いくつも道があったとて 1
ザイードは、上空から、その光景を見ていた。
壁から、1キロほど離れた場所だ。
交渉日から、約10日が過ぎている。
皇帝は、約束を守った、と言えるかもしれない。
魔物の子たちが、次々と壁の向こうから姿を現わしていた。
服は身に着けておらず、痛々しい姿だが、生きている。
どうすればいいのかわからないのか、出されたまま立ち尽くしていた。
きょろきょろと辺りを見回している。
壁の中に、戻ろうとするものもいた。
それも、いたしかたない。
目が開く前から、写真にあった地下の檻しか知らずに生きてきたのだ。
外の世界は、その子らにとっては、壁の中よりも恐ろしく感じられるだろう。
「恐れずともよい」
壁の外にいた子らが、一斉に体を、びくっとさせた。
いきなり話しかけられたのだから、驚くのも無理はない。
とくに、ルーポは耳がいいので、はっきりと聞こえたはずだ。
ここからでも、耳がピンッと立っているのが見える。
「余の姿が見えておろう? お前たちは、我らが子ぞ。傷つけたりはせぬ」
魔物は得てして目がいい。
1キロ先など遠目にはならないのだ。
しっかりと、ザイードの姿を捉えている。
そして、言葉も通じている。
魔力での会話は、人の使う言葉とは違うのだ。
なにを知らなくても、意思の疎通ができる。
魔力を使っているという意識すらなくてもよかった。
キャスが最初からザイードと会話できていたのも、そのためだ。
「ど、どうなる、の?」
「我らの国に連れて帰る。元々、お前たちは、我ら魔物の国の子なのだ」
「で、でも……」
壁の中を気にしている子たちがいる。
おそらく残された成体を「親」としていたのだ。
実際に血の繋がった親かどうかはともかく、そう教えられていたと察せられる。
子たちには頼るべきものがいなかった。
大人たちも、我が子であろうがなかろうが、必死で守ろうとしたに違いない。
子に会わせなければ、言うことを聞かないものもいたはずだ。
引き離されていたとはいえ、何度かは会っていただろう。
だから、子たちは「親」を気にしている。
「まずは、お前たちが無事でおらねば、みんな、心配いたす。残ったものたちも、遅くなるかもしれぬが、帰って来る」
ザイードは、必ずとも絶対とも言わなかった。
言えば、嘘になる可能性がある。
残された大人の魔物は、年老いているのだ。
子らが人の手を逃れたことに安堵して「生」から解放されるものも出てくる。
幼子を守るため、自然の理に反し、寿命を繋いできたものもいただろうから。
「皆、揃うたな。ゆっくりでよい。余のほうに向かって歩くのだ。年上のものは、小さいものの手を引いてやれ。ゆっくりでよい。なに、ほんの少し歩くだけぞ」
それぞれの種族の子、総勢107。
全員が、壁の外にいた。
少し体の大きな子が、小さな子の手を取っている。
中には、小さな子を背負っている子もいた。
ゆっくりと壁から離れて、ザイードのほうに向かって歩いて来る。
時々、壁のほうを振り返りながら、それでも前に進んでいた。
確かに、魔物の子だ、と思う。
なにかを教えられたわけではないのに、自然の摂理に従っている。
生きることを諦めてはいない。
子らが、ザイードに近くなって来た。
攻撃はないはずだが、信じきれなくて当然だ。
ザイードは、首を上げて空を見る。
春先の晴れた綺麗な青色があった。
「これから風が吹く。我らの力ゆえ驚くことはない。そのまま歩き続けよ」
小さな体で、子らは、懸命に歩いている。
壁が遠くなるにつれ、振り返るものはいなくなった。
たとえ幼くとも、生き残る選択をしたのだ。
「ダイス、準備はできておるか?」
「おう! 任せとけ!」
「強う噛んではならぬぞ」
「わかってるって!!」
今回、毒の心配はないとのことだったが、念のため、「迎え」の中に、解毒剤を持ったものを同行させている。
フィッツは、少しの可能性も見過ごしにはしない。
子らの命にもかかわることだ。
ザイードも「備えあれば患いなし」と、同意した。
「では、始める」
青い空が、一気に灰色へと変わる。
ざあっと、風が吹き荒れ始めた。
雨は降らせていない。
春先でも、まだ外は肌寒いのだ。
服を着ていない子らを、びしょ濡れにはできない。
背負われている子らは、小さいからというだけではないようだった。
体調が悪く、歩けないのだろう。
雨に濡れれば、もっと具合が悪くなる。
それを心配して、ザイードは風だけを吹き荒れさせた。
壁の向こうで銃をかまえていたとしても、これで子らの姿は捉えられない。
空に「無人偵察機」とやらがないことも確認している。
