回帰を望んだところとて 1
季節は夏に変わっていた。
ガリダは沼が多いため、湿度が高い。
気温も高く、外に出ると、たちまち汗が出る。
フィッツは体温調節ができるのだが、最近は、あえて切っていた。
『去年もいたはずなんだけど、こんなふうだったかなぁ』
カサンドラが壁を越えたのは、夏だったのだそうだ。
魔獣に襲われているところをザイードに救われ、魔物の国に来た。
それが、ちょうど夏だったという。
だが、どうやって過ごしていたのかは、あまり覚えていないらしい。
『暑かったのは覚えてる。でも、ここに来てから暑くて大変だったとかさ。そういうのは、わかんないんだよね。ずっと横になってたからかな』
魔獣に噛まれた怪我が治るまでは、ザイードの部屋で、ノノマたちに世話をしてもらっていたと聞いた。
長く家にいて、しばらく外には出なかったのだと、カサンドラは語っている。
話しながら、少し困ったような顔をしていた。
その時、フィッツには訊きたいことがあったのだが、結局、訊いていない。
なぜ訊きたいのかが、自分でも、よくわからなかったのだ。
『私がいなくて、お困りでしたか?』
そんなことを訊いてどうなるのか。
自分は死んでいて、カサンドラの近くにはいなかった。
死んだがゆえに、魔獣から彼女を助けることもできなかった。
なのに「困ったか」などと、なぜ訊こうとしたのか。
近頃、こういう理解できないことが、増えている。
自分のことなのに「なぜ」が解消できないのだ。
1度、死んだからかもしれない。
欠落した記憶があるため、情報不足に陥っている可能性はあった。
そのせいで、自分の行動を分析し切れずにいるということは有り得る。
(私は、欠陥品になってしまったようだな)
ティニカでは、ヴェスキルの継承者を守り、世話をする者が作られる。
候補は複数いても、最も優秀な者しか役目は与えられなかった。
あとで面倒なことにならないよう、不要とされた者は処分される。
フィッツは、それを、ごく自然なこととして受け止めていた。
なんとも思わなかったのだ。
フィッツ自身、カサンドラに「不要」と見做されれば、いつでも自死するつもりでいる。
ティニカの存在理由は、明確だった。
与えられた使命を果たすことだけだ。
なので、別のティニカを呼ぶべきだろうか、と思うこともある。
こんな状態では、使命をまっとうできない気がした。
さりとて、去り難くもあり、決断しかねている。
役に立っているかどうか、必要とされているのかどうか、確信が持てないまま、フィッツは、日々を過ごしていた。
(室温調整すら、ここではできない。姫様も、望んでおられない)
あのボロ小屋にも、温度を調整する装置はなかったが、造ることはできたのだ。
皇宮にいれば、どんな部品も簡単に調達できた。
動力源さえ自由自在。
フィッツは、カサンドラに快適な空間を作ろうと努力していた。
(努力できることがある、というのは、良かったのかもしれないな)
ここでは、部品の調達ができない。
そもそも、魔物は機械を好まない生き物だ。
人との戦いにおいて、しかたなく使っているに過ぎなかった。
なにより、カサンドラが、自然でいい、と言っている。
そうなるともう、フィッツは、なにで役に立てばいいのか、わからなかった。
努力すらも許されなくなっている。
食材の調達も、フィッツだけがしているのではない。
魔物は、夏場の狩りが得意なのだ。
肉も魚も、ふんだんにある。
野菜とまでは言えないが、湿地帯には食べられる野草も多く生息していた。
簡単な調理でも、カサンドラは満足している。
食事には「こだわりがない」と言う。
いったい、自分は、なにをすればいいのか、なんのためにいるのか。
日々、繰り返し、思うのだ。
穏やかな日が日常となりつつある。
彼女に危険がないのは、いいことだった。
なのに、取り残されて行く。
彼女は、1人で、どんどん先に進み、遠くなるばかり。
今日も、フィッツは、1人で洞にいた。
湿地帯には、カサンドラたちがいるはずだ。
この辺りは、日陰に入ると、少し涼しかった。
水浴びのできる、綺麗な水の沼もある。
(外に出れば、姫様の声が聞こえるだろう)
子供たちを連れて、ザイードにラシッド、ノノマにシュザ、みんなで「水浴び兼ピクニック」をすると言っていた。
きっと楽しそうに笑っている彼女の姿が見られる。
わかっているのだが、どうしても出て行く気になれない。
