取引の俗解 2
「出て行ってください。ここに、2人は窮屈です」
フィッツは、淡々とした口調で言う。
暗がりに引きずりこまれるような感覚があったが、のみこまれてはいない。
自分を自分だと認識できていた。
相手のことも、きちんと見えている。
真っ黒な、腰まである長い髪、瞳孔のない、黒くて細い吊り上がった目。
背丈はフィッツと変わらず、長いローブを身に纏っていた。
これも、やはり黒い。
魔力も黒いと、ザイードから聞いている。
「聖者は白、魔人は黒。確かに、あなたは真っ黒ですね」
周囲も暗いが、あまり気にしていない。
どうせ視覚などアテにできるような場所ではないのだ。
ここは、おそらく自分の「心」とでもいうところだろう。
フィッツは、冷静に、そう分析している。
「お前は、ティニカだ。なんで、ここにいる?」
魔人の激しい感情が、あちこちから、ぶつかってくるのを感じた。
いくつかは、ぶつかると、鞭ではたかれたような痛みもある。
その痛みにも種類があった。
なんとなくフィッツも知っている気がする。
「それは、私の専門外ですので、わかりません」
聖者ならば、知っているのかもしれない。
だが、ラフロと呼ばれていた聖者は、ここにはいなかった。
あの聖者が「カサンドラ」の父親なのか、と思う。
見た目は似ていたが、雰囲気はまったく異なっていた。
「お前が出てけ。俺は、この体を借りる」
「それで、どうするのですか? また娯楽を始めますか」
魔人に、その気がないのは、わかっている。
同じ「心」にいるせいなのか、感情がぶつかってくるからなのか、相手の想いのようなものが伝わってくるのだ。
魔人クヴァット。
散々、彼女を苦しめた相手だった。
自分が死ぬはめになった原因のひとつでもある。
そのせいで、未だに生き返るまでの記憶はない。
(まぁ、それは、私が未熟だった要因のほうが大きいのだが)
フィッツは、クヴァットを、じっと眺めた。
なにも考えていない表情に見えるのは、瞳孔がないからだろうか。
クヴァットの黒い目も、フィッツをとらえている。
「長い時間だったのでしょうね」
「なにがだ」
「長い間、生きてきたのでしょう」
「3百年だからな。けど、それがなんだってんだ」
フィッツにぶつかってくる感情。
痛みを感じるのは、それが「悲しみ」や「嘆き」だからだ。
クヴァットは、悲しんでいるし、嘆いている。
それが、実際に「痛いほど」伝わっていた。
「あなたとは、1度、お会いしています」
「だから? 命乞いでもする気かよ」
「いえ、私は死ぬつもりも殺されるつもりもないので」
命乞いをする必要がない。
クヴァットが、口元を歪ませて嗤う。
「お前のじゃねぇさ。お前の大事な姫様の命乞いだ」
「それも、必要ありません」
「お前は、ティニカだ。ティニカに意思なんざねえ。簡単に放り出せんだよ」
クヴァットは、長い時を生きてきた。
その中で、初めて「痛み」を覚えているに違いない。
どれほど長く生きても、知ることのなかった痛みだ。
「あなたは、名をつけたそうですね」
「なんの話を……」
「シャノン。あなたが名をつけたのでしょう?」
クヴァットが黙り込む。
口元に浮かべていた笑みは消えていた。
多くの「痛み」が、フィッツにぶつかってくる。
やはり、自分にも覚えがあると感じた。
「3百年も生きてきて、玩具に名をつけたことなどありましたか?」
「……うるせえ……たまたまだ。ロッシーが……」
「番号で呼んでもかまわなかったはずですよ?」
「……うるせぇっつってんだろうが!」
クヴァットは、きっと、ただの1度も玩具に名をつけたことはない。
シャノンが最初で最期だ。
その意味を、クヴァット自身でさえ、理解していないのだろう。
名は、個を示す。
良くも悪くも、呼ぶたびに相手を意識し、その存在が大きくなる。
憎しみが深くなったり可愛いと思ったりもする「きっかけ」と成り得た。
「大事にしていたのではないですか、あの子を」
クヴァットは答えない。
答えがなくても、答えは出ている。
クヴァットにも、わかっているはずだ。
フィッツの周りには、クヴァットの感情が渦巻いている。
