今さらだったとしてもなお 4
「大好きですよ、キャス」
フィッツが、にっこりしていた。
微笑み返そうとしたとき。
ぱす。
フィッツの体が、ゆっくりと倒れてくる。
無意識に、その体を抱きとめた。
なにかが手を濡らしている。
「フィッツ……? フィッツ……?」
体を揺すっても、フィッツは返事をしない。
呼べば、いつだって返事をしてくれたフィッツが返事をしてくれないのだ。
手が、ぬるぬるしている。
生暖かいそれがなにか、頭の端では理解していた。
「……やだ……フィッツ……置いてかないでよ……置いてかないって……」
有り得ないと言っていたくせに。
フィッツは、独りで逝ってしまった。
自分は置き去りにされたのだ。
「逃げてなんかあげない……置き去りにしないって約束したじゃん……私、言ったよね? 約束を破ったのはフィッツだよ……だから、逃げたりしない……」
こんなところで。
逃げて、たった独りで生きていく理由が見つからない。
フィッツがいたから、生きていたいと思えた。
フィッツがいないのなら、自分の命なんて無意味だ。
どうでもいい。
フィッツの体が重かった。
まだぬくもりは感じる。
なのに、胸は鼓動を打っていない。
こんなことなら、自分が死んだほうがマシだ。
自分が死ねばよかったのだ。
もとより1人で逃げる気だったのだから、それを貫いていればよかったのだ。
自分と関わらなければ、こんなことは起きなかった。
フィッツの死を、彼女は認められずにいる。
さっきまで話していて、笑ってさえいた。
ずっと穏やかな日々が続くのだと信じていたのに。
あっという間に崩れ去ってしまっている。
「……私が、フィッツに変わることを、望んだからかな……だから、こんなことになっちゃったのかな……わかりたいとか、わかってほしいとか思わなきゃよかったのかな……結局……フィッツを巻き込んじゃったよ……私が……」
心が、ばらばらになっていた。
苦しくてたまらない。
逃げろと、生きてほしいと言われたが、フィッツの傍から離れられずにいる。
どうして。
そう思った。
自分たちは、穏やかに静かに暮らしたかっただけだ。
誰の邪魔もせず、誰にも邪魔されず、2人でいたかった。
それだけだったのに、どうして、こんなことになったのか。
わかっている。
もしかしたら、もっといい方法があったかもしれない。
2人で逃げることもできたかもしれない。
その方法を、考えなかった。
フィッツに任せて、なにもせずにいた自分のせいだ。
坑道で、彼女は「選択」から逃げている。
人の死に関わるのが怖かった。
ディオンヌの死の責任を、明確には負わなかったのだ。
しかたないとだけして、受け流している。
ディオンヌの死を悼む気持ちは、今もって、ない。
先に命を脅かして来たのはディオンヌだからだ。
だとしても、ディオンヌの死は、自らの決断によってなされるべきだったのだと思い知った。
フィッツに、ディオンヌを含め、フード男たちを殺せと命じるのが、自分の責任だったのだ。
フィッツを渡すのも、鉱山の人たちを死なせるのも嫌だと思ったのは、自分なのだから。
もし、そうしていれば、少なくとも決断の是非を自分に問うただろう。
そして、今回も、自分で決断できた。
フィッツを地下に残し、自らで戦う。
そういう選択ができたに違いない。
綺麗事で人を救えないのなら、汚すべきは自分の手。
あの時、フィッツ任せにして、安全圏に身を置いた。
これは、その結果なのだ。
決断と責任の重さから逃げた、弱い心が招いた現実。
(わかってた……殺されたくなきゃ、殺してしまえばいいってさ……それで逃げてしまえば……人質が人質にならなくなるって……フィッツも……わかってたよね)
1度、脅しに屈すれば、それが弱みになると相手に教えることになる。
自分にもわかる程度のことが、フィッツに分からないはずはない。
仮に、外に仲間を潜ませていたとしても、ディオンヌたちを殺して2人が逃げたあとに、鉱山の者を殺したところで意味はないのだ。
つまり、人質が人質ではなくなる。
ただし、手早く実行する、ということが条件だった。
フィッツは「皇太子を誘き寄せた」と言っていたし、おそらく近くまで来ていたに違いない。
ディオンヌたちを拘束して、彼女に見えないところまで運んで殺す、なんていう時間はなかったのだ。
