会談の階段 1
「し、失敗、でした」
「やっぱりか! 思った通りだったぜ!」
ははっと、クヴァットは軽く笑う。
予想通りだったので、驚きもしない。
今日は、交渉当日。
皇帝もセウテルも、帝国にはいなかった。
アルフォンソも「お出かけ」しているので、久しぶりに、のんびりしている。
個室なので気兼ねもない。
とはいえ、まだ医療管理室から出られないので、歩き回ることはできなかった。
2ヶ月近くも、シャノンとは通信でのやりとりしかしていない。
すっかり薄汚れてしまっているだろう。
宮にいた頃とは違い、気軽に湯につかれる場所もないのだ。
そもそも、シャノンが身の回りのことを気遣えるとも思えなかったし。
「ちゃんと、食事はしてるか?」
「か、缶詰が、あります」
「缶詰かよ」
チッと、小さく舌打ちした。
しかたがないことではあるが、缶詰ばかりでは飽きがくる。
しかも、たいして美味くない。
腹が減れば食べる、という程度では、また痩せ細ってしまう。
「まぁ、近いうちにサレスの家に戻るからよ。それまで我慢しろ」
「はい……? はい、ご主人様」
シャノンは食事が貧相でも「我慢」だとは思っていないのだ。
ロキティスの元にいた頃は、それが当然、いや、缶詰以下だったに違いない。
缶詰でも満足している様子が気に障る。
シャノンは、魔人クヴァットの持ち物なのだ。
痩せ細った惨めな中間種とは違う。
いつでもピカピカに磨かれている、そんな誰もが羨む存在であるべきだった。
なのに、このままでは、こ汚く嘲笑われることになる。
それは、大変よろしくない。
「ちっと早めに、ここを出るとすっか」
「わ、私も、帰れますか?」
「お前は、用が終わったら、すぐ帰ってくりゃいいんだよ」
「わかり、ました」
声に、少し張りが出ていた。
帰れるのを喜んでいるようだ。
シャノンは、元々、おどついているところがあった。
きっと自分が一緒でないと、また虐められると不安になるのかもしれない。
「そんで? あいつは、どうした?」
「ガリダのほうに、逃げました」
「場所は、ちゃんと教えられたか?」
なにぶんシャノンは頭がいいとは言えなかった。
クヴァットの指示を忠実に実行はするが、必ずしも成功するとは限らないのだ。
もちろん、それも織り込み済みではある。
シャノンにも言っているが「失敗してもいい」と考えていた。
予定通り過ぎても、つまらないからだ。
突発的な事態が起きるのを、クヴァットは好んでいる。
なので、罠を張り巡らせはしても、そこに精緻さは求めない。
その罠によって、どう転ぶかを楽しんでいる。
「たぶん……だいたい……? 地図を、書かされた、ので」
「は? 書いたって、どうやってだ? お前、筆記具なんか使ったことねぇだろ」
「ゆ、指で、地面に、書きました、よ?」
「そうか。そりゃあ、いい」
紙に書いたとなれば「証拠」が残る。
だが、地面に書いたのなら、すでに消え去っているはずだ。
シャノンの知恵のなさに、クヴァットは満足感を覚える。
意図的でないのがいい。
本人は、証拠の隠滅など、まるで考えていないのだから。
「本当に、お前は、よく出来た玩具だ。俺を楽しませてくれるぜ」
「よ、良かったです」
「帰ったら、ピカピカにしてやる」
「あの……髪が、ガビガビになり、ました」
「ガビガビ? なんでだ? 泥ン中にでも入ったのか?」
「……いえ……あ、あの人に、スープをかけられ、て……」
イラっとした。
あの人というのは、魔物の国に行き、カサンドラを狙っている男だ。
中間種を連れて行くのは予想していたので、その中にシャノンを潜り込ませた。
道中、いくつかの情報を渡すように指示している。
ガリダの場所も、そのひとつだ。
「くそっ! くそっ! あの野郎、もっとマシな奴を選べなかったのかよっ!」
個室とはいえ、無闇に音は立てられない。
そのせいで、周りにあるものを蹴飛ばしたくても蹴飛ばせなかった。
自分のものに手出しをされたことに、腹が立ってしかたがない。
カサンドラが、シャノンの耳と尾を切った時のことを思い出す。
今回のこととは、直接、関係はないのだが、それはともかく。
「あの小娘! 絶対に地べたに這いつくばらせてやる……っ……」
「あの人は……そっちに、行きました、か?」
「あの気色の悪ィ弟が、そうするように言ってるだろうぜ! くそっ!」
「こ、殺しに?」
「いいや、殺すのは目的じゃねえ! くそ野郎がっ!」
「ご、ご主人様……み、水浴びしたら、良くなります、か?」
クヴァットの機嫌が悪くなったのを、シャノンが気にし始めていた。
耳をへたらせている姿が目に浮かぶ。