だが、もしあったとしても、砂嵐にも似た暴風に、まともな映像にはならなかったはずだ。
暴風で、向こうとこちらを切り離した途端、走り出すものたち。
ダイスを筆頭にした、ルーポの群れだった。
びっくりして固まっている子らを、次々と背に乗せる。
ダイスなどは、小さな子を背負っていた子ごと、だ。
「よっし! 帰るぞ、皆! ザイード、全員、拾ったぜ?」
「お前たちが、射程を抜けるまで、余は、しばらくここにおる」
「そうだな、そうしろ。オレたちは、先に帰る」
「ダイスよ、ゆっくりを忘れるでないぞ」
「わかってるって! オレも、加減てのを覚えたんだ、心配すんな!」
どうだか、と思ったが、さすがに子を乗せて無茶はしないだろう。
ダイスにも、5頭の子がいる。
そういう意味で「加減」くらいは心得て、と考えかけて、少し瞳孔を狭めた。
(あれは、子を背に乗せて無茶をしたと、キサラに、こっぴどく叱られておったのではなかったか……? それを覚えておればよいが……)
ダイスは、ほとんどのことを、翌日になったら忘れる。
言えば思い出すが、言われなければ思い出さない。
もっとも、今回は周りには、ほかのルーポもいるので、ダイスが無茶をするようなら引き留めてくれる。
おそらく。
ダイスたちは、いったんガリダに向かうことになっていた。
いずれ、それぞれの種族ごとに分かれて、引き取られることにはなる。
だが、いきなり引き離すのは良くないのではないか、とキャスに言われたのだ。
今後、分かれて暮らすことになるとしても、そのことを話してからのほうがいい、ということだった。
ザイードもだが、ほかの長たちも、その考えを完全に理解できたとは言い難い。
同じ種族の領地に帰るのが当然と考えていたからだ。
『それは、みんなが、ずっと一緒に暮らしてきたからです。あの子たちは、別の種族の子たちと、ずっと一緒だったんですよ。仲のいい子もいるでしょうし、いきなり引き離されたら、不信感をいだかれかねません』
そう言ったキャスに、なぜだと問うたのは、ダイスだった。
ほかの長たちは、なんとなく察し、黙っていたのだが、それはともかく。
『じゃあ、ダイスさんの子と、いつも遊んでいる子が、突然、いなくなったら、どうなりますか? ダイスさんの子は、どう思いますか?』
そこまで言われ、ようやくダイスも「なんとなく」理解している。
どうしても、全員「なんとなく」でしかなかったが、なんとなくは、わかった。
魔物は、種族での領地が明確だ。
別の領地で、別の種族とともに育つということがない。
大人になれば、別の種族の領地と行き来し、番になったりもする。
だが、子のうちは、領地から出ることはないのだ。
そのため、一緒に育ったものと「引き離された」経験がない。
「ザイード、射程は完全に越えたぜ?」
「そのようだの。余も、帰るといたそう」
風が止み、空が青色に戻っていく。
ザイードは、しばし壁を見つめていた。
(フィッツの言うた通りであったな。まぁ、ほとんどは奴の言うたようになるが)
壁は、純血種の魔物を弾く。
中間種とは異なる反応をするのだ。
なので、その影響範囲から外れた地下に、純血種たちは隠されていた。
つまり、地上に出せば、壁が勝手に弾き出してくれる。
壁ができた際の「解放」とは、そういうものだったのだと、フィッツは言った。
人間側は、なにも「解放」しようとしてしたのではない。
意図せずして「解放した」ことになっただけなのだ。
そうでなければ、その後、魔物を皆殺しにしたことに理屈がつけられない、と。
壁は人を守るためのもの。
同時に、魔物を救うためのものだった。
(しかし……救われぬものもおったのだ……)
『ルーポは情が深く、人にとっては、最も扱い易い種族でした。労働力としても優秀だと判断し、アトゥリノ人が手放さなかったのでしょうね』
攫われた数は、ガリダのほうが多かった。
けれど、1番、大きな被害を受けたのは、ルーポだったのだ。
残された23のうち、ルーポが12頭。
ガリダ5、イホラ4、コルコ2という数字からも、フィッツの言葉の正しさが、裏付けられている。
(ダイスには言えぬ……己の種族の性質が災いしたなどと……)
ルーポは、気の良いものが多い。
それは好ましい部分であって、災いをもたらすものとはしたくない。
今回、取り返した子らにも、これから産まれてくる子らにも、受け継がれてほしかった。
(人のすべてが悪ではないが、良きものばかりでもないのだ)
そう心に留め置いて、ザイードは体を翻す。
結局、銃撃はなかった。
今後どうなるかはともかく、今回だけは、皇帝は約束を果たしたのだ。
半信半疑でいた心が、やっと確信に至っていた。




