回顧の暗闇 1
彼女は、毎日を目的もなく生きている。
やりたいことだとか、なりたい姿などというものはない。
物心ついた頃から「なにもなかった」のだ。
24歳になって半年。
このまま、適当に生きて、適当に死んでいくのだろうと思っている。
仕事をして生活を支え、無為に時間を過ごしていくに違いない。
そう思っていたからだろう。
急に、走った頭痛にも、対処しなかった。
眩暈がして、吐き気が襲ってきても、自分自身を放置したのだ。
なんとなく、どこかの血管が切れたような気はしたのだけれども。
(まぁ、いいか……生きるの面倒くさいし……そんなに苦しくないし……)
気持ち悪さはあったものの、手足の感覚がなくなっていくほうが速い。
おそらく死ぬのだろうと、悟っていたが、彼女は、足掻かなかった。
手を伸ばせばとどく距離にあった携帯電話を、掴もうとはしなかったのだ。
女手ひとつで育ててくれた母も、一昨年、亡くなっている。
本気で悲しむような人もいないだろう。
生きることに執着もなかったが、母親が生きている間は、死に対しての抵抗感のようなものはあった。
それは、こんな娘でも、死ねば母が悲しむとわかっていたからだ。
母の前でだけは「普通」をやり通してもいた。
仕事の不満をもらしてみたり、同僚の恋愛話をしてみたり。
少しでも「まっとう」に生きていると、母に思わせたくて頑張っていた。
(でも……もういいか……頑張らなくても……いいや……)
異様な寒さを感じ始める。
いよいよだな、とは思うが、予想以上に怖いとは感じられない。
むしろ、ホッとしていた。
たいした苦痛もなく死ねる状況なんて、そうそうないのだから。
ぷつ。
意識が、唐突に途切れる。
死んだのかな、と思う間もなかった。
のだけれども。
「は? なにこれ……」
体が、ものすごく軽い。
なにしろ、空を漂っている。
やれやれと溜め息をついた。
「幽霊って、本当になるもんなんだな……もしかして、ずっとこのままなんてことないよね……いやいや、それはないな」
そんなことがあるのなら、世界中、幽霊だらけになる。
その割には、幽霊の目撃談は少ない。
いずれ消えるからだろうと、自分に言い聞かせた。
ずっと幽霊のままさまようなんてごめんだったのだ。
変な話だが「せっかく死んだのに」という気分。
「どのくらいで消えるんだろ。死んだら、無になるって思ってたのにさぁ」
死んだ先のことまでは、考えていない。
ともあれ、生きている人と関わらずにすむのは確かだと言える。
そもそも、声が伝わるとも思えないし。
「あの……」
声に、ぎょっとした。
体は透けているが、一応、生前の姿を保っているようだ。
そして、空に漂っていても、周囲にあるものは見えている。
いつの間にか隣にいた少女のことも、見えていた。
無視しようか、と思う。
彼女は人と関わるのを好まないのだ。
相手が幽霊でも、感覚的には似たようなものだった。
「あなたは、この世界のかた?」
言われて、少女の姿を、まじまじと見つめる。
茶色の髪と瞳は、めずらしいものではない。
が、コスプレイヤーとしか思えないような西洋風ドレスを着ている。
色白なのは、幽霊だからなのか、そういう人種だったからなのか。
「どういう意味? 別の世界から来たとでも言うつもり?」
「実は、そうなのです」
人の趣味嗜好にケチをつける気はないが、芝居につきあう気もなかった。
コスプレは、ひとつの確立した文化だと思う。
とはいえ、同じ文化を愛でる者同士で分かち合うものだ。
生憎、彼女は、テレビやインターネットで見て「へえ」と感心する程度だった。
「ずいぶん凝った衣装だね。たいてい手作りするって話だけど、お金かかるんじゃない? 私、家庭科の才能ないから、わからないけどさ」
芝居かがった空気にはつきあえないが、現実的な話ならできなくもない。
これが、現実かどうかは別だが、それはともかく。
「いえ、本当に別の世界……別の次元から来ました」
はあ…と、溜め息をつく。
もう会話は諦めようと、口を閉じた。
なのに、その少女は諦めず、話しかけてくる。
「ここは変わった世界ですね。見たことのない機械がたくさんありました」
返事をしてはいけない。
言葉を返せば、言葉が返ってくる。
そして、どこまでもつきあわされるはめになる。
「実は、元の世界に戻りたくないと思い、誰かいないかと探しておりました」
