取引の俗解 3
正直、このままフィッツに抱きついていたい。
そうは思うが、まだやり残していることがあった。
フィッツが帰ってきたのだから、クヴァットは消えている。
視線を向けると、ザイードも首を横に振った。
魔力が消えたということだろう。
「ご心配にはおよびません」
「いや、心配はしてない」
フィッツが乗っ取られていれば、絶対に気づく。
その自信があった。
そもそもクヴァットは、フィッツが「カサンドラ」を愛称で呼ぶのを聞いたことなんてなかったはずだ。
フィッツとキャスが一緒にいたのを、クヴァットが見たのは、戦車試合が最後。
その後の逃亡生活中にも魔物の国に来てからも、どちらか1人ずつでしか会っていなかった。
湿地帯ではキャス、開発施設ではフィッツ。
(あの1回だけだったしね。フィッツが呼べたのだって)
それは、キャスとフィッツしか知らないことだ。
だが、万が一を考えて、フィッツは、あえて小声で言ったのだろう。
フィッツらしくはあるが、そんな万が一には備えてほしくない。
キャスは、ずっとフィッツを待っていたのだから。
「じゃあ、今度は、私だね。もう少しだけ、待ってて」
「いつまでも待ちますよ」
フィッツが体を起こして立ち上がる。
キャスも立ち上がって、振り向いた。
ラフロのほうに、だ。
それとともに、気づく。
シャノンの姿が消えていた。
クヴァットが連れて行ったのかもしれない。
どこに行ったのかはわからないけれども。
「きみは、ずいぶんなことをするねえ」
「自分でも、そう思ってる」
たったひとつの命。
それは、シャノンだって同じ。
ラシッドと同じくらいの歳だったのに、シャノンは小さくて、細くて。
奪ってもいいと思って奪った命ではない。
ラフロの体が、足元から崩れ始めている。
なんとなく、そうではないかと感じていた。
クヴァットとラフロは「対」になっている。
どちらが欠けても、存在を保っていられない。
聖者と魔人は、善悪ではないが、治すものと壊すもの、という役割分担があったように思えたのだ。
クヴァットとラフロに自覚があったかは、わからない。
キャスにしても「なんとなく」そんなふうに、感じたに過ぎなかった。
「こういうものなのかな」
「そうだよ」
キャスは、ラフロと取引をしている。
それが、もう成立していることは、確かだ。
ラフロは、穏やかな笑みを浮かべていた。
けれど、その頬は、流れ落ちる涙に濡れている。
クヴァットを喪ったのが理由ではない。
それも、キャスには、わかっていた。
「気づいてるんでしょ、ラフロ?」
自分の父親ではないし、好ましい相手でもない。
むしろ、本物のカサンドラは、この厄介な父親のせいで苦しんだのだ。
だが、キャスはラフロを恨んではいなかった。
キャスは、自分と同じ、紫紅の色をした瞳を見つめて、静かに言う。
「それが、愛だよ」
クヴァットが、シャノンにいだいていた感情。
それは愛だった。
どういう類のものであったかはともかく、愛だったのは間違いない。
きっと、最期にクヴァットも、知ったはずだ。
自分が、シャノンを愛していたということを。
その感情は、ラフロにも、もたらされている。
2人の関係がどうであれ、伝わったには違いない。
だからこそ、ラフロは涙しているのだ。
「高潔かどうかなんて関係ない。愛っていうのはね、そういうもんなんだ」
嬉しいばかりでも、楽しいばかりでもないし、苦しいことも、たくさんある。
悲しいことにも繋がるし、愛からは、嘆きや絶望も生じる。
恋と似ているけれど、高さの違う平行線のようなものだ。
どんなに似ていても、けして重なることはない。
無自覚に、無意識に、無条件に。
楽しかろうが苦しかろうが。
その相手が存る、というだけで、幸せだと感じる。
愛とは、とても大きな器なのだ。
多くの感情が入り混じっても、壊れたりしない、器。
たぶん、そういうものなのだと、キャスは思う。
「クヴァットときたら、口ではどう言おうと、結局は、1度も、誰のことも、あの獣くさい子には殺させなかったのだからねえ。クヴァットは気づいていたかな……そうだね。きっと、愛とは、そういうものなのだろうね」
ラフロが、小さくうなずいた。
そして、キャスを見て、にっこりする。
「取引は成立だ。私は、この結果に、とても満足しているよ」
ラフロの関心欲は満たされただろうか。
本人が言っているのだから、それを信じることにする。
これが、キャスの提示した取引の「条件」だ。
ラフロに「愛」のなんたるかを、教える。
ラフロの体は、もう半分ほどになっていた。
なのに、不安はない。
ラフロは聖者であり、取引を違えたりはしないのだ。
「私が、約束を守ると知っているね?」
「知ってる」
「けれど、ちょっぴり意地悪をしたくなってしまった」
「どういう意味?」
ラフロが、優しく笑う。
ごく自然な笑みだった。
「半月は我慢しなさい。私に、こんな切ない想いをさせたのだから」
「切ないって……?」
「きみは、とても素晴らしい女性だ。今までの、どんなラーザの女王よりも」
ラフロは、ほとんど消えている。
声だけが降ってきた。
「愛というのは、本当に……困ったものだね……私の愛しい可愛い娘……」
ふっと、ラフロの気配が消える。
ザイードに確認しようとして、やめた。
確認しなくても、ラフロが消えたのを感じている。
クヴァットもラフロも、愛の前に、消えてしまった。
キャスは、ラフロや魔人という存在を知ってから、考え続けている。
魔物は自然から生じたという。
時間の長さは違えど、生き死には、人と同じく訪れる。
では、聖魔は?
