いつかの空をきみと 1
空は青い。
そして、眩しい。
太陽が強い光を投げ落としている。
ザイードは、目を細め、雲のない真っ青な空を見上げていた。
あれから、1年が経とうとしている。
暑い夏が、もうそこまで近づいていた。
ザイードの視線の先には、キャスがいる。
実際に見えているわけではないが、目に浮かぶのだ。
(そなたは、元気にしておるのだろうな。忙しいと言うておったか)
キャスは、もう魔物の国にはいない。
別の場所で暮らしている。
だが、時々、通信機で連絡を取り合っていた。
前に話したのは、春先だ。
あの日にフィッツとした会話を話したら、ひどく驚いていた。
その気持ちは、わかる。
ザイードだって、驚いたのだ。
というより、驚きを通り越して、戸惑った。
聖魔が去った日、キャスが眠ってからのことだ。
フィッツが、ザイードを呼び出している。
家を出てまで話さなければならない、どんな重要な話か、と思った。
聖魔が去ったのは確かだったが、人の国とのこともある。
まだ安心できる状況ではなかった。
なのに。
フィッツは、大真面目な顔をして言ったのだ。
思い出して、ザイードは苦笑いを浮かべる。
『キャスと番になるのは諦めてください』
は?と、思った。
なにしろ、ザイードは求愛さえしていない。
さらには、求愛する気も、自分の思いを伝える気すらなかったのだ。
なので、どうしたら、そんな話になるのかが、わからなかった。
『そのようなことは考えておらぬ』
『ですが、あなたはキャスを好きだと言いました』
『好いてはおるが、求愛するとは言うておらぬ』
『しないのですね?』
『いたさぬ。さように決めたのだ』
『本当ですか?』
『真だ』
『絶対に?』
『くどい! せぬというものはせぬ!』
なぜ傷口をえぐられなければならないのかと、最後には怒ってしまった。
だいたい、意味がわからなかったし。
「そうか。あやつが嫉妬とはの。ダイスと変わらんではないか」
思って、少し笑う。
あの日から、フィッツは変わった。
淡々としていたり、冷静だったりする性格は変わらずだ。
けれど、それでも変わったと言える。
キャスに、あれこれ訊いたりするようになった。
たいていは、キャスも答えていたけれども。
「逃げても追うて問うとは、フィッツも、なかなかに潔ぎの悪い男ぞ」
キャスが逃げても、フィッツは、そのあとを追いかけていた。
当然だが、逃げ切れるはずがない。
しかたなさそうに、キャスは答えるはめになっていた。
とはいえ、いつも頬が赤くなっていたと、ザイードは知っている。
フィッツは、死んでいた時の記憶を思い出してはいなかった。
キャスの「想い人」であった頃のフィッツとは違うはずだ。
だが、やはりフィッツはキャスの「想い人」なのだ。
もとより、2人は、あれほどに近い距離にいた。
ザイードは、それについて、キャスに訊いている。
なぜフィッツが「意思」を持ったのか、ということをだ。
さりとて、キャスにも、わからないらしい。
『前はね、私がフィッツを知りたいって思って……歩み寄るっていうのかなぁ。いろいろ訊いたり、私のことを、話したりしてたんだよね。ずっと一緒だったし、2人だけだったしさ。少しずつだったよ、フィッツが変わってったのは』
だから、今回、急に変わった理由がわからないのだという。
ザイードは、スッと瞳孔を狭めた。
キャスは気づいていないのだろう、と思う。
フィッツは「急に変わった」のではない。
キャスは、フィッツが変わることを恐れ、距離を取っていた。
それを、フィッツも察していたのだ。
ザイードに信を置けるようになってからは、キャスをあずけていた。
どちらかと言えば、2人きりにならないようにしていた節もある。
「お前、本当は嫌だったのであろう。余が、キャスの隣におるのが」
戸惑っていたキャスの言葉を思い出していた。
『……それってヤキモ……嫉妬、かなぁ。フィッツってさ、ちょっと、そういうところあるんだよね……でもなぁ……』
「なにが、ちょっと、であるものか。あれは、相当に嫉妬深かろうて」
キャスと距離を取りながら、フィッツは、内心では、それを嫌がっていたのだ。
自らが、キャスの隣に、最も近い存在でありたいと、願っていたに違いない。
そういう感情が、フィッツを少しずつ変えたのだろう。
実のところ、ザイードは、最後の後押しをしたのは、自分だと思っている。
