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いつかの空を見る日まで  作者: たつみ
第1章 彼女の言葉はわからない
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各々の基準 1

 ティトーヴァは、執務をこなしながら、昨夜のことを考えている。

 愛称の件だ。

 彼を愛称で呼んだ人物は、たった1人。

 母だけだった。

 

 『ティティは、陛下の唯一の息子なの』

 『ねえ、ティティ、あなたは次の皇帝になるのよ』

 『ティティが皇帝になったら、私は国母になるわ。そうすれば陛下も……』

 

 母の言葉を思い出す。

 愛おしげに愛称で呼びながら、言葉の中心にティトーヴァはいない。

 母が、皇帝の寵愛と皇后の座を手にすることしか考えていなかったのだと今ならわかる。

 幼い頃は、愛称で呼ばれ、抱きしめられるのが嬉しかったけれども。

 

(彼女に呼ばれたら、どんな感覚になるのだろうな)

 

 きっと母とは違う印象を受けるに違いない。

 カサンドラが、母のような意図をもって愛称で呼ぶとは考えられなかった。

 立場や身分にこだわる性質ではないとわかっている。

 そもそも、毎日、邪見にされているし。

 

「お前が羨ましい」

「はい?」

 

 いつも通り、執務机の前にいたベンジャミンを上目遣いで、小さくにらむ。

 親しみをこめて呼んだのではないとわかっていても、羨ましかったのだ。

 あれは嫌がらせの類だろうが、それはともかく。

 

「お前も、俺を愛称で呼ぶか? そうすれば、彼女は、お前の“真似”をするかもしれないだろう?」

「お戯れを仰らないでください……」

「そうだ。冗談だ。少しも笑えないがな」

 

 ティトーヴァは執務机に頬杖をつき、広い室内を眺める。

 かつては、父も使っていた部屋だ。

 ぼんやりと、当時のことを思い出す。

 幼いティトーヴァは、何度か、ここを訪れたことがあった。

 

 父は、たびたび出征しており、帝都を空けることも多く、戻れば戻ったで、この執務室に籠っていたのだ。

 そのため、父に会うには、ここに来るしかなかった。

 だが、記憶の片隅に、父と話す自分の姿がある。

 5歳くらいまでは、話しかければ返事がもらえていたように思う。

 

 あれは、いつ頃のことだったか。

 

 気づけば、父はティトーヴァを拒絶するようになった。

 注がれるのは冷たい視線だけ。

 言葉をかけられることもなく、声をかけても返事をもらえなくなったのだ。

 

(……7歳か、8歳か……)

 

 十歳の時には、確実に、父はティトーヴァを(うと)むようになっている。

 その前後関係を考えれば、やはりラーザの件が起因しているに違いない。

 フェリシアとの出会いが、父を変えた。

 父は、母のみならず、息子への情も捨てたのだろう。

 

 父に疎まれていることもあったが、母の自死の要因となったフェリシアとは公の行事以外で会ってはいない。

 会話もしなかった。

 ただ、父の横に並んでいるフェリシアが憎かったのだ。

 

 小さいとはいえ、ひとつの国の女王だったフェリシア・ヴェスキル。

 

 長く平民暮らしをしてきたとは思えないほど、堂々とした姿に、周囲の者は圧倒されていた。

 父の隣に立ち、幸せそうな表情を浮かべていたのを覚えている。

 そして、父もまた。

 

(あの女がたぶらかし、(そそのか)したのだと思っていたが……)

 

 父にとって、フェリシアは特別な存在だったのではないか。

 カサンドラを気にかけるようになったからか、一方的な見方をすることに抵抗を感じ始めていた。

 もちろん、今までの認識が覆るわけではない。

 それでも、フェリシアの人となりを、(はす)に構えず、見極めておけば良かったかもしれない、と思う。

 

(今さらな話だ……それに、彼女と母親は別の人間だ)

 

 母親がどういう人間であったかは、今では知る由もないことだ。

 どういう人間であれ、カサンドラとは関係もない。

 ティトーヴァは、彼女個人を気に入っている。

 

「彼女の発想は面白いな」

「栄養バランスの話を仰られているのでしょうが、それほど重要とは思えません。医療管理部は、毎月、健康診断を行い、異常があれば適切な薬を処方いたします。それにより体調管理はできていますから、食事の内容にまで、こだわる必要があるでしょうか」