聖魔は、どうやって生じたのか。
ラフロは、聖魔が「生じる生き物」だと語っている。
魔物もそうだったのに、いつしか交わる生き物になっていた、とも言った。
生じる生き物でなくなったため、魔物には「寿命」ができたのではないか。
ならば、聖魔は?
聖魔に、寿命はないのか。
どうやって生じるのかも、魔力攻撃以外で死ぬのかも不明。
そのことについて、考え続けてきた。
結果、ひとつの仮説に辿り着いている。
おそらく、聖魔は、人の「想い」から生じているのだ。
ラフロが、最も関心を寄せていたのは「高潔な愛」だった。
クヴァットが、最も熱心にしていたのは「人と遊ぶこと」だった。
片方は愛を知りたがり、もう片方は駄々をこねているかのように。
どちらも、まるで、愛されたことのない子供のようだった。
その仮説に辿り着いた時、キャスは決めたのだ。
ラフロとクヴァットに、無理やりにでも「愛」を教える。
そう決めた。
(別に、あの2人のためじゃない。私は、性根が悪いから……)
納得をしたら、気がついてしまったら、2人は消えるのではないか。
そういう予感はあったのだ。
人と魔物との戦争で、どちらも多くの犠牲を出している。
キャスも、大事な友達を亡くした。
だからもう、これ以上、犠牲を出したくはなかったのだ。
残酷なことをした、という自覚はある。
ただ、因果応報の連鎖を、食い止めたかった。
そのために、自ら引き金を引いている。
どちらの世界でも、したことのない行為。
覚悟と決断でもって、キャスはシャノンの命を奪った。
割り切れない気持ちはある。
溜め息をつきそうになったキャスの耳に、フィッツの声が聞こえてきた。
「これはどういうことですか、ザイードさん」
「なぜ、余に訊くのだ、フィッツ」
「キャスが、聖者と取引をしていたなど聞いていませんよ」
「いや、余とて聞いておらぬ」
2人の声に、ハッとなる。
フィッツとザイードが、キャスを、じっと見ていた。
はは…と、乾いた笑い声が出る。
「や、だって、フィッツは意識なかったし、ザイードも長として忙しくしてたし」
「余は家におったのだ。こやつはともかく、余には、いつでも話せたであろう」
「私にも話せたはずです。洞では、たくさん話してくれたではないですか」
「え……?」
キャスの中で、一瞬、時間が止まった。
それから、じわ…と、顔が熱くなる。
「……フィッツ……洞にいた時、意識あったの……?」
「ありました」
「じゃ、なんで動かなかったのさっ?!」
「体の機能修復につとめていたからです。ですが、声は聞こえていましたよ」
「なにそれっ! 狸寝入りじゃんっ!」
「狸……フィッツは、変化を習得しておるのか?」
「いえ、そのような技を習得した覚えは……」
「もういいよ! わかんなくて!」
恥ずかしさに、キャスは、ぷいっとそっぽを向いた。
まさか聞かれていたとは思わなかったのだ。
(ていうか、ホントに狸寝入りしてたなんて……)
フィッツは、どこまでもフィッツだった。
キャスが愛する、少々、頭のイカれた男、それがフィッツなのだ。




