既知の信頼 1
ベンジャミンの体を「借りて」いるクヴァットは、弟を観察している。
柔らかそうな茶色の巻き毛に、緑の目。
その目は、自分もといベンジャミンと、よく似ていた。
(婚外子って話だが、上品そうな顔してやがるぜ)
サレス公爵家には認知してもらえなかったが、代わりに、ルトゥエ侯爵家の当主となったのだそうだ。
それが「ベンジャミンのおかげ」だと、目覚めた兄を見舞いにやって来た弟から聞かされている。
ベンジャミンが「ほとんど死んでいた」状態で、とても都合が良かった。
記憶が混乱していると言えば、たいていは、相手がペラペラと情報を垂れ流してくれるからだ。
皇帝を始め、誰もが、せっせと説明する。
あえてクヴァットから求める必要がないので、これほどありがたいことはない。
とはいえ、大問題があった。
「兄上、本日は少し歩くことができたと、医療室の者に聞きました」
うるっと、アルフォンソの瞳が潤んでいる。
その瞳に、クヴァットは、ゾッとした。
これだ。
これが大問題なのだ。
アルフォンソは、セウテルよりタチが悪かった。
歳若いせいか、涙腺が、とにかく緩い。
すぐに「うるっ」とする。
初日は、愛称で呼んでくれないと泣かれた。
次には、泣かれたくなくて愛称で呼んだのだが、それはそれで泣かれた。
もう手の付けようがないのだ。
皇帝とは異なり、連日の訪問がないことだけが救いだった。
魔人は「娯楽」に手は抜かない。
なので、アルフォンソを追いはらうことはせずにいる。
気持ちの悪過ぎる弟ではあるが、駒としては必要なのだ。
とはいえ、ほどというものがある。
(ベンジャミン・サレス。てめぇは、どんな躾してやがったんだ? よくもまぁ、こんな気色の悪い弟に育てあげたもんだ。おかげで、ひでぇザマだ……)
ベンジャミンは、ゼノクルとは「育ち」が違った。
帝国本土の公爵家の跡取り息子で、人当たりもいい。
近衛騎士だけではなく、ひっきりなしに見舞客が来ることからも、人望があったのが、うかがい知れる。
疎まれて、誰からも相手にされていなかったゼノクルが懐かしくなるほどだ。
「交渉の関係で、お前も忙しいのだろ? 無理をして見舞いに来ることは……」
「兄上! そのようなことは、仰らないでください! 私の命は、兄上に授かったものと思っております! お会いすることもままならない中、兄上が、あのような目に合われ……どれほど悔やんだことか……」
最後のあたりは、ううっと、喉を詰まらせていた。
緑の瞳から大粒の涙がこぼれている。
ゾ~ッと、背筋が冷たくなった。
魔人であるクヴァットにとって「兄弟愛」なんて気持ちの悪い感覚でしかない。
そして、弟を産んだ覚えもない。
「わかったよ、アル……」
ゾッとし過ぎて、声が震える。
ともすれば、殴り殺してしまいたくなるのだ。
それを、必死で耐えている。
このあとの「お楽しみ」がなければ、やっていられないと、とっくに放り出していただろう。
「ところで……交渉の準備は順調か? 陛下の守りは、どうなっている?」
「陛下とリュドサイオ卿を中心に、親衛隊、近衛騎士隊より、各9名が護衛につくことになりました」
涙を拭きながら、鼻をすすりつつ、アルフォンソが答えた。
訊いたことになんでも答えるところはいいのだが、と思う。
アルフォンソは、セウテルのように「ですが」などとは言ってこない。
素直さと従順さは、シャノンに引けを取らないと言える。
だが「兄上兄上」と縋りついてくるのが気持ち悪いし、無駄に知恵もあるので、とても可愛がる気になれなかった。
「帝国騎士団は動かないのだな」
「いえ、交渉の場には赴きませんが、壁近くで待機いたします」
「そうか……」
わざとらしく溜め息をついてみせる。
途端、アルフォンソが心配そうな表情になった。
と言っても、アルフォンソは、ほとんどいつも「兄」の心配をしているのだが、それはともかく。
「なにか、お気がかりなことでもあるのですか?」
「いや……お前が待機しているのなら、私も安心だ……」
「兄上、気になっていることがおありでしたら、どうか、私にだけでも、お話ください。けして口外はいたしませんから」
ベッド脇にあるイスに腰かけていたアルフォンソが、身を乗り出して来る。
両手で、左手を握られ、ぞわぞわした。
生きる摂理が違うので、どうしても慕われる感覚に馴染めずにいる。
アルフォンソは弟であり、クヴァットのものでもなければ、玩具でもない。
アルフォンソにしても、ベンジャミンという兄を慕っているだけなのだ。
「実は……いや、しかし……私の記憶違いということも……」
「どんなことでもかまいません。お話ください」
「……私が昏睡したのは……カサンドラ王女様が……いや、そんなはずは……」
「兄上、それはいったい? カサンドラ王女様が関わっているのですか?」
「断言はできないが……彼女がなにかを言い、私は意識を失った……」
クヴァットは、苦い気分になる。
自然と顔が歪んだ。
ガリダの地で、カサンドラにやられたことを思い出している。
クヴァットが中にいなければ、ゼノクルはベンジャミンと同じく壊されていた。
