禍事の予兆 4
皇太子は、頭がおかしくなったのだろうか。
いきなりドアをぶち破って入ってきたので、捕らえられるのかと思っていた。
それであれば、文句はない。
彼女は「地下牢」に行きたかったのだから、喜んでついて行っただろう。
が、しかし。
(ディオンヌ……いったい、なにしてくれてんだ。2年も上手くやってきたのに、しくじるなんてさ。バレるだけならともかく……)
自分の前で跪いて謝罪をする皇太子から視線を外した。
こんなことをされても迷惑なだけだ。
宮に戻る気だってない。
「俺は、お前と話がしたい。カサンドラ」
いよいよ、ぎょっとなる。
ベンジャミンとかいう側近が入り口に立っていなければ、全力で逃げていたかもしれない。
なにかの角に頭をぶつけたのか、毒でも飲まされたのか。
壊れ具合が半端ではないと思う。
5日前、皇太子から「地下牢」に入れられかけたばかりだ。
なのに、今度は「宮に戻れ」と言われている。
しかも、跪いての謝罪付き。
この5日の間に、なにがあったのかは知らないけれど、皇太子の変わりようは、尋常ではない。
「私には……」
「話すことはない、と言うのだろう? お前が怒るのも当然だ」
言葉を遮られたばかりか、皇太子は手を伸ばし、カサンドラの手を握ってきた。
両手で。
(いや、ちょっと……なにこの王子様スタイル……気持ち悪過ぎる……)
彼女は、握られた手を強く引いて、皇太子の手から逃げる。
顔は見たくなかった。
どんな表情をしているのか、確認するのが嫌だったのだ。
皇太子がどう変わろうが関係ない。
絶対に許さないと決めている。
その判断が変わる確率は、完全にゼロ。
有り得ない。
「ディオンヌには、相応の罰を与える。メイドたちにもだ」
言われた瞬間、苛とした。
顔を見たくはなかったが、反射的に皇太子のほうを見てしまう。
「彼女たちに罰を与える必要はありません」
「ある。皇太子妃となる者に、こんな仕打ちをするなど許せはしない」
ハッと小さく笑った。
これだから「馬鹿」で「お坊ちゃん」なのだ。
問題の本質をわかっていない。
「なぜ彼女が“こんな仕打ち”ができたのか、考えてみましたか?」
「それは、ディオンヌが自らの立場を勘違いしていたからだ。己に権力があるとの過信もあっただろう」
「違いますね」
「いや、ディオンヌはアトゥリノの王女という立場から、つけ上がっていた」
はあ…と、大きく溜め息をつく。
確かに、ディオンヌは勘違いしていたかもしれないし、つけ上がっていたのかもしれない。
だが、そうなるには、それなりの理由がある。
わかっていない皇太子に、なにかがプツと切れた。
もとより、彼女には、皇太子から好かれたいだの、嫌われたくないだのという思いは皆無なのだ。
この際、言いたいことを言ってやれ、と思う。
「全部、あんたのせいでしょ」
皇太子の銀色の瞳が、大きくなった。
さぞ驚いているに違いない。
彼女にすれば「威張りくさった」としか見えなかった姿も、今は、ぽかんと口を開いて滑稽なものに変わっている。
「ディオンヌを責めるのは筋違いだね。婚約者婚約者、うるさい。この2年の間、1度だって婚約者扱いしてこなかったのは、誰さ。あんたが、もっとちゃんとした扱いをしてれば、周りだって手出しできなかったはずだよ」
勝手にカサンドラを敵視して虐げてきたディオンヌを庇う気はない。
とはいえ、問題の本質は「皇太子」にある。
自らの罪には思い至らず、人を責める皇太子に苛々した。
両腕を組み、彼女は、ふんっと、そっぽを向く。
