看過の界線 1
体の重みに、キャスは正気に戻る。
さっきの光景は、なんだったのか。
わけがわからない。
いや、わかってはいるのだが、心がついて来ないのだ。
爆発音と爆風、大きな水柱。
直後に、キャスは沼のほうを見ている。
水しぶきの中、ラシッドの顔が、わずかに見えた。
こっちを見ていた。
びっくりした、といった表情。
その顔は、すぐに見えなくなった。
水に覆われてしまったからだ。
キャスは、心で否定しながらも、頭で理解していた。
なにが起きたのかを。
だから、沼に向かって走ったのだ。
そこには、まだノノマとシュザがいた。
薄い緑髪の可愛い女の子と、頼りないが優しい恋人。
秋には番になる予定だった2頭。
水に押されながらも、懸命に走った。
もう少しで、ノノマに手がとどく。
思った時、また大きな爆発音が響いた。
シュザの叫びと、ノノマを庇う姿。
庇われ、倒れていくノノマは、やはり驚いた顔をしていた。
そして、そのまま2頭の姿は見えなくなったのだ。
キャスも水にのまれ、意識が途切れている。
どうしてか体中が痛かった。
「……フィッツ……?」
フィッツが、微笑んでいたような気がする。
そんなはずはない。
ティニカのフィッツは、笑ったりしないのだ。
ほんのわずかな笑みを浮かべることさえなかった。
「…………フィッツ……?」
フィッツが、キャスの体に覆いかぶさっている
のろのろと腕を動かした。
肩を掴む。
その手が、ぬるりと滑った。
ゾッと、背筋が凍る。
見れば、こめかみからも血が落ちていた。
こうしている間も、地面に血溜まりができている。
見えてはいないが、背中も傷を負っているに違いない。
「あ……ぁ……」
同じだ。
あの暑い夏の日。
キャスを庇い、フィッツは命を落とした。
呼んでも呼んでも、返事はなくて。
今日も、暑い。
またフィッツを喪ったのか。
今度は、言葉さえもない。
キャスは、フィッツの体を抱きしめる。
『誰か……誰か……っ! 誰か、助けて……っ……助けて……ッ!』
無意識に叫んだ。
どこに向かって、誰に向かって言ったのか、自分でもわかっていない。
ただ、自分にはフィッツを助けることができないことだけは、わかっていた。
「キャス……!」
ハッとする。
ミネリネとファニたちに、取り囲まれていた。
知らず、言葉の力を使ったらしい。
「お、おねが……フィッツ……っ……」
「わかっているわ」
声も体も震えて、まともな会話にならなかった。
それでも、ミネリネが、うなずく。
「キャス、フィッツは死んではいなくてよ?」
「ほ、本当……?」
「ええ、生きているわ。癒せるところは癒したのだけれど」
少し、ミネリネが眉をひそめた。
確かに、血は止まっている。
腕にあった傷も癒えていた。
「彼の体には、私のさわれない部分があるみたいなのよねえ」
フィッツは、ティニカによって作られている。
多くの施術を受けてもいた。
そのため「自然」ではないところも、たくさんあるに違いない。
ミネリネが「さわれない」のは、そのせいだろう。
「で、でも、生きてるんだよね? そうだよね?」
「ええ、生きているわ。ちゃんと息をしているもの」
抱きしめた体から、ぬくもりが伝わってくる。
そして、鼓動も聞こえた。
一気に、安堵する。
フィッツは、死んでいない。
生きているのだ。
1人で、フィッツの亡骸を抱きしめていた時とは違う。
自分だけだったらフィッツを死なせていたかもしれないが、今は1人ではない。
「良かった……良かったよぅ……」
ほうっと息をついた。
と、同時に、体がビクっとする。
顔を上げて、ミネリネを見た。
「み、みんな、みんなは……っ……?」
聞いた時だ。
ザバッと、水音がした。
顔を向けると、ザイードが沼から上がって来る姿が見えた。
ミネリネが寄って行く。