「お前は、存外、頭が固いのだな」

 

 ベンジャミンは真面目で優秀だ。

 ティトーヴァに対する忠誠心も厚い。

 だが、全体を俯瞰して物事を考えることはしないのだ。

 それは、ベンジャミンの仕事の範疇を越える。

 

「殿下には、なにかお考えがおありなのですね」

「簡単に言えば、長期的な予防だ」

「予防……なるほど」

 

 大きく物事を見る癖はなくとも、頭はいい。

 言葉を添えれば、ベンジャミンは、きちんと理解する。

 だから、多くを語らずにすませられるのだが、自分の中で整理をつけるために、あえて言葉にすることにした。

 

「帝国には、常時、一定数の兵がいる。直轄国ですら、いつ牙を剥くか、わからんからな。兵たちの体調管理には、当然だが医療費がかかる。食事を変えることで、あたり前に出ていた症状が緩和されるのなら、それに越したことはない」

「医療費の予算は、毎年、かなりの額ですし、財政の負担になっているのは間違いございません」

「すぐにというわけにはいかんだろうが、長期的に、医療は治療から予防へと概念を変えるべきだと思ったのだ」

 

 最初は皇宮からになるだろう。

 次が騎士など兵たちの意識を変え、最終的には民にも浸透させる。

 そうすれば、総合的な医療費の負担は減っていくはずだ。

 

「その分、ほかに予算を充てられる。より効率的に効果の出る薬の開発にも繋がるだろう。食事の改善だけで、(かか)らずにすむ病もあるかもしれない」

「病に罹らずにすむのであれば、民にとっても望ましいことでしょう」

 

 帝国は裕福ではある。

 とはいえ、下層階級の民がいないとは言えない。

 帝国全土に医療施設はあるが、そこに行けない者や薬を買えない者もいる。

 ゆくゆくは、余った予算で、そういう者たちにも手を差し伸べられるだろう。

 

「彼女が国のことを考えていたとは思わない。だが、きっかけは与えてくれた」

 

 ヴァルキアス自体の歴史はあるが、帝国としての歴史は浅い。

 やっとヴァルキアス帝国としての基盤が安定してきたところだ。

 今後、歴史が続いていくかは、ティトーヴァの肩にかかっている。

 少なくとも、ティトーヴァは、そういう意識で「皇太子」をやっていた。

 

「カサンドラは、俺たちとは違う方向で、ものを考えている。俺にはない視点だ」

「そこを、お気に召しておられるのですね」

「そうだな。必要だと感じているし、特別な存在だと思っている」

「特別というのは……」

 

 ベンジャミンに、首を横に振ってみせる。

 その問いには答えられない。

 自分でもわからないからだ。

 この感情を「愛」だとするのは、早計だと感じる。

 

 父も母も「愛」で身を滅ぼした。

 

 自分は、そうはなりたくない。

 手放し難い存在ではあるが、愛がなくとも、そう思える相手はいるだろう。

 ベンジャミンだって、手放し難い人材だ。

 違うのは、ベンジャミンは男で、カサンドラは女だということ。

 

 カサンドラの凛とした姿を、美しいと思う。

 そっけない口調で、なのに、いちいち反論してくるのが可愛らしいとも思う。

 焦げ茶色の髪にふれてみたかったし、抱きしめたら、どんな感触がするのかと、想像しなくもない。

 

 なにより、嘘偽りのない笑顔を見てみたかった。

 

 今のところ、カサンドラは不機嫌な顔しか見せていない。

 けれど、以前より距離は縮まっている気がする。

 時間をかけるとの判断は間違いではなかったのだ。

 

 愛に溺れたりはしない。

 父の二の舞にはならない。

 

 思いはすれど、カサンドラに女性的な魅力を感じていることは否定せずにいた。

 彼女は皇太子妃となり、後継ぎを産む女性となるのだ。

 ならば、異性として意識するのは自然な感覚だと言える。

 そこに愛が介在していなくても。

 

「早急に医療管理部に詳細な数値を弾かせろ。それを元に、料理人にはメニューを作成するよう指示しておけ」

「かしこまりました」

 

 てきぱきと政務をこなしつつも、明日は、カサンドラとどんな話をしようかと、ティトーヴァは考えていた。


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