(ありゃあ、すげえ力だった。あんなもん食らったら、ひとたまりもねえ。ただの人間だったら、とてもじゃねぇが、耐えきれるはずがなかっただろうよ)
カサンドラが、なにを言っていたのかは理解不能。
なにか話していたのはわかっていたが、思考が停止しそうになったのだ。
それに抗ったため、ゼノクルの体は血を吐いた。
半ば死にかけていたと言っても差し支えない。
ラフロがいなければ、ゼノクルは、あの場で命を落としていただろう。
(あの力の恐ろしいところは、一瞬で、人を無力化できるってことだな。生きてもいねぇし、死んでもいねえ。生きる屍にされちまう。おっかねぇ姫様だぜ)
しかも、カサンドラの力は、魔力を必要としない。
どんな力かはともかく、本当に「ただ話しているだけ」に見えた。
ならば、カサンドラの意思次第で、いつでもどこでも自由に発揮できる。
魔力が尽きて使えなくなる、といったこともない。
「兄上を攻撃したのは、カサンドラ王女様なのですね」
「断定はできないと言っただろう、アルフォ……アル……彼女は陛下が皇后として迎えたいと思っておられる女性だ」
「そうですね。滅多なことは口にしないほうがいいでしょう」
クヴァットは、アルフォンソの口調に陰りを感じた。
セウテルなら「ですが」と言っているだろうが、アルフォンソはベンジャミンを否定するようなことは言わない。
内心で、どう思っているかはともかく。
「陛下は、大丈夫だろうか……リュドサイオ卿を信用していないわけではないが、私がお側にいられればと……だが、このような体では、な……」
「……兄上の悔しいお気持ち、お察しいたします……私も、悔しくてなりません。誰よりも陛下に忠誠を誓い、お仕えしてきた兄上が……」
うるうるっ、ぽたぽたっと、アルフォンソの目から、また涙が落ちている。
よく涙が尽きないものだと、呆れた。
それから、非常に不本意ではあったが、アルフォンソの頭を撫でる。
シャノンの頭を撫でる感覚とは大違いだとしても、しかたがない。
「気にするな。私が陛下の側近に復帰することは……ない。リュドサイオ卿もいることだし、信頼して任せるさ。お前が、帝国騎士団の隊長になったことは、本当に誇らしい……これからも、私の代わりに陛下をお守りしてくれ」
「そのような弱気なことは仰らないでください。私は……兄上から、なにもかもを教わりました。今の立場も、兄上あってのこと……私は……私が……」
ぎゅっと、アルフォンソがベンジャミンの手を握りしめてきた。
背筋が凍りそうになるのを堪える。
しかし、その手から強い意思を感じた。
クヴァットの思惑通りだ。
(兄弟愛ってのは、気持ち悪ィが、利用するのは簡単なんだよな)
クヴァットには、アルフォンソの心理が手に取るようにわかる。
長年、培ってきた「人」に対しての知識の賜物だ。
ラフロは、ほとんどの人間に関心を持たないが、クヴァットは魔人として生じて以来、あれこれと「遊んで」きている。
どう言えば人の心を動かせるかも、熟知していた。
個人差はあるものの、本人の「望む」ことを言ってやればいいのだ。
ロキティスしかり、皇帝しかり。
アルフォンソも大差ない。
「アル、お前は、私の自慢の弟だ」
弱々しく、だが、しっかりとアルフォンソに微笑んでみせる。
どこにそれほど隠し持っていたのかというくらい涙している弟の、その瞳には、ある種の決意があった。
言葉にはしないが「秘めたる想い」があるはずだ。
「兄上、私にお任せください」
「ああ、陛下を守ってくれ」
疲れたといった様子で、目を伏せる。
アルフォンソが静かに出て行く気配がした。
完全に、1人になったのを確認してから、小さく嗤う。
我慢した甲斐あって、楽しい気分になっていた。
アルフォンソは、カサンドラを殺しに行く。
何度も話し、泣かれ、縋りつかれる中、クヴァットは確信した。
アルフォンソにとっての優先は、皇帝ではなく兄なのだ。
たとえ罪に問われようと、死罪になろうと、兄の「復讐」を実行する。
あえて口にしなかったのは、兄を守るためだろう。
ベンジャミンがアルフォンソの「復讐」に加担していたと思われないように。
だが、アルフォンソの言葉には、その決意がちりばめられていた。
もちろん聞き逃してはいない。
そもそも、アルフォンソが決意し易いように背中を押していたのは、クヴァットなのだ。
(私が……のあと、なに言うつもりだったんだ、なぁ、アル? 任せろってのは、なにに対してだ? 私が兄上の仇を取る、か? 望み通り復讐は任せたぜ、アル)
記憶が混乱していて弟のことを思い出せないのがつらいと、わざと皇帝に弱音を吐いたことがある。
アルフォンソが3回目の見舞いに来たあとのことだ。
皇帝は、やはりせっせと事細かに「弟」について語ってくれた。
(使用人以下の扱いを受けてる中に現れた、たった1人の味方。しかも、兄は弟のために自分の手まで汚してんだ。そりゃ恩にも着るよな。幼少期の経験ってのは、あとあとまで影響するもんだ。せいぜい俺のために踊れ、アルフォンソ)
華麗に踊ってもらうため、もうひとつ、手を打っておくことにする。
気分転換の意味でも、クヴァットはシャノンへの通信回線を開いた。