実を言うと、カサンドラはフィッツのことも誘ったのだ。
それを、フィッツは断っている。
やらなければならないことがある、と言った。
嘘ではないが、本当でもない。
ちっとも急くことではないのだから。
やらなくてはならない、というより、やっておいたほうがいい、という程度。
自分でも、わかっている。
これでは役目を果たしていることにはならない。
必要があれば手を貸すべきだし、必要がなかろうと、いくらでも世話はできる。
今の自分を、正しい「ティニカ」とは思えなかった。
作られた時から記憶にある限り、フィッツは「ティニカの教え」に従い、生きてきている。
それ以外の生きかたを、フィッツは知らない。
(姫様は……ザイードさんと、番になることを……望んでおられる……)
それでも、自分の役目は変わらないのだ。
何度も何度も、繰り返し繰り返し、言い聞かせてきた。
けれど、何度も何度も、繰り返し繰り返し、同じことを考えている。
にもかかわらず、カサンドラに訊かずにいた。
彼女とザイードの距離感に、無意識の疎外感をいだいている。
フィッツにしてみれば、あるはずのない感覚と感情。
知らないことには、気づけない。
教えてくれる者もいなかった。
(私は、1度、死んでいる……死ぬ前は、どうしていたのか……去年の夏……まだ生きていたはずだ。生きて、姫様と一緒にいた)
なにをしていたのか。
どうやって過ごしていたのか。
思い出したくても、思い出せない。
なにも覚えておらず、彼女が話してくれた以上のことは、わからずじまいだ。
すべてを話してくれてはいないのだろう、とは気づいている。
時々、カサンドラが言葉を詰まらせたり、辻褄が合わなかったりするからだ。
皇宮を逃げたのは冬。
自分が死んだのは夏。
半年もの「記録」がない。
カサンドラの食事を用意したり、眠る場所を確保したりしていたはずなのに。
(私なら……ティニカの隠れ家に行く。おそらく、行った)
そこでなにがあったのかを、カサンドラは話さずにいる。
自分が重大な失敗をしたに違いないと、フィッツは推測していた。
ティニカの隠れ家は、何十年でも過ごせるだけの施設なのだ。
無事に辿り着けたのなら、出て行く必要はない。
出て行かざるを得ないような失敗があった。
だからこそ、カサンドラは話さないのだろう。
わざわざ咎めることはない、と思っているのではなかろうか。
そうでもなければ、あえて、そこだけ話を避ける理由がない。
1度は死に、生き返ったことさえ話してくれたのだから。
(姫様は……お優しいかただからな……私を気遣っておられるに違いない……)
出来損ないのティニカ。
失敗作のティニカ。
役に立つどころか足手まといになっている。
(……死んで、どうする……姫様を守れもせず……)
アトゥリノ兵やベンジャミンからは守ったかもしれない。
カサンドラからも「守って死んだ」と言ってもらっている。
だが、結果として、ザイードがいなければ、カサンドラは死んでいた。
それを考えれば、守ったことにはならないのだ。
(……死んで、どうする……死んだら守れないと、姫様からも言われていたのに)
フィッツは、洞の中で、動力石がある場所にいた。
やることがあると言いながら、なにもせず、ずっと立っている。
そのフィッツの意識に、ふっと、よぎるものがあった。
「ティニカ公!」
スッと、フィッツの瞳の色が変わる。
感覚が、ティニカに引き戻されていた。
それまで考えていたことが、すべて消えていく。
「アイシャ・エガルベか?」
「ティニカ公、時間がございません!」
アイシャとも知り合いだったらしいが、覚えていない。
が、今はどうでもよかった。
連絡が入ったことが問題なのだ。
カサンドラは、アイシャが無事で喜ぶかもしれないが、喜べる状況ではない。
「早く姫様を、ガリダの地より遠ざけてください!」
バタバタッと、フィッツの中に情報が流れてくる。
アイシャからティニカ、ティニカからフィッツに、伝達が行われたのだ。
一瞬で、理解する。
バッと駆け出した。
一刻の猶予もない。
フィッツは、強く後悔する。
危険は去っていないとわかりながら、カサンドラの傍を離れた。
わけのわからない感覚が、フィッツを惑わせたのだ。
ティニカの教えに忠実であれば、こんなことにはなっていない。
(私は、なんと愚かな……姫様……っ……)
フィッツは、全力で走る。
ただ1人、守らねばならない、いや、守りたい女性の元に。




