残される者の心はいかばかり 4
ぱちっと開いた目が、薄い灰色の天井を映している。
上半身を起こすと、かけられていた上掛けが、するりと膝まで落ちた。
首に手をあて、少し傾けてみる。
気になるほどの異常はない。
「まだ、全然、馴染んでねぇわ」
独り言ではなかった。
ちゃんと話しかける相手がいる。
ぴくぴくっと動いている三角の耳に、ひょこんと立てられた細い尾。
寝ていたベッドの端から見えていた。
じわっと顔を出した相手に、にっと笑ってみせる。
「よくやった、シャノン」
「ご、ご主人様……っ……」
ぴょこんっと、シャノンがベッドに飛び乗って来た。
抱きついてくるシャノンの頭を撫でてやる。
ポケットから、オレンジが1個、ぽとりと落ちた。
出掛けに持ち出したものだろう。
2個は食べてしまったらしい。
「ちょうど喉が渇いてんだ。そいつを食わせてくれ」
「は、はい」
ベッドの上に転がっていたオレンジを手にして、シャノンが皮を剥き始めた。
リュドサイオの寝室にいた時と同じく、枕を背にあて、寄りかかる。
周りは病人ばかりだ。
なにを気にすることもない。
「ど、どうぞ」
開けた口に、オレンジを、そっと入れるシャノンが面白かった。
ここを出たら、満足するまで食べさせてやろう、と思う。
なにしろ、シャノンは、よく働いてくれたのだ。
おかげで、まだ人の国にいられる。
「お前は、本当に怖がらねぇな」
「怖がる……?」
「姿が変わっても、おかまいなしだ」
「ご、ご主人様、ですから??」
「まぁ、そうなんだけどよ」
シャノンの手から残ったオレンジを取り上げ、逆にシャノンの口元に運ぶ。
まったく思うところはないらしく、シャノンは、それを口に入れた。
魔人、クヴァット。
ゼノクルは死んでも、クヴァットは死んでいない。
ゼノクルの死は、予定していたことだったからだ。
そのために、シャノンに別行動させていた。
「皇帝を守って死ぬ。騎士の鑑じゃねぇの、ゼノクル・リュドサイオ」
ククッと嗤う。
使い勝手のいい体だったが、固執する必要はなかった。
この部屋には、使える体が山ほどある。
中でも、最も「有益」な体を、クヴァットは選んでいた。
前髪をつまんでから、ぱらっと落とす。
銀色の長い髪、見えなくても緑の瞳だと知っていた。
よくよく銀髪、緑目に縁があるようだ。
好んでいるわけではないが、それはともかく。
ベンジャミン・サレス。
それが、この体の持つ名だ。
死んではいないものの、まったく「意思」が感じられない。
自我さえないらしかった。
抵抗もされず、すんなり体に入り込んでいる。
「か、壁が消えると、わかってたんです、か?」
「わかってたさ」
シャノンが不思議そうに、目をしばたたかせていた。
が、クヴァットからすれば、不思議でもなんでもない。