三角の折目 2
フィッツに「抱っこ」された状態で、目の前の崖を見上げる。
断崖絶壁という言葉にぴったりの、断崖絶壁だ。
首が痛くなる。
見たところ、足場になりそうな場所はない。
が、フィッツは、この「岩場」を越えると言ったのだ。
「これさ、どうやって登るわけ? ていうか、登れる?」
フィッツが登れるのは、わかっている。
アイシャは、おそらく傷だらけになってでもついて来るのだろう。
考えたくはなかったが、意地でもついて来ようとする姿が思い浮かぶ。
頭の隅で、3分も待たずに置いて行けば良かった、と思った。
アトゥリノ人が好むというのがわからなくもないくらい、アイシャは可愛い。
大きな琥珀色の瞳といい、イチゴジュースのような薄赤く長い髪といい、人形のごとく可愛らしいのだ。
いくら守護騎士の家門の生まれだとしても、踏襲する必要はないのに、と思う。
子は親を選べないのだし。
しかも、すっかり洗脳されているのが痛々し過ぎる。
女の子なのだから、というのは、いささか前時代的だろうか。
とはいえ、そう言いたくなるほどには、アイシャは可愛らしかった。
小柄だからか、22,3歳には見えない。
18のカサンドラより幼く感じられる。
「上から引き上げますので、姫様が登ることはありません」
「先にフィッツが登るってこと?」
「はい。あそこに洞窟がありまして、比較的、中は広くなっています。夜まで休息を取るには、ちょうどいい場所ですよ」
首を後ろに90度近くそらせてみたが、黒い点のようなものしか見えなかった。
フィッツが「ある」というのだから、あるのだろうけれども。
「あらかじめ食料もいくらか準備しておきました。昼食と夕食を取ってからザフイに入ることにしましょう」
「何回か、ここに来たことあるんだ」
「姫様が皇宮を出られると話されたあと、何度か偵察に来ましたね」
フィッツと話している間、アイシャは黙っている。
会話に割り込める「立場」ではないらしい。
帝国にある身分とは異なる種類の「区別」が、ラーザにはあったのだろう。
そもそもアイシャは、カサンドラの前では、たいてい平伏している。
(あとで、あの態度は、なんとかしないとだなぁ。街で、これだと目立つしさ)
昼食の際にでも、アイシャには「普通」にするよう言い聞かせることにした。
かなり骨を折ることになりそうな気もするが、カサンドラの指示ならば聞かないことはないはずだ。
少なくとも、フィッツよりは聞き分けがいいように思える。
「それでは、いったん、失礼します。アイシャ」
「は! かしこまりました!」
打ち合せをしていたのかは知らないが、名を呼ばれただけなのにアイシャは次の「すべきこと」を理解したようだ。
名を呼ぶだけで理解することは、フィッツにもある。
まるきり意思疎通ができないわけではない。
感情の機微に関してのみ、共通認識が持てないだけだ。
フィッツが、丁寧に、そろりとカサンドラを地面に下ろす。
それから、崖を見上げた。
ひゅん。
え?と思う間にも、とんとんと崖を駆け上がって行く。
フィッツにはわかる足場があるのだろう。
本当に、フィッツは、なんでもできるのだな、と感心した。
「あ。もう着いたみたいだよ、アイシャ」
「そのようです。これから、ティニカ公が縄をおろしてくださるでしょう」
「アイシャ、フィッツの前でティニカ公なんて呼んだら、叱られるよ?」
「あ! は! さ、さようにございました! お言葉、心に刻み……」
「うん、わかった。それは刻んでおいて、今は崖に集中しよう」
アイシャが立ち上がり、崖を見上げる。
縄らしきものが、するすると、こちらに向かっておりてきた。
近づいて、アイシャは、なにやら手を動かしている。
横から覗き込むと、器用に縄を編んでいた。
ものすごい速さで。
「なにか作ってる?」
「籠にございます。尊い御身に縄を巻き付けるなど不敬でございましょう」
「う……うん……わかった。そのほうが安全だもんね……」
「まさに、仰る通りにございます。私は手先が……」
「アイシャ、早くしろ」
上から、フィッツの声が降って来る。
遠いのに、なぜかはっきりと聞こえた。
