想定であって想定でなし 3
自分は「ティニカ」に背いている。
顔を地面に叩きつけられながら、フィッツは、そう思った。
後頭部を何度か蹴りつけてきた足は、遠ざかっていない。
そのまま、ぐりぐりと捻じるようにして踏みつけてくる。
顔が地面にこすれていた。
(姫様は迷っていた。困っていたのだろう)
どちらかを選べと言われて、選べずにいたのだと感じる。
カサンドラをかかえ、この場を離脱するのが最善だった。
ラーザの民とて、それを願うはずだ。
カサンドラに「死なないように」と言われていたとしても、いざとなれば自らの命を惜しみはしない。
わかっているのに、フィッツは「最善」とは、ほど遠い行動を取っている。
カサンドラが、鉱山の者たちを死なせたくないと考えている、その意思に、従うことにした。
自分でも、よくわからない。
こんな行動は、カサンドラの命を危険に晒すだけなのに。
馬鹿な真似をしている。
本当に、そう思っていた。
間違っているとも思っている。
フィッツの使命は「カサンドラを守り、世話をすること」なのだ。
そういう生きかたしか、フィッツは知らずに生きてきた。
「やめてよ! フィッツは大人しくしてるじゃん! そこまですることないっ! 私に怒ってるなら、私を殴れば?!」
カサンドラの感情の乱れが伝わってくる。
それが、なんだか嬉しかった。
カサンドラは、喜怒哀楽が少ない。
フィッツも似たようなものだが、常々、それを不思議には思っていた。
同じ年頃の女性は、怒ったり喜んだりと忙しい。
だが、彼女の場合、淡々とした、ほとんど動揺しない感情の有り様は、フィッツの前でも変わらなかったのだ。
もちろん、カサンドラは、ほかの女性たちとは違う。
ヴェスキルの継承者だ。
行動や感情の原理が異なっているのは、むしろ当然かもしれない。
とはいえ、ここ最近のカサンドラは、ヴェスキルの継承者らしくはなかった。
本人も「別人になった」と言っている。
そのせいだろうか。
会話がない頃よりも、カサンドラを遠くに感じた。
臣下だからという以上に、越えられないものがある気がしたのだ。
彼女は「独り」の中に、身を置きたがっている。
最初は、自分が「足手まとい」だからだと思った。
けれど、隠し通路で、初めて手を繋いだ時から、なにかが変化し、次第に認識も変わっていった。
本当には、足手まといでも、不要でも、別のところで、彼女は自分を必要としてくれているのではないか。
なのに、独りになりたがるのは、彼女自身が、己を「置き去り」にしようとしているからなのではないか。
明確にではないが、漠然と、そんなふうに感じている。
だから、淡々としている彼女を見ると、不安になった。
笑っている姿に安心した。
彼女は、自らの命を、どうでもいいように扱うから。
フィッツやアイシャ、ラーザの民たちが、どんなにカサンドラの命を大事にしていても、けして伝わらない。
重荷になるだけのようだった。
それでも、フィッツにとって、彼女は「すべて」なのだ。
『ホント、私のこと置いてかないでよ? フィッツがいなきゃ困るんだからさ』
未だに、なぜ自分がいなければ困るのかは、わかっていない。
ただ、現実に、今、彼女の感情は乱れている。
なにかしら「困る」理由があるからだ。
それが、嬉しいのかもしれない、と思う。
(そうか。私がいなければ……姫様は、困るのか……では、私はずっと……姫様の傍にいられるのだな)
痛みには慣れていた。
そういう訓練も受けている。
もっと酷い苦痛にも耐えることはできた。
だが、彼女の泣き声にも感じられる叫びには、耐えられない。
「やめてってば! フィッツは、なにもしてない!」
「戦車試合で優勝して、アトゥリノに恥をかかせたわ」
「それは、私が命令したからだよ! あんたに虐められてきた仕返しにね!」
嘘までついて、自分を庇ってくれている。
フィッツは、顔を地面に押し付けられたまま、ほんの少し口元を緩めた。
同時に、自分の状態を確認する。
両手は後ろで縛られていた。
囚人を捕らえる時に使う、特殊な鉄の鎖だ。
(帝国は、技術を無駄にしたな。こんなもので捕らえておけるのは、猪程度だ)
小さく息をつく。
最善ではないが、最良を選ぶ必要があった。
自分が鎖を解き、敵の足止めをしてカサンドラを逃がすことはできる。
当然に、フィッツがカサンドラをかかえて逃げることもできる。
(アイシャ)
だが、そのどちらも選ばない。
フィッツは、時間を測っていたのだ。
平たく言えば、時間稼ぎをしていた。
カサンドラの望む結果の中にある「最良」を掴むために。
(そろそろ、いいか?)
