最悪の始まり 4
朝方、フィッツが洞にやって来た。
交渉が始まる、2時間ほど前だ。
キャスは時間が測れないが、フィッツは測れる。
なので、フィッツが「あと2時間ほど」と言えば、2時間ほど、なのだ。
ノノマとシュザを残し、洞の奥まった場所に来ていた。
道は細いのだが、ところどころに瘤のように広がっている場所がある。
フィッツの作った地図を見ると「蟻の巣」のようだった。
「どしたの? なにか問題?」
「問題ではありませんが、承諾をいただきに来ました」
「承諾って、なんの?」
「今回の交渉条件に、ラーザの民は入れない、ということに対してです」
「え……えーと……」
すぐに返事ができずにいる。
交渉により、ラーザの民と魔物たちを、ラーザのあった場所に居住させるという話だったはずだ。
折を見て、壁を操作し、全員を逃がす。
そのつもりでいた。
もちろん実行するには、かなり綿密に計画を立てる必要がある。
そのためにも「停戦状態」を維持させなければならない。
人間側が、開発を着々と進めるだろうことや、いずれ改竄に気づくことを視野に入れていたとしても、だ。
こちらからは攻撃をせず、数年は過ごすことになると予想していた。
だが、その前提が崩れようとしている。
フィッツが、なんの理由もなく言っているとは思えない。
なにか変更するのは「最善」を取るためだ。
(でも、それじゃ……無事の確認もできない……アイシャがどうしてるのかも……わからないままじゃん……)
ジュポナを出て以来、アイシャとは会っていない。
アイシャの父と祖父は、あんな形で死んでしまった。
たまたま聖魔避けに使われなかっただけで、アイシャが、ロキティスに掴まっていなかったとは言い切れないのだ。
口にこそ出さずにいたが、キャスは、事あるごとにアイシャを思い出している。
ずっと心配している。
アトゥリノで、けして良い思いはしていなかっただろうが、バレスタン伯爵家の娘として、アイシャは生きてきた。
ネセリックの坑道で別れた時には、2度と会わないつもりでいたのだ。
アイシャには、エガルベの騎士ではなく、バレスタン伯爵家の者として、平和に暮らしていてほしかった。
キャス自身、帝国に戻る気もなかった。
なのに、キャスは帝国に戻ったのだ。
ジュポナに行き、アイシャたち家族を巻き込んでいる。
バレずに事を運べるはずだなんて、自分が安易に考えたせいだと感じていた。
フィッツに、なにを言われても、気にせずにいられるはずがない。
ザイードの言う「責任は等価」の範疇にもない。
ラーザの民に対してだけは「カサンドラ」の責任なのだ。
彼らは、妄信的にヴェスキルに従う。
命を賭すことを犠牲とも思わないほど、ヴェスキルに忠実だ。
だからこそ、その感情を、想いを、本来は利用してはいけない。
神様であれば、箱舟に乗る人間を選べるのだろうし、選んでもいいのだろう。
だが、キャスは、神様ではない。
ラーザの民全員の命に責任も持てない。
彼らの信じる「カサンドラ」ではないからだ。
自分の決断で、彼らの将来が変わるかもしれない。
しかも、生存のかかった将来だ。
アイシャの家族の将来を変えてしまったように。
「ちょ……ちょっと、待って……そんな決断……今さら、なんで……」
交渉により、ラーザの民の安否の確認ができる。
これは、いい方向に繋がる道なので、簡単にうなずけた。
アイシャが無事かどうかもわかる、と思ったからだ。
「先に、魔物の子の解放を、条件にすべきと判断しました」
「ラーザの民は後回しって、こと?」
「そうです。でなければ、互いの条件の比重が釣り合わなくなります」
「け、けど、向こうは先に仕掛けて来たじゃん。落ち度があるよね?」
「ですから、魔物の子の解放が叶うのですよ」
「それ以上は無理なの? 比重が釣り合わないって……」
フィッツの薄金色の瞳を見つめる。
承諾をもらいに来たと言っていたが、半ば事後承諾に近い。
いや、仮に承諾しなければ、別の方法を取るのだろうけれども。
(フィッツは、それが最善だって判断してるんだ……)
当然だった。
より良い方法があるのなら、そっちを最善としていた。
あえて、承諾を取りに来たりはしていない。
「……子供、全員ってことだね」
「はい、姫様」
フィッツが、ラーザの民と引き換えにするほどだ。