以前のフィッツなら、躊躇いなく殺すか、カサンドラを連れて逃げるかしていただろう。
けれど、フィッツは、そのどちらも選ばなかった。
鉱山の人たちを見捨てることはせず、「確実な死」でもって解決づけるのも避けてくれたのだ。
彼女が「犠牲を好まない」から。
心の逃げ道を与えてくれた。
あの頃から、フィッツはティニカを外れかけていたのだろう。
単純に「歩み寄ってくれた」なんて喜んでいた自分が愚かしい。
ティニカの鎖を断ち切ることで、多くの危険をフィッツに背負わせていた。
同じだけの危険も責任も、負わずにいたくせに。
(私が足手まといで……だから、こんな……)
人のざわめきと足音が近づいてくるのを感じる。
フィッツの言っていた「アトゥリノの兵」だろう。
彼女は、フィッツを横抱きにしながら、上半身を起こした。
なにもかもが今さらだ。
取り返しはつかない。
そんなことは、わかっている。
わかっていても、許せなかった。
自分の甘さが、フィッツを殺したのだ。
アトゥリノ兵の姿が大きくなっている。
手に武器を持ち、2人を囲むようにして走って来るのが見えた。
すぐにも取り囲まれるだろう。
『なんで、こんなことするんだよ』
彼女は、意識して言葉を使った。
暗い感情に支配されている。
今さら、なにをしたって、なにも変わらない。
それでも、感情を抑えられなかった。
自分勝手さは承知している。
けれど、フィッツを奪った者たちの姿に、理性は用をなさない。
悲しみと怒りが、彼女を覆いつくしていた。
『私たちが、あんたらになんかした?! 皇宮から逃げただけじゃん!!』
アトゥリノの兵が、一斉に足を止めている。
なにもないはずの空を見上げていた。
そこに、なにが見えているのかになど興味はない。
ただただ、悲しくて腹立たしかった。
『追っかけてくれなんて頼んでないっ!!』
涙があふれてくる。
フィッツの体は傷だらけで、足からも背中からも、そして頭からも血が流れ落ちていた。
それが、彼女の手を濡らしているのだ。
フィッツと過ごした日々が、頭に思い浮かんでくる。
最初は、少々、頭のイカレた男だと思い、適当にあしらっていた。
なのに、フィッツは、いつも恭しく会釈をしたりなんかして。
(……だから……言ったんだよ……頼ることに、慣れたあとで……1人になったら困るって……途中でいなくなるなら……最初からいらないって……)
あの時は、こんなにフィッツが大事な人になるとは思っていなかったのだ。
フィッツが「自死する」とか言うものだから、しかたなく側に置いていた。
役に立つし、助かるな、という程度の気持ちしかなかった。
けれど、いつしかフィッツと行動をともにするのが、当たり前になっている。
1人では身動きもできないくらいに。
『なんで放っといてくれないんだよッ!』
ティニカの隠れ家で、フィッツを遠ざけようとした。
けれど、予想外にも、フィッツは、それを嫌がったのだ。
思えば、フィッツから近づいて来てくれたと言える。
ひと晩かけて考えた。
そう言って、フィッツは心の裡を晒し、彼女を抱きしめてきたのだ。
驚いたけれど、嬉しかった。
あの穏やかな日々の中で、お互いに変わりつつあったのは確か。
あのさぁ、フィッツ。
はい、姫様。
声をかけると、いつも返事をしてくれた。
そのフィッツは、もういない。
いないのだ。
『返してよ!! 私の大事な人……私のフィッツを返してよっ!!』
政治的なことや、ほかの者たちの思惑など知らない。
関係ない。
はっきりしているのは、目の前にいる者たちが自分からフィッツを奪ったということだけだ。
アトゥリノの兵たちの瞳が虚ろになっていく。
ぼうっとして、どこを見ているのかわからない目つきに変わっていた。
次々と、地面に腰を落としている。
口から涎を流している者もいた。
その中を、誰かが走って来るのが見える。
見たことのある顔だ。
肩に銃を下げている。
ベンジャミン・サレス。
名が、彼女を刺激した。
知った顔であろうが、それなりに会話をしていた者であろうが、許す気はない。
あの銃で、フィッツは殺されたのだ。
あいつが、と思う。
『どいつもこいつも……』
どんな理由も理屈も通用しない。
どうでもよかった。
カサンドラは、フィッツの体を強く抱きしめる。
そして、空を見上げ、叫んだ。
『壊れてしまえ!!!!』