吹けば飛ぶで良しとす 2
ドアが開いた音に、カサンドラは顔をそちらに向ける。
フィッツの入ってくる姿に、ホッとした。
皇太子と2人きりなのは、気詰まりだったのだ。
会話はあっても、楽しくはない。
「おかえり、フィッツ」
「遅くなり、すみません」
深々と頭を下げるフィッツに、立ち上がって駆け寄った。
皇太子の隣に座っているのも、精神的な負担になっている。
ただ座っているだけで、疲れてしまうのだ。
とはいえ、皇太子は昼食をすませるまで帰らない。
それは、わかっていた。
料理ができないと言えば、皇宮から持って来させただろうし。
その間、座っているのが嫌だからと言って、室内を歩き回るのもおかしい。
最悪なのは、歩き回る自分のあとを皇太子がついて歩きかねないことだった。
考えると、我慢して座っているほうがマシだと判断し、じっとしていたのだ。
だが、フィッツが帰ってきたので、立ち上がる「口実」ができている。
「どうだった? なにかされた?」
訊いたカサンドラに、フィッツが首を横に振った。
幸い、なにもされなかったらしい。
と、思ったのだけれども。
「ルディカーン・ホルトレを蹴りました」
「蹴った?」
「はい。2度ほど蹴りました」
冷静な口調で言うフィッツに、少し笑いたくなる。
律儀と言うべきか、忠義に厚いと言うべきか。
フィッツは、彼女の「やっちゃいな」を「真摯に」実行したのだ。
ただし、ちゃんと手加減もしたらしい。
蹴とばしただけですませたのなら上出来と言えた。
(なにか嫌なことでも言われたか、されたかしたんだろうね。言い返せとは言ったけど、フィッツの場合、言い返すっていうより、先に体が動きそうだよなぁ)
自分で言っておきながら、改めて考えると想像がつかない。
フィッツが口喧嘩をする姿を、思い浮かべられなかった。
「奴は反撃しなかったのか?」
皇太子が会話に割り込んで来る。
フィッツと並び、視線を皇太子に向けた。
なにやら、驚いているようだ。
「反撃する間は、与えていません」
「しかし、ルディカーンは、剣において右に出る者がいない強者だぞ」
「剣は使わせていませんので、強者かどうか不明です」
「そうか……丸腰で奴を制圧したのだな」
「私は日常的に武器を所持していません。必要があれば奪いますが、必要とは感じませんでした」
フィッツは、淡々と答える。
皇太子は興味深そうにしていたが、どう戦ったのかに、彼女は興味がなかった。
フィッツに怪我がなくてなによりだと思っている。
自分のために「叩きのめされる」など、あってはならない。
「しかし、これで奴に目をつけられたな」
「もうつけられてるよ」
「すでに目をつけられています」
2人から同時に言われ、皇太子が気まずそうに視線をそらせた。
ディオンヌとの婚姻問題でカサンドラが目をつけられ、結果、フィッツに飛び火しているとの自覚があるのだ。
「今度の戦車試合に参加することになった?」
「はい。そのようなことを言われました」
「一応、訊くけど……大丈夫?」
「なにも問題はありません」
「相当数の者に囲まれることになるぞ」
「問題ありません」
即答するフィッツに、皇太子が肩をすくめる。
その仕草に、誰のせいだと、少し苛とした。
「カサンドラの言う通り、心配する必要はないようだ」
皇太子が言った時だ。
フィッツが、こちらを向く。
そして、本当に微かに口元を緩ませた。
間近で見ていなければ気づかない程度の笑みだ。
(ん? フィッツ、喜んでる?)