そのくらいでなければ、それこそ釣り合わない。
決断なんてしたくはないし、する資格もなかった。
なんとかならないのかと、足掻きたい気持ちもある。
「ほかに手はなくて……どうしようも、ない……?」
「姫様、停戦期間は、こちらにとっても時間稼ぎになります。今回は諦めるという話に過ぎません。数年の内には、手を打ちます。必ず」
数年という言葉が、心に重くのしかかってくる。
その間、ラーザの民が無事でいられる保証は、どこにもないのだ。
「私が……あいつに頼んでも……無理かな……?」
それだって、フィッツは想定しているに違いない。
その結果の「最善」だと、わかっている。
わかっていても、訊きたかった。
自分にできることはないのか、と。
「残念ながら、むしろ、逆効果になるでしょう」
「……そっか……あいつは、私が精神干渉を受けてるって勘違いしてるし……変にラーザの民って言葉を出せば……」
ラーザの民自体が「盾」に成り得ると知られてしまう。
当初の計画通り交渉ができたなら、盾になると知られても、同時に安全の確保ができたので、問題はなかった。
だが、魔物の子の解放を優先させるのなら、ラーザの民のことは突っぱねられる可能性がある。
安否確認をすることすら危うい。
「ラーザの民を気にかけていないという姿勢が必要です、姫様」
「そうだね……向こうも忘れてくれるくらいにしないと……」
フィッツが、ラーザの民をなんとも思っていないのは、ティトーヴァにもわかることだ。
だが「カサンドラはどうか」とは考えるだろう。
あえて引き合いに出してくるかもしれない。
自分が動揺すれば、即座にバレる。
ティトーヴァは、フィッツやザイードが認める「頭のいい男」なのだ。
それを元に、条件を跳ね上げてくるに違いない。
(私が帰るなら……魔物の子の解放もするし、ラーザも再興させる、とか……言いそうだよね……私だって、思いつくくらいなんだから……)
毎回毎回、それがネックになっている。
自分が帝国に帰りたくないばかりに、周りに被害をおよぼしているのだ。
逃亡中も逃亡後も、帝国に帰り、ティトーヴァと婚姻さえすれば解決することは多々あった。
それを拒絶した結果は、いつも「最悪」だった。
「姫様が帝国に帰られたとしても、最悪を避けることはできませんよ」
「なんでさ? あいつの望み通りになるんだし、なんでも言うこときいてくれるんじゃない? 私が頼めば」
「私が言っているのは、姫様にとっての“最悪”です」
自分にとっての最悪。
背筋が、ぞくっとなった。
どうしても「最悪」を避けきれないと悟る。
(フィッツは、私があいつと婚姻するのを最悪って考えてるんだろうけど……)
フィッツは使命を果たすため、どこにいようと「カサンドラ」から離れない。
ティトーヴァは、ゼノクル殺しのフィッツを、絶対に許さない。
セウテルだって許しはしないだろう。
だいたい帝国には「法」がある。
キャスの「最悪」は、フィッツの死だ。
それを避けられるのであれば、なんでもする。
けれど、その最悪は、なにをやっても回避できないと悟っていた。
「……わかった。フィッツが最善と思う方法で交渉して……」
そう言うしかない。
すべてを自分の思う良い結果に当てはめて、道を作ることはできないのだ。
選んだ道の先に結果が、ある。
「わかりました。最善を尽くします」
フィッツが恭しく頭を下げてから、体を返した。
その背に呼びかけたくなる。
手を繋いでくれと言いたくなった。
だが、言わずに、後ろを歩く。
(……私は、なんにもできないんだなぁ……なんの力もないんだ……)
ヴェスキルの血を持っていても。
壁を造る装置を動かせても。
言葉で人を壊せても。
守りたいものを、守りたいようには、守れない。
それでは、なにもできないのと同じだ。
だから、人は「力」を望むのだろうか、と思う。
元の世界でも、権力思考と思える人たちはいた。
彼らは、なにかを、誰かを守りたいと思っていたのだろうか。
そのために力を欲したのだろうか。
(私に力があれば……違ってたのかな……)
わからなかった。
どんな力が必要なのかも、わからない。
「……フィッツ……信じてるよ。私は、フィッツのことを、信じる」
「はい、姫様」
今、自分にできることは、フィッツを信じることだけだ。
今までと同じように。