こうして会話はしているが、これも感情のひとつでしかない。
心とは、そういうものなのだろう、と思う。
魂とは別物だ。
剥き出しの感情だけがある。
つらい、悲しい、苦しい。
嬉しい、楽しい、心地いい。
怒りに恐怖、安堵や期待。
様々な感情が「心」には、ただ転がっている。
それらをまとめ、蓄え、しまっている箱、それが「魂」なのだ。
「だから、あなたは、私を乗っ取ることはできません」
「お前はティニカだ……」
「いいえ、私は、ただのフィッツです」
聖者は「魂」を、ほかの者の中に引き込むことができるのだろう。
だが、魔人は「魂」を操ることはできない。
入りこんだ者の「心」にある感情を蹴散らし、己の感情をまき散らす。
それが「魂」を乗っ取る仕掛けだ。
最初に箱に入っていたものを出し、自分のものを入れる。
フィッツからすると、簡単な理屈だった。
とはいえ、何事にも限界や制約というものはある。
蹴散らすにしても、それが多過ぎると、蹴散らし切れない。
クヴァットが、いくら自らの感情を押し込もうとしても、箱に入らないのだ。
つまり、意思のない者、弱い者でなければ、乗っ取ることはできない。
フィッツには、死んでいた間の記憶はなかった。
だが、生き返ってからの記憶は存在している。
いろいろなことも、わかった。
なにより強い「想い」がある。
フィッツは、小さく微笑んだ。
あとで叱られるかもしれない、と思う。
(あなたのおかげですよ、キャス)
あの洞で、ぼんやりと意識が戻り始めた。
が、体の機能が万全ではなく、身動きできずにいたのだ。
ただ、彼女の話す声だけが聞こえていた。
聞きながら、フィッツは、体の機能の修復をしている。
その間も、彼女は話し続けていた。
そして、洞を出る前に言ったのだ。
『フィッツが、ティニカのフィッツでもいい。生きてるから。私を前みたいには好きって思ってくれなくてもいい。フィッツが、生きてるってことが大事だから。私は、ずっと好きだよ。フィッツのことが、ずっとずっと好きだし、好きなまんまだと思うから、いいんだ、それで』
胸に満ちた喜び、多幸感。
その感覚が、心の奥底から湧き上がってきた。
フィッツの「心」には、多くの感情があふれている。
同時に、ティニカの鎖は、勝手に切れた。
ここにいるフィッツは、フィザルド・ティニカではない。
ただの「フィッツ」だ。
彼女の呼ぶ名だけが、自分の名だった。
「あなたも、彼女に感謝すべきですね」
「なんで、俺が、あの小娘に感謝なんかする? あいつは、俺の……っ……」
クヴァットの感情が、フィッツにぶつかってくる。
それを感じながら、フィッツは訊いた。
「あなたに、生きていたい理由はありますか?」
フィッツは、クヴァットの感情を掴む。
掴むと、フィッツの手の中で、それが消えた。
ひとつ、またひとつと掴んでは消していく。
「……待てよ……よせ……消すな……っ……」
「なにを? どれを消したくないのですか?」
言いながら、どんどん消していった。
こうしている間にも、彼女を待たせている。
もう少しだけ、と言ったのだ。
できるなら早く戻りたい。
「ひとつだけ、あなたに返してあげますから、決めてください」
「ひとつ……それじゃ足りねえ! 全っ然、足りねえっ!」
「足ります。十分ですよ、ひとつで」
フィッツが消していく中、クヴァットが、バッと、その中のひとつに飛びつく。
両腕で抱え込んでいた。
たったひとつの感情を抱きしめている。
「そうですね。あなたは、最期に正しい選択をしたようです」
クヴァットの体が、足元から少しずつ煙へと変わっていた。
その煙も、黒い。
消えていく姿を見ながら、フィッツは、クヴァットに教えた。
最期にクヴァットが両腕に抱きしめている「感情」がなにか。
「シャノン……俺の可愛い……シャノン……」
そうつぶやき、クヴァットが消える。
瞬間、目の前が光り、真っ白に見えた。
フィッツは、一瞬、眉を寄せ、それから目を開く。
「おかえり……フィッツ……」
フィッツには「生きていたい理由」があった。
紫紅の瞳を見つめ、小さく微笑む。
「待っていてくれて、ありがとうございます、キャス」