それで、ようやく、少し気分が落ち着いた。
どうせアルフォンソの手先は、生きては帰れないのだ。
「雪がとけたっつっても、まだ外は寒いだろうが。水浴びはしなくていい。ていうかよ、もういいわ、お前、帰って来い」
「いいん、ですか?」
「ああ、もういい。そこまでするほどのことじゃねえ」
「ガリダで……迷う、かも?」
「そんな野郎は、迷わせときゃいいんだよ。どの道、捕まるしな」
少しは手をかけてやろうかと思っていたが、やめることにした。
フィッツやザイードの気を引く程度なら、その男がガリダに向かっただけでも、十分に役は果たせる。
シャノンに、スープを、ぶっかけるような奴だ。
案内を失い、ガリダで迷っているうちに、取っ捕まればいい。
クヴァットにとっては、その男が捕まろうが、どうしようが、どっちでもかまわなかった。
引っ掻き回せれば交渉が面白くなる、と思っただけのことに過ぎない。
その役は果たせそうなのだから、これ以上、手を貸してやる必要はないのだ。
「そいつに、蹴飛ばされたりしなかったか?」
「……蹴飛ばされて、ないです」
「じゃあ、なにされた」
「耳を切られそうには、なりました、けど?」
「な……っ……」
くらっと、眩暈がする。
シャノンは、虐げられることに慣れているせいか、平気そうだ。
だが、シャノンの耳は、ラフロに頼んで「再生」させた大事な耳だった。
形が整っていることが、クヴァットは重要と考えている。
「切られてねぇな?」
「切られて、ません。嫌がったら、殴られて、スープをかけられて……終わり」
キィっと、頭に血が昇りそうになった。
いや、昇った。
頭に血が昇り過ぎていて、言葉が出て来ないだけだ。
目の前に、その男がいたら、絶対に縊り殺している。
「ご主人様?」
「今度、お前に、なにかしようとする奴がいたら、かまわねぇから、殺しちまえ。いいな? 魔物ならともかく、人間なら、やれんだろ?」
「やれ、ます」
「勝手に耳を切られたり、尾を引っこ抜かれたりするんじゃねぇぞ、わかったか」
「わかり、ました。人間だったら、殺します、ね」
「あ。なるべく血塗れにならねぇようにしろよ?」
「はい、ご主人様、気を、つけます」
ふうっと息を吐いて、額を押さえた。
人の体は、感情により、反応が変わる。
ゼノクルの体には馴染んでいたので、調節ができた。
だが、この体には馴染み切っていないため、調整が甘い。
要は「血圧が上がった」のだ。
人間は、魔物を見下している。
中間種についても、人とは見なしていない。
それはかまわなかった。
クヴァットだって、魔物が、どう扱われるかに興味などない。
ただし、自分の持ち物でなければ、だ。
とはいえ、弟に「中間種を雑に扱うな」とも言えなかった。
ほかの中間種のことなど、どうでもよかったし、シャノンが自分のものだとは、打ち明けられない。
あの弟の調子からすると、打ち明けるのはともかく。
(嫉妬されて殺されるか……逆に気に入って横取りされるかもしれねえ)
兄の代わりに自分が面倒を見る、などと言い出しかねないところが嫌だった。
それらを危惧するに値するほど、アルフォンソは気持ちの悪過ぎる弟なのだ。
セウテルもゼノクルを慕っていたが、あれほどではない。
何事であれ、皇帝より兄を優先することはなかったと知っている。
(そうだ……サレスの家に帰りゃいいんだ。あいつは、所詮、婚外子でサレスには認知されてねぇからな。簡単には、中に入れねぇはずだぜ)
帝国貴族は、気位が高い。
たとえ帝国騎士団の隊長であったとしても、格下の侯爵家の人間が連絡もなしに訪問したって、入れるはずがなかった。
しかも、アルフォンソは、出自に「傷」がある。
昔の醜聞を蒸し返されたくないサレス側は、連絡をしても、のらくらと逃げて、訪問を許可しないだろう。
「すぐに、こっちに帰れ。次に連絡するまでは、あの施設にいろ」
「わかり、ました」
「絶対に見つかるなよ? 汚れちゃいるだろうが、服も脱ぐな」
「はい、ご主人様」
シャノンを魔物の国に向かう一団に潜り込ませはしたが、中間種と行動をともにしないよう言い含めてあった。
人間の近くにいられるよう「案内役」を口実とさせている。
だが、行動に移る際には、隠れているようにも指示していた。
男は見つかっていても、シャノンは見つかっていない。
そう確信している。
ロキティスからの贈り物「隠れ装備」を身につけさせていたからだ。
初めてシャノンがゼノクルを訪ねた時に着ていたフード付きのマント。
「あいつは、死んでからのほうが手間いらずで役に立つ」
ロキティス・アトゥリノが処刑されたのは、もう半月も前のことだった。