普通は「心配される」のを喜ぶのではなかろうか。
心配されていないことに喜ぶ理由が理解できない。
だが、フィッツは、少々、頭がイカレているので、気にせずにおく。
フィッツの喜怒哀楽の基準を理解しようとしても無駄だろうから。
「姫様、そのことで、ひとつ、お願いがあります」
「なに?」
「当日は、競技場に来てください」
「観戦しろってこと?」
こくり。
フィッツが、重要そうに、うなずいた。
そうか、と思う。
当日は、逃亡計画実行日だ。
(まだ私に置いて行かれると思ってんだな、こいつは……)
動くのなら2人で動きたい。
フィッツは、そう考えているのだろう。
競技に参加中、カサンドラが1人で逃亡し、置いて行かれるのが不安なのだ。
あれほど「置いて行かない」と言ったのに。
「それならば心配ない。カサンドラは、俺と観戦することになっているからな」
承諾した覚えはない。
だが、フィッツの頼みを叶えるのなら、承諾しておくのが正解となる。
カサンドラが1人で競技場に足を運ぶより、皇太子に同行したほうが不自然ではないからだ。
皇太子の隣から、いつ姿を消すかが、課題にはなるけれども。
「お前は、デルーニャの代表として参加するのだろう?」
「そのようです」
「だが、国の威信など関係ない。カサンドラの誇りのために戦え」
「やめて、そういうこと言うの」
カサンドラのためというのは、フィッツにおける「スイッチ」だと知っている。
言われなくても、いつだって「カサンドラのため」をやっているのだ。
言われれば、いよいよ、その傾向が強くなるに違いない。
彼女は「カサンドラのために」なんて望んではいなかった。
そのせいで、フィッツが命を懸けたりするのは、嫌だと思っている。
「フィッツ、優勝する必要なんてないからね。自分が怪我しないことだけを考えて動くんだよ? わかった?」
「わかりました、姫様」
本当にわかっているのか、納得しているのか。
なんとなく心もとなくはあった。
フィッツは、カサンドラの命令に「絶対服従」ではない。
優先すべきと考えたことの前では、従わないこともあるのだ。
カサンドラの誇りと、自らの命と。
フィッツの天秤が、どちらに傾くかは明白だった。
それでも「死んだら守れない」のほうを、フィッツは優先させる気がする。
だから、信じることにした。
「心配していない割に、消極的なことを言うのだな」
「ただでさえ、目をつけられてるからね。これ以上、状況を悪化させて、いいことなんかある? 誰のせいだと思ってるんだよ」
ぴしゃりと、冷たく言い返す。
また皇太子が視線をそらせた。
反論できないのなら、そもそも言わなければいい。
最も簡単に事態を好転させる方法を、皇太子は知っている。
ディオンヌと婚姻すればいいだけだ。
が、皇太子は、そうとは言わず、別の提案をしてくる。
「では、こうしよう。リュドサイオ側に、その者に手出ししないよう伝えておく。そうすればアトゥリノと、その下についている国だけに集中できよう」
「リュドサイオの代表は誰? セウテル? あんたの言うこと聞くの?」
「財のアトゥリノ、忠のリュドサイオと言われていてな。リュドサイオは、皇帝の命を絶対としている。伝えかた次第で、俺の言うことでも聞かせることはできる」
皇太子の言葉は、自信に満ちていた。
それで気づく。
(皇命で婚約者になった私に手を出すのは、皇帝に逆らうも同然……てことか)
皇帝への忠義が厚いのであれば、その道理も通じるはずだ。
もちろん、カサンドラがセウテルに頼んでも無視されるだろうが、皇太子からの言葉となれば無視もできない。
おそらく、そういうことだと理解する。
「まったく……あんたがディオンヌと婚姻すればすむ話なのにさぁ」
「それはできんと言ったではないか」
「ああ、そうですか、はいはい」
皇太子と婚姻する日など、百万年経っても訪れはしない。
彼女は、逃亡することしか考えていないのだ。
気づかれて阻止されるのを防ぐため、適当にあしらっているに過ぎなかった。
皇太子に対し、悪いなどとは1ミリたりとも思っていない。
「フィッツ、お腹空いた。とりあえず、お昼にしようよ」
「すぐにご用意します」
フィッツが胸に手をあて、恭しく会釈する。
その姿も、もう見慣れたものになっていた。




