乖離の成果 3
フィッツの場合は愛称ではなく、単なる「呼び名」だが、人が、人を愛称で呼ぶことがあるのは知っている。
その条件は「親しい間柄であること」だ。
だから、どうしてもカサンドラを愛称で呼びたい。
なのに、口にしようとすると、言葉がうまく出て来なくなる。
フィッツは、カサンドラが湯を浴びている浴室の前に立っていた。
安全は確保されているため、見張りはいらないのだが、離れがたかったのだ。
もちろん、中に入ることは、もうしない。
カサンドラは「別にいい」と言ってくれているものの、アイシャの言葉を、忘れられずにいる。
(私は、姫様と恋仲ではないし、夫でもない。不必要に裸身を見るのは破廉恥だ)
思いながら、胸のあたりを、ぎゅっと握りしめた。
今まで、考えもしなかったことを、考えてばかりいる。
ティニカでは教わらなかったので、自分で考えるよりほかない。
その中で、思考を中断したくなることも、ままある。
カサンドラといると楽しいのに、苦しい。
愛称で呼びたいのに、呼べない。
それが、なぜなのか、わからなかった。
考えても、答えがみつけられないのだ。
(私は、おそらく、普通ではないのだろうな)
人は、人から産まれる。
親が子を育てる。
親を亡くしたり、親に捨てられたりする子がいるのは知っていた。
だとしても、比喩ではなく事実として「親がいない」子はいない。
だが、フィッツに「親」はいないのだ。
フィッツの中の「当たり前」は、ティニカでのもので、一般的ではないのだと、ようやく気づいている。
そもそも、ほかの基準なんて考えたことがなかった。
ティニカの教えの上に、フィッツの命は成り立っていたからだ。
(姫様がヴェスキルの継承者でなくても、私は、やはり傍にいたいと思っている。ティニカとしては、失敗作だ。お仕えする前なら処分されていた)
ティニカでは、ヴェスキルの継承者を守り、世話をする者が作られている。
候補は複数いるのだが、最も優秀な者しか必要とはされない。
あとあと面倒なことにならないように、選ばれなかった者は処分されるのだ。
フィッツは、自分と同じく作られた者たちが処分されるのを目にしている。
なんとも思わなかった。
不要な者が処分されるのを、ごく自然に受け止めている。
フィッツ自身、カサンドラに「不要」と見なされれば、いつでも自死するつもりでいたのだ。
ティニカの存在理由は、それしかないから。
(しかし、姫様は、私がいいと言ってくれた。私がいなければ困るとも……)
ふっと、胸が軽くなる。
知らず、胸から手を離していた。
たとえティニカとしては出来損ないであっても、カサンドラが必要としてくれるのなら、それだけでいいと思える。
(……愛称で呼べるようになったら……姫様と私は、恋仲になれるのだろうか)
今度は、胸の奥が、ぽっぽっと熱くなってきた。
最近、よくこうなる。
不快ではないが、落ち着かない。
「フィッツ~、いる~?」
「は、はい。います。なにか必要なものがありますか?」
「ごめんごめん、用があったわけじゃなくて、いるかなって思っただけ~」
浴室内から、歌うような声が響いていた。
また、うまく言葉で表現できない感覚が胸に広がる。
無意識ではあるのだが、フィッツの口元に笑みが浮かんでいた。
声が笑っている。
そう感じたのだ。
何年も仕えてきて、その間、カサンドラは、いつも淡々としていた。
とくに女王の他界後は、ひどく冷静で、何事にも動揺しなくなっている。
感情に揺らぎがなく、落ち着いていた。
それまでは、皇太子に会ったあとやなんかには、感情の揺らぎがあったのだ。
明確に言われたわけではないが、皇太子に好意をいだいているのは察していた。
あれほどに無関心さを示されていて、なぜ好意的になれるのかはわからなかったものの、フィッツにとっては関係ない。
関係なく「使命」を果たすべく、行動している。
(私も、姫様ご自身には、無関心だった……? 姫様が言っていたのは、こういうことかもしれない。ヴェスキルの継承者だからと……)
ティニカは「ヴェスキルの継承者」であることを、なにより重要視する。
もとより、ティニカ自体が、ヴェスキルのために作られた家門からだ。
千年ほども続く歴史の中で、その思想は変わらず存在し続けている。
今だって、どこかで「ティニカ」は作られているのだろう。
ティニカは変わらない。
けれど、自分は変わった、と思う。
たとえば、今、正当なヴェスキルの継承者が見つかったので、その者に仕えろと言われても、彼女の傍を離れる気はない。
以前とは、真逆の思考になっている。
別人になろうが、その血の1滴までもがヴェスキルならば、それが、フィッツの仕えるべき理由だった。
なのに、今は、ヴェスキルの血がどうでも、彼女の傍にいたいと感じている。
しかも「仕える」との意識とは、異なる感覚もあった。
「お待たせ、フィッツ」
きゅうっと、胸が締めつけられる。
カサンドラが、自然な笑顔を、フィッツに向けていた。
一緒にいると楽しいのに、苦しい。
当たり前に笑ってくれる彼女に、どう応えればいいのかすら、自分には、わからないのだ。
それは、きっと「普通」ではないからに違いない。
身の程をわきまえるべきなのかもしれないが、できなかった。
「え? フィッツ? どしたの?」
フィッツは、許しを得ることも忘れ、カサンドラを抱きしめている。
自分でも、自分の中に、そうした「衝動」があるとは知らずにいた。
だが、ただ彼女を抱きしめたかったのだ。
「なに、寂しかった? だったら、入ってくればよかったのに」
「そんな破廉恥な真似はしません」
「フィッツならいいって言ってるじゃん」
「なぜ、私ならいいのですか?」
「ん~、下心がないからかな。別に、私の全裸なんて見飽きてるでしょ?」
抱きしめた時と同様、唐突に、パッと体を離す。
ものすごく居心地が悪い感覚があった。
こんな感覚も初めてで、理屈がついてこない。
まるで自分の言動を分析できないのだ。
「私には、下心がないのでしょうか?」
「なに言ってんの、フィッツ」
「下心があるのかないのか判断できません」
「はあ? 下心の意味はわかってるんだよね」
こくり。
フィッツとて、男女の親密な関係がどういうものかはわかっている。
同意のあるなしとは無関係の「下心」が存在するという知識もあった。
だが、自分の感覚が「下心」によるものかは、判断できずにいる。
「先ほど、愛称で呼べるようになったら、姫様と恋仲になれるのだろうかと思っていました。それから以前も言ったように、姫様を抱きしめたり、口づけたり、肌にふれたいと思っています。これは、下心でしょうか?」
「う、うーん……そっか……」
「申し訳ありません。自分で判断ができないのです」
「フィッツさ、ほかの人にも、そういうことしたくなる?」
問われている意味がわからず、フィッツは、少しだけ体を離した。
そうしなければ、カサンドラの顔が見えないからだ。
カサンドラに、呆れたり、怒ったりしている様子はない。
「ほかの者に対しては、必要があるかどうかの判断はしますが、したくなることはありません」
「そんな必要ないから」
「ですが、姫様をお守りするのに……」
「じゃあ、フィッツのためなら、私があいつとキスしてもいいんだね」
ちらっと、想像が頭をよぎる。
「……い、嫌です」
体が、ふるふるっと震えた。
今までも、何度か「嫌だ」と感じた事象はある。
が、これは中でも最大級の「嫌」だった。
不快も入り混じって、背筋が、ざわざわする。
「私も、フィッツが誰かと、そういうことすると、同じように感じるんだよ」
「嫌なのですね」
「嫌だよ」
「わかりました。しません。ですから、姫様もしないでください」
「わかった。しない。でも、フィッツが誰かとしたら、私もするからね」
「肝に銘じておきます」
カサンドラが「しない」と言ったので、ひとまず安心する。
自分がしなければ、彼女もしないのだ。
ならば、たとえ「ティニカ」が必要だとする場合であっても、しないと決める。
彼女が誰かと親密になるのは「絶対」に嫌だった。
最善ではなくとも、カサンドラを守る別の手段を考えればいい。
「それとさ、フィッツ」
「はい、姫様」
「フィッツは下心あってもいいよ。私も前に言ったけど、フィッツなら嫌じゃないからさ。あ~、でも、やっぱりキスとかは愛称で呼べるようになったらだね」
声が笑っている。
カサンドラは自らを「意地悪で性根が悪い」と言うし、優しいという感覚も漠然としたものには違いない。
それでも、フィッツは彼女を「優しい」と感じる。
自然に、笑みを浮かべ、うなずきながら言った。
「全力で努力します」