「まったく世話の焼ける2人よの。好きおうておるなら、さっさと番になればよいのだ。それが、自然の理というものぞ」
ふんっと、鼻を鳴らした。
ザイードは、魔物だ。
自然の理には敵わない。
なるべくして、なる。
キャスとフィッツは、結ばれるべくして結ばれたのだ。
それならば、と思うよりしかたがなかった。
あの皇帝ほど「潔ぎ悪く」なりたくもない。
「だが、あの男が皇帝でおるうちは、我らの国も平穏でおれるかもしれぬ」
皇帝を信じていると言えない部分もある。
人を許したわけでもなかった。
ただ、あのあと、自分が皇帝でいる間は魔物の国を攻撃しないと、皇帝から連絡が入ったのだ。
キャスが根拠を聞いていたが、そこは、はっきりしない。
そうするべきだと思った、とだけ言っていた。
「あの中間種を殺さぬことに決めたゆえ、か」
キャスは、皇帝に対しては辛辣だ。
思うところがあるのか「あいつの性根が変わるとは思えない」の一点張り。
キャスが言うのだから、そうなのかもしれない。
が、そうでないかもしれない。
「あのフィッツとて変わった。魔物は変わらぬが、人は変わるのだ」
キャスだって変わった。
初めて出会った頃とは違う表情を見せるようになったのだ。
泣く時には声を上げて泣き、笑う時にも声を出して笑う。
そんな、あたり前のことができるキャスになった。
魔物は、自然の理で生きている。
もとより「あたり前」の中に存在していた。
だから、変わりようがない。
それを、ちょっぴり寂しく感じる。
(余は、そのように生きてきた。ゆえに、これからも、そのように生き……っ?)
ひょいっ!
そんなふうに、体が浮いた。
気づいた時には、遅かった。
すでに、ダイスの背に乗せられている。
今日、ザイードは、ルーポの領地に来ていたのだ。
感慨にふける暇もない。
「これ! なにをするか、ダイスっ!」
「時間がねぇんだよ!」
ズダダダダッと、ダイスが駆けてゆく。
ダイスの家に向かっているのだろうが、それほど遠い場所にいたわけではない。
ザイードの足で走っても、間に合う程度の距離だ。
ズササーッ!
急に止まられ、ザイードはダイスの背から放り出される。
地面に投げ出されて、背中を打った。
「おのれ……お前という奴は……」
「ザイード! そろそろなんだよっ! 地面に転がってる場合じゃねぇぞ!」
誰が転がしたと思っているのか。
ダイスは、そわそわと、戸の前を行ったり来たり。
戸口の近くには8頭の子供がおり、不安そうにしている。
元々、ダイスの子だった5頭のうち、体の大きな3頭が、引き取った子3頭を背に乗せていた。
「お前が落ち着かぬと、子らも不安になるであろうが!」
「そろそろだってのに……なあ、ザイード、キサラになんかあったんじゃ……」
「お前は、まったく相手の言うことを聞かぬ奴よの!」
「オレを落ち着かせるために、お前を呼んだんだろっ! もし、キサラに、なんかあったらと思うと、オレは……頼む、ザイード! オレを落ち着かせてくれ!」
言う割には、少しもザイードの言うことを聞いていない気がする。
自分が呼ばれたことに意味はあるのだろうか。
とはいえ、ダイスに言っても無駄だ。
溜め息をつきかけた時、中から小さな声が聞こえてくる。
ぴいぴい、とも、にぃにぃ、ともつかないような声だ。
ダイスの耳が、びょんっと長く伸びる。
ザイードは、その背を、ぽんっと叩いてやった。
「今度は、何頭かの? それ、見て来い、ダイス。キサラは無事であろうよ」
「お、おう! い、行ってくる!」
尾を振りながら、ダイスが家の中に入って行く。
戸の影から、子らと一緒に中を覗いた。
キサラの傍に、小さな姿が見えた。
「お前たちにも、3頭の弟妹ができたのだぞ。しっかり面倒を見ねばな?」
新しい命が産まれたのを知り、子らが目を輝かせる。
ルーポのものたちも、続々と集まり始めていた。
魔物の国では、こうやって新たな命の芽吹きを、皆で祝うのだ。
早晩、ほかの長たちも訪ねて来るだろう。
中では、ダイスが、キサラを気遣っている。
魔物にとって、番は特別だった。
何頭の子ができようとも、ダイスにとっての「1番」はキサラなのだ。
(フィッツに負けぬほど、ダイスも、頭がイカれておるわ)
きっと、これから「子守り」のために、何度となく呼ばれるに違いない。
それを思い、ザイードは目を細めて、笑った。




