感情の機微とはいかばかり 4
フィッツが、体を折り曲げ、カサンドラを、ぎゅっと抱きしめている。
今日のフィッツは、様子がおかしい。
(混乱させちゃったかな。私も混乱してるけど……ていうか、フィッツのは、混乱じゃなくて錯乱かも……)
たぶん、おそらく。
こういうのは「ティニカ」らしくない。
自分の言葉と「ティニカの使命」との間で、フィッツの思考回路が、異変をきたしているとも考えられる。
フィッツは、使命のために作られ、そのためだけに生きてきた。
なのに「ティニカらしくない」行動を望むようなことを言ってしまったのだ。
大いに、フィッツは悩んだに違いない。
フィッツの存在理由の元となっている「ティニカの教え」と、その教えの中心にいるカサンドラの言葉との間で板挟み。
彼女の言葉に忠実であろうとすれば、ティニカの教えに背くことになり、使命を優先させれば、カサンドラの言葉を無視することになる。
しかし、命の危険が伴うわけでもないのに、主の言葉を無視するのは、それこそ「ティニカの教え」に背くことになるのだ。
フィッツには、自らが「どうしたい」がないので。
その無限ループの中で、思考回路が、ぶっ壊れたのだろうか。
いわゆる「ショート」「パニック」といった状態なのではなかろうか。
「あ……申し訳ありません、姫様……」
サッと、フィッツが体を離した。
なんとも言えない気分になる。
「フィッツ、ちょっと、ここに座って」
ぽんぽんと、ベッドの上、自分の横を軽く叩いた。
フィッツは、思考回路が、ぶっ壊れているのかもしれないが、そうとは見えないほど、あっさりと指定された場所に座る。
「フィッツは、私がヴェスキルの継承者だから大事にしてくれてるんだよね?」
「そうですね。それが、私の使命です」
「じゃあ、もし、今、私が、実はヴェスキルの血を受け継いでない、って言ったらどうする? 女王が、ラーザを離れたあと、本当に出産したかわからないでしょ。逃げる途中で、なにかがあって無事に産まれなかった可能性もある。そのあとで、たまたま捨て子を拾ったかもしれない」
フィッツの中で、その可能性が何%くらいだと計算されているかは不明。
だとしても、フィッツなら「無視できない」数値として存在はするはずだ。
実際には今のは作り話であり、カサンドラは確かにヴェスキルの継承者なのだが、それはともかく。
「姫様がヴェスキルの継承者でなかったら……どうすればいいのかわかりません」
「だよなぁ。フィッツの使命は、ヴェスキルの継承者に対してのものだからさ」
「なぜ、そんなことを言うのですか?」
フィッツは、うなだれるようにして、肩を落としている。
アイシャに「破廉恥」と言われた時以上に、しょんぼりしているように見えた。
「私に、こだわりがないからだよ。継承者としての自覚なんてないしさ。ラーザの女王として生きることも考えられない」
「では、私のことは、どうするのですか?」
「ん?」
「私はヴェスキルの継承者を守り、世話をする者です。姫様が継承者でなければ、私は、どうなりますか?」
「どうって……」
いよいよ、フィッツが、しょんぼりしている。
フィッツの「使命」からすると、継承者ではないとなれば、すぐに見捨てられ、見殺しにされてもしかたがないと思っていた。
わずかな「継承者ではない」可能性であっても見過ごしにはせず、今さらにでも確認しようと動き出すのでは、とも考えていたのだ。
が、そういう反応は、まったくない。
ただただ、しょんぼりしている。
そのフィッツが、ぽつりとつぶやいた。
「姫様が、継承者でなければ……私が、姫様の傍にいる理由がなくなります……」
え?と、肩を落としているフィッツの横顔を見つめる。
そもそもフィッツはカサンドラに嘘などつかないが、嘘ではないとわかった。
本気で「それ」を心配し、しょんぼりしているのだ。
「あ~、ええと……」
「私は、どうすればいいのですか? どうなるのですか? 姫様は99.98%、ヴェスキルの継承者です。ですが、0.02%、継承者ではない可能性も残されているので……その場合、私は、姫様の傍にいられる権利を失うではないですか」
「権利って……」
「ティニカは、その権利を有しています。それは、使命があるからであり、姫様が継承者であることが前提です。その前提が覆ってしまえば……」
なにやら、思わない方向に話が向いている。
気がする。
「フィッツは、私がヴェスキルの継承者でなくてもいいと思ってんの?」