死人が、なにを言っているのか、と思った。
仮に元の世界があるとして、戻ったところで、死人は死人だろうに。
「ですが、なかなか見つけられず、困っていたところなのです。あなたに会えて、ようやく安堵いたしました。これで、私は戻らずにすみます」
がっくりと肩を落とす。
つきあいたくはない。
ないが、会話を拒否しても、きっと少女は話し続けるのだ。
ならば、ひとまず、話を合わせることにする。
「その別の次元の世界に戻っても、死人は死人じゃん。どうせ死んでるんだから、戻ってもいいんじゃないの?」
「私は、特異な能力を持たされていたので、戻ると生き返ってしまうのです」
「生き返るのは、しんどいかもしれないね。私だって今さら生き返りたくないし」
少女が、ほんの少し困ったような顔をした。
が、すぐに表情を変え、曖昧に笑う。
「その上、18歳からやり直しですから、なおさら、生き返りたくありません」
「ていうか、その姿は18歳? 死んだ時の姿?」
「これは18歳の姿ですね。死んだ時は、21歳でした」
「3年も巻き戻しか。うわ。それはキツいなぁ」
同調しつつも、会話の内容については、一切、信じていない。
その少女の中の「設定」なのだろうと思っていた。
不毛だとは思うが、時間潰しくらいの気持ちで相手をしている。
「ちょうど、お母様が亡くなられた年に戻るようです。私の父は生きてはいるようですが、どこにいるのか知りません。お母様の死を、再び、受け入れなければならないことも、戻りたくない理由のひとつです」
「お母さん、亡くなったんだ。そっか」
ちょっとだけ心が動いた。
自分と似た境遇だったからだ。
彼女も、父親がどこの誰なのかを知らずにいる。
母は語らなかったし、あえて聞こうとはせずにいた。
話したくないから話さないのだろうし、父親に興味もなかったのだ。
「母と2人で暮らしていた頃は、生活が苦しくても、つらくはなかったのですが」
「なに? お母さん、再婚でもした?」
「再婚に、なるのでしょうね……」
ちょっとだけ、うんざりする。
とはいえ、つきあい始めたのだからしかたがない。
それっぽく振る舞うことにした。
「新しいお父さんができたんじゃないの?」
「その通りです。私には、新しい父ができました。義父は……母の前では、表に出すことは1度もありませんでしたが、どうやら私を憎んでいたようです」
う…と、思う。
作り話にしても、内容が重くなってきた。
(でも、まぁ、もう死んでるわけだし、聞いたって、どうしようもないんだから、聞き流せばいいか)
彼女は、適当に「ふぅん」とうなずいておく。
そもそも、人に対しても、自分に対しても関心がない。
親身に人の相談にのったこともなかった。
相手が幽霊であれば、なおさらだ。
「しかし、若くして死んだんだね。もしかして、その新しい父親に虐められて?」
「いいえ、違います」
「じゃ、病気? 事故?」
「……いいえ……私は、それなりに健康でしたし、外出することは、めったにありませんでしたから、事故に合うようなこともなく……」
少女の瞳が暗く陰りを帯びる。
別の次元云々はともかく、少女が死んでいるのは間違いない。
こうやって漂いながら話しているのが、その証拠だ。
となると、少女の死は、なにかいわくつきなのだろうと思えた。
(殺された、とか……? 嫌だなぁ。そういう話なら聞きたくないんだけど)
作り話だとは思うが、事実が含まれている可能性もあるのだ。
幽霊になったとはいえ、重過ぎる話は聞きたくなかった。
「私は、斬首刑になり、死にました」
彼女は、ホッと息をついた。
真実味のない言葉が出てきたからだ。
今時「斬首刑」なんてあるはずがない。
死刑ならまだしも、斬首刑だなんて、あまりに「物語的」に感じられる。
「斬首刑になるような罪ってなに? 私、そっち方面、詳しくないんだよね」
小説は、ほとんど読んだことがなかった。
想像力が足らなかったせいかもしれない。
活字と言えば教科書か、仕事関係のビジネス書。
幼い頃、母が読み聞かせてくれた絵本の類も、実は興味がなかったのだ。
「それは……冤罪でしたが……」
少女が顔を歪ませる。
演技にしては、堂に入っていた。
本気で苦しんでいるように見える。
「姦淫の罪です」
突拍子がなさ過ぎて、彼女は返事を忘れた。
いくら「そっち方面に詳しくない」とはいえ、その罪がどういうものかくらいは知っている。