラフロは「素晴らしい」と言うのだから、舌打ちしたくもなる。
「彼女に似たフェリシア・ヴェスキルも、素晴らしかった」
「ああ、そうかい。ま、お前が、人の国に行くほどだから、大層なことだ」
ラフロは、ゼノクルとは違っていた。
それは、聖者だから、魔人だからという違いではない。
人で「遊ぶ」という点では、聖者も魔人も大差ないからだ。
ただ、ラフロは特別に「変わって」いる。
ゼノクルも変わっていたが、ラフロには負けると思っていた。
ラフロは、ほとんどのことに無関心なのだ。
聖者の理は「関心」であるというのに、なにに対しても関心を持たない。
例外は、ヴェスキルの2人の女王だけだった。
「体が保たなくて残念だったな」
「本当にねえ。もう少し、彼女を知りたかったよ」
「どうせ百年も一緒にはいらんねぇんだ。しょげることはねぇさ」
「ちょっと前に、フェリシア・ヴェスキルの死を感じた時は、かなりしょげ返っていたのだけれど、その必要もなくなったな。きみも知っての通り」
ゼノクルは、にっと口元に笑みを浮かべる。
同じ時期に生じた「相方」だ。
ラフロに元気がないのは、つまらない。
駄々をこねて「人の国」に行った甲斐があった、と思う。
これでも、本当に、ラフロを元気づけてやろうとの気持ちはあったのだ。
もちろん、自分の「娯楽」のためでもあるが、それはともかく。
「それにしたって、クヴァット。きみは、要領というものを心得ていないねえ」
「行き当たりばったりのほうが、楽しいだろ」
「もう少しばかり上手くやってくれれば、私は待たずにすんだのだよ?」
「待つ? なにをだ?」
ラフロの手から、ティーカップが消える。
ラフロは、わざとらしく首を傾けた。
「あの子が、ここに来るのを」
「連れて来りゃ、いいだろ?」
「それが、そうもいかなくなったのさ。見てごらん」
湖の水面が、鏡のように光る。
そこに映っている光景に、ゼノクルは「あ」と声を上げた。
それから、頭をかきつつ、ラフロに苦笑いをしてみせる。
「あれじゃ、待つしかねぇわな。悪ィ、ラフロ」