「思いません。困ります。それでは権利の行使が……」
「あ、うん。わかった。言いかたを変えよう。えーと、私は、権利なんかなくても傍にいていいと思ってるよ。フィッツが、傍にいたいならね」
「いいのですか?」
パッと、フィッツが顔を上げた。
驚いているというか、信じられないといった顔をしている。
きっと「ティニカの教え」にはないものだからだ。
「いいよ。私が継承者であってもなくても、使命とか権利とかに関係なく、私は、フィッツと一緒にいるのが楽しいし、傍にいてほしい」
ぱぁっと、フィッツの表情が明るくなった。
口元が嬉しそうにほころんでいる。
初めて見る「笑顔」だ。
「フィッツ、ちゃんと笑えるじゃん」
「笑っていると気づきませんでした。笑みを浮かべる訓練はしていたので、それが出たのかもしれませんね。なぜ出たのかは、わかりませんが」
「そういうんじゃないと思う。私に、わざと笑う理由なんてないでしょ」
「それもそうですね」
返事に、小さく笑う。
思考回路が、ぶっ壊れたのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
フィッツは「ティニカの鎖」を、ぶち切ったのだ。
まだすべてではないのだろうが、そのうち、すべての鎖をフィッツ自身の心で、断ち切るに違いない。
「でもさ、私は、フィッツといるのが楽しいけど、私って、一緒にいて楽しい相手とは思えないんだよね。なんで、そんなに一緒にいることにこだわるのか、わからないなぁ」
「私にも、よくわかりません」
「わかんないのか」
「はい。私は、自分が足手まといだと承知しています。姫様1人のほうが、安全に動けることも知っています。それでも、姫様と離れたくないのです。傍にいたいと思います。それに、姫様が遠くなると苦しくなります」
置き去りにされるのを心配している、というふうには感じられなかった。
なにか、もっと切実なものが伝わってくる。
「いっつも近くにいるでしょ? 私、1人で出かけたことないよね?」
「いえ、そういう距離のようなものではなく……夕べのように……姫様が……私に背を向けて……どう言えばいいのか……」
思い出すと、その時の感覚がよみがえってくるのだろう。
フィッツが無表情なりに、顔をしかめている。
ちょっぴり眉を寄せているのだ。
(そっか。昨日は、私も自分のことでいっぱいいっぱいで、フィッツのこと、突き放しちゃったんだよね)
自分の心を守ろうと必死で、そのための「壁」を作った。
フィッツの言う「遠くなる」とは、心の距離のことだ。
ようやく理解が追いついて、ホッとする。
今朝は「フィッツと距離をとる」ことを考えていた。
もし、実際にやっていたら、フィッツを傷つけていたに違いない。
(あ……全然、気づいてなかった……そうか、そうだよね……そうだよ……)
フィッツは「人」であり、自我もある。
そこまでは考えられたのに、肝心な部分には気づいていなかった。
フィッツも「傷つく」ということに。
自我があるのなら感情だってあるのだ。
感情の中には、精神的な痛みや苦痛もある。
他者の行動や言葉に傷ついたり、悲しんだり、自分の言動にすら人は傷つく。
フィッツは、それがなにか学ばなかっただけで、感じていなかったのではない。
「じゃあさ、そういう時は、こうしよう」
彼女は、両手を伸ばし、フィッツを抱きしめた。
とくんとくんと、鼓動が伝わってくる。
自分の体温が、フィッツのぬくもりとして浸透すればいい。
同時に、思う。
お互いに生きていて、だからこそ、あったかいのだ。
背中に、そわっとフィッツが手を回してきた。
ちょっぴり、おずおずといった感じに、口元がゆるむ。
さっきは、がばっと来たからだ。
「あのさぁ、フィッツ」
「はい、姫様」
少しずつ、自分もフィッツも変わっていけばいいのだと思える。
自分の命にも、もっと執着できる気がした。
継承者の血が途絶えるという理由ではなく、フィッツが寂しがりそうだから。
「もっと近づくための第1歩なんだけど、フィッツには頑張ってもらいたい」
「鋭意、努力します」
「できるかなぁ。できるといいなぁ」
「全力で、努力します」
ほかの人にはなんてことなくても、フィッツには難しいことに違いない。
けれど、またひとつ。
ティニカの鎖が断ち切れればいい、と思いながら、言う。
「私の愛称は、キャスだよね。だから、私をキャスって呼んでみてよ」