「考えてみたことある? ディオンヌは皇太子妃になるためだけに、ここに送られて来たんじゃないの? なのに、皇命とか言って、私みたいなのに、横からかっ攫われたんだよ? それでも諦めずにいたのは、あんたが彼女に期待させてたからじゃん。近くの宮に住まわせて、優しくしてさ。そりゃあ、期待するよ。私を追い出せばなんとかなると思っても、不思議じゃないね。つまり、全部、あんたのせいってこと」
ひと息に言い切り、よけにムカムカした。
今さらなんのつもりだ、との思いがある。
望みは「放っておいてほしい」ということだけだと言ったはずなのに。
「あんたの無関心さが招いたって、まだわかんない?」
言い放ってから、立ち上がった。
皇帝の妄執にも、皇太子の盛大な馬鹿っぷりにもつきあっていられない。
穏便にと思っていたが、計画を変更したくなる。
もう、このまま逃げてしまおうか。
皇太子は跪いたまま、立ち上がったカサンドラを見上げていた。
その目をまっすぐに見つめ、顔をしかめる。
実のところ、彼女の心の隅には、皇太子に対する嫌悪感があった。
だからこそ、無関心でいたかったのだ。
嫌悪感が憎しみに変わらないように。
「よくも殿下に、そのような口を……」
「黙っていろ、ベンジー」
「ですが、殿下……」
「かまわん」
よれっとしながらも、皇太子が立ち上がる。
危険かどうかの判断は必要ないと、視線だけでフィッツを制止しておいた。
それでも、皇太子がなにかやらかそうとしたら、フィッツは動くだろうけれど。
「カサンドラ」
立ち上がった皇太子は、ただとカサンドラの名を呼んだ。
殴りかかって来るような気配はない。
怒ってはいないらしく、不気味なほど静かだった。
「俺には、お前が必要だ」
「は……?」
「お前は、率直に物を言う。耳には痛いが、心地いい」
まずい、と思う。
皇太子の認識を変える気などなかったのに、結果としては、そうなりつつある。
演技をやめるのはともかく、本性を出し過ぎたようだ。
まさか罵倒して気に入られるだなんて、予想の範疇を越えている。
「お前の言う通り、俺が間違っていた。すべては俺が招いたことだったのだな」
これは想定外も想定外。
冷静に納得されても、困る。
とはいえ、元の「カサンドラ」に戻ることもできない。
「考えを改め、今後は、もっと積極的に、お前と関わっていくことにする」
「迷惑だから。5日前に、放っておいてほしいって言ったばっかりだよね?」
「できないと、俺も言ったはずだ」
「あえて関わる必要ない」
「俺は必要だと思っている」
クッと、彼女は、つくづくと自分の「しくじり」を悔やむ。
本当に、よもや皇太子が、こう出て来るとは思わなかったのだ。
母親のこともあるし、偏見も持たれているはずなので、激怒されることはあっても、近づいて来ようとするなんて、ちっとも考えなかった。
「宮には戻らないのだな?」
「戻らない」
「では、俺が、ここに足を運ぶ」
げ。
なんて性質の悪い男だろう、と思う。
思って、皇太子をにらみつけた。
その視線を受け止め、皇太子が笑みを浮かべる。
非常に、薄気味が悪かった。
この男は、今後、頻繁に、ここを訪れる気だ。
毎日のように来られたらと思うと、ゾッとする。
心の中で頭をかかえている彼女に、皇太子が、サッと背を向けた。
ひとまず、今日のところは帰るらしい。
「では、また来る」
「歓迎なんてしないからね」
「かまわん。逆に気遣いは無用だ」
駄目だ、と思う。
なにを言っても、皇太子の意思は曲げられそうにない。
「ベンジー、ドアを直しておけ」
そう言い残し、皇太子が出て行った。
ベンジャミンは、憎々しげにこちらを見ていたが、やがて体を返す。
壊れたドアの向こうにも2人の姿が見えなくなってから、ソファに腰を落とした。
「……夜逃げするしかないかもよ、フィッツ……」