歩いてくるそばから、ザイードの傷が消えていった。
「ざ、ザイード……ねえ……」
ザイードは、目を合わせようとしない。
心臓が、嫌な感じに、ばくばくする。
ザイードに訊きたかったが、声が出せずにいた。
恐ろしくてたまらない。
そんなはずはないと、信じたかったのだ。
頭の隅で感じていることを、心が拒否している。
さっきまで、みんなで遊んでいた。
水浴びをして、笑っていた。
それが、突然、消えてしまうなんて有り得ない。
あってはいけないのだ。
だが、ザイードは押し黙っている。
なにも言ってくれない。
恐ろしかったが、視線をわずかに沼のほうに向ける。
喉の奥が、小さく引き攣った。
水面が真っ赤に染まっている。
そこには「なにか」が浮かんでいた。
言葉が出て来なくなる。
頭が真っ白になりかけた。
そのキャスの耳に、また大きな爆発音が響く。
少し遠くから聞こえていた。
今度は、視線をそっちに向ける。
煙と火が上がっているのが見えた。
「余は、戻らねばならぬ。そなたは、ここにおれ」
「ザイード……」
「一緒におってやることもできず、すまぬな」
ザイードは、悲しげな顔をしている。
今まで、こんな表情を浮かべるザイードを見たことがなかった。
「余は、ガリダの長なのだ。民の元に行かねば」
「わ、わかってる。私は、だ、大丈夫……ミネリネも……」
「そうね。怪我をしているものがいるでしょうし……」
ザイードが、サッと体を返す。
びしょ濡れのまま、駆け出した。
ミネリネとファニたちも姿を消す。
家のあるほうへと向かったのだろう。
キャスは、ぎゅっと目をつむった。
沼のほうを見る勇気がなかったのだ。
だが、閉じた瞼の裏に、あの光景が見える。
水柱の中に見えたのは、ラシッドの顔だけではない。
ガリダのものと思しき、鱗のついた手足、それに尾。
それが、バラバラと落ちていたのだ。
小さくて、子供のものだと、頭が勝手に理解していた。
したくもないのに。
目を強くつむり、キャスは、空を見上げる。
なぜ、暑い夏の日は、こんなことばかり起きるのだろう。
ほんの少し前まであった蝉の声が聞こえない。
「なんで……なんで、こんなことするんだよぉ……っ……みんなが、なにしたって言うのっ? なんにもしてないじゃん! なんにもしてないよっ!」
目から涙があふれた。
わかりたくもないのに、わかってしまう。
ラシッドもシュザも死んだのだ。
水面を赤く染めているのは、沼にいた、みんなの血だ。
ノノマも、きっと。
最初に姿を現わした時から最近まで、いろんな顔のノノマが出て来た。
声が、はっきりと聞こえてくる。
『私は、ノノマと申しまする』
『あ! 肌の色は、もう少し白いほうが良うござりましたか?』
『キャス様がお好きなかたや味方をするかたというのは、キャス様の、ご同胞にござりますれば』
『嫌にござりまする! 私も、キャス様のお力になりとうござりまする!』
『キャス様、諦めるか、状況が変わるのを待つかは己で決められまする。私は、シュザとの根競べと思うておるのでござりまする』
笑ったり、泣いたり、怒ったりする姿を見てきた。
キャスを慰めたり、励ましてくれたり、一緒に戦ってくれたりも、した。
泥湯につかりながら、初めて「女子トーク」なんていうものをしたのだ。
ノノマは、確かに、キャスの「友達」だった。
ザイードは、誰も連れず沼から上がって来ている。
連れて来られなかったのだと、悟っていた。
水面に浮かんでいる「なにか」は、みんなの体のどこか。
連れて上がれるような状態ではなかったのだろう。
「嫌だぁ……こんなの嫌だよ……っ……嫌だあ……っ……ッ!!」
キャスは、空を見上げ、涙をこぼしながら、大声で泣いた。
彼らをバラバラにしたもの。
それは、ガリダの子の体内に仕掛けられていた、爆発物、だ。