(はい。なんとか説き伏せました。それから、ティトーヴァ・ヴァルキアたちが、そちらに近づいております)
(阻止する必要はない。では、やってくれ)
(ご武運を)
この坑道は、ラーザの民が造った。
帝国の技術では探知できない通信網が敷かれている。
アイシャとの別行動は、そもそも、こういう時のためだ。
万が一、敵が前方から現れた場合に備え、アイシャを後ろに残した。
ドォォオオンッ!!
グラグラッと、地面が揺れる。
瞬間、フィッツは、鉄の鎖を解いた。
一瞬で、両脇にいた男2人を振りはらって、起き上がる。
と、同時に、後ろによろけたディオンヌの横腹を腕ごと蹴り飛ばした。
ディオンヌは壁にぶち当たっていたが、確認もしない。
すぐさま、カサンドラの元へと走る。
天井から石や砂が降る中、立ち尽くしている彼女をかかえた。
「走りますので、しっかり掴まっていてください」
「フィ……フィッツ……」
後ろで、大きな音がしている。
坑道が崩れ始めているのだ。
全力で駆けながら、フィッツは、カサンドラの口にできなかったであろう問いに答える。
「鉱山の者は、先に逃がしています」
アイシャは、後ろから様子を窺い、追っ手が現れたら、フィッツに指示を仰ぐ。
前方から敵が現れたら、フィッツがアイシャに即指示を出す。
打ち合わせたものでなくとも、その程度は「当たり前」だった。
フィッツは、カサンドラを背に庇いながら、アイシャに連絡を取っていたのだ。
だが、あらかじめ指示しておいたこともある。
坑道の爆破についてだ。
いち早く鉱山に戻り、全員を非難させること。
避難後に、坑道を爆破。
前方からの敵にフィッツが気づき、アイシャに連絡をし、アイシャが避難を完了させるまでには時間が必要だった。
そのため、フィッツは、あえて「やられっ放し」になっていたのだ。
課された「役割」を、アイシャは正しくこなしている。
そのおかげと言うべきか、深手を負う前に片をつけられた。
もっとも、坑道を崩す必要がなければ良かったのだが、結果は、これだ。
(確実性がないことはすべきではなかったのだがな)
ディオンヌなど無視し、カサンドラを連れて逃げるべきだったと、今でも、そう判断している。
坑道の崩壊に、自分たちが巻き込まれる可能性があるからだ。
現に、フィッツの目の前には、割れた石が次々と降って来ている。
「姫様、砂が入るといけませんので、目を閉じていてください」
ぎゅっと、カサンドラがフィッツの肩に顔をくっつけてきた。
両手で、しっかりとしがみついている。
自分よりも、小さな手だ。
そして、フィッツにとって、なによりも大事な手だった。
フィッツの頭の横を、大きな岩がかすめる。
体にあるラーザの技術を最大限に駆使し、落ちてくる岩を避けながら走った。
額からは、血が落ちている。
ディオンヌに踏みつけられた際にできた傷だ。
フィッツが駆ける速度に合わせ、額から、こめかみへと向かって流れていた。
光が見える。
出口は、すぐそこだ。
後ろでは、音が迫ってきている。
おそらく、崩壊により出口までをも塞がれてしまうだろう。
が、フィッツは足を止めた。
「しばらくの辛抱ですよ、姫様」
ぎゅっと、カサンドラの体を抱きしめ、横へと飛ぶ。
坑道を造りかけてやめた、というような横穴だ。
きっとディオンヌと一緒に来た者たちも、見過ごしているだろう。
2人が横穴に飛び込むや、石が崩れ落ちてくる。
光が失われ、真っ暗闇になった。
暗視が効くので問題はない。
抱きかかえているカサンドラの表情も鮮明に見える。
「……フィッツ……血が出てる……」
「問題ありません」
「ごめん、今、動けないから、血も拭いてあげられないよ」
「平気ですよ、この程度。目に入ったとしても、視界が奪われることは……」
「いや、そうじゃなくてさぁ」
こてん…と、カサンドラがフィッツの胸に顔を乗せてきた。
狭い横穴の中、彼女を抱きかかえているフィッツも、崩落がおさまるまで身動きが取れない。
ただただ、彼女の顔を覗き込む。
「フィッツが痛くなくても、視界がどうでも……私は心配するんだよ、フィッツが怪我してるって」