そして、なにやら「不機嫌」そうに感じる。
フィッツが「不機嫌」だなんて、有り得ないのに。
なにせフィッツは、感情に機微のない男なのだ。
第一、フィッツが不機嫌になる理由がない。
アイシャを足手まといになると思い、快く思っていないのかもしれない。
だが、アイシャがいるから、2度手間にならずにすんでいる。
フィッツ1人だったら、また崖から降りて「籠」を編むなり、カサンドラの体に縄を結わえたりしなければならなかったはずだ。
(追っ手が、近くまで来てんのかな。それで焦ってる、とか? でも、それなら、悠長に昼食だ、夕食だって言えないよなぁ)
彼女は、すぐに諦める。
フィッツが「不機嫌」なんて、やはり有り得ない。
遠くから話しているので、そんなふうに聞こえただけだと、小さな引っ掛かりを受け流す。
「編みあがりましたので、こちらに」
人ひとりが腰を下ろせる大きさの「籠」が出来上がっていた。
卵のような形をしたそれの両脇に縄がついており、見た目としては、ピクニックなどで使うバスケットに近い。
すとんと、その中に腰を下ろす。
意外にも、柔らかい感触がした。
アイシャが、そそと近づいて、腰の上にベルトのようなものをつける。
手先が器用だというのは、本当らしい。
短時間で「籠」だけではなく、安全のための装着具まで作れるのだから。
「ご準備、整いました!」
返事はなかったが、するすると籠が持ち上がり始める。
なにかあった時のためなのか、アイシャは、こちらを見上げて立っていた。
完全に洞窟に到着するまで、見守り続けるに違いない。
やれやれと、大きく息をつく。
(味方ができるのってさ。いいことみたいに言われるけど、それだけ背負うものが大きくなるんだよね。対等な関係ならまだしも……)
自分は守られるだけの存在だ。
なんの力もない。
いや、実際には「ある」けれど、使いたくない。
だから、守られるだけの存在から抜け出せないと、わかっている。
1人なら、1人なりの生きかたができた。
生き続けられるまでは生きるし、できなくなれば死ぬ。
それだけのことだ。
皇宮を出て、目的地までの1人旅。
その途中で、野たれ死ぬなら、それもしかたがないと諦められた。
なにがなんでも生き抜きたいとの強い想いは、彼女にはない。
(私が死んだら、2人とも死にそうじゃん)
1人で勝手に、野たれ死ぬ自由はなくなってしまったのだ。
カサンドラの命の上には、2人の命が乗っかっている。
自分の死イコール、フィッツとアイシャの死だと思わなければならない。
「姫様、お手をこちらに」
「ありがと、フィッツ」
フィッツに手を借りて「籠」から降りる。
薄暗くはあるものの、聞いていた通り、中は広かった。
先に行くに従って細くなっているようだが、奥までは見えない。
「この先は、どうなってるの?」
「しばらく進めますが、結局、行き止まりで外には出られませんでした」
ということは、さっきと同じ方法で崖を登りきるしかザフイに入る手段はない。
彼女自身は楽なのだが、フィッツやアイシャに申し訳ないような気分だ。
2人とも、よく「足手まとい」との言葉を口にするが、最も足手まといになっているのが誰かを、彼女は知っている。
「火を熾すことができないので、簡素な食事となりますが、ザフイに入るまでは、ご辛抱ください」
「そういうのは、気にしなくていいよ。美食家じゃないからね」
「それでも、姫様には……」
「ご無事でなによりでございます!」
アイシャが洞窟に飛び込んで来る。
幸い、怪我はしていない。
傷だらけの姿を想像していただけに、ホッとした。
のだけれども。
「アイシャ・エガルベ。姫様は、お疲れだ」
「こ、これは、も、申し訳ございません」
ぺたっと、アイシャが平伏する。
どうにも、フィッツのアイシャに対する「当たり」がキツい気がした。
注意すべきかどうか、悩むところだ。
(まぁ、3人っていうのは、人間関係でバランスとりにくいらしいしなぁ)
どちらかを贔屓しているとなってもいけないし、けれど、フィッツの顔は立ててあげるべきだろうし。
冷たい目でアイシャを見ているフィッツと平伏しているアイシャの間で、彼女は大きく溜め息をつく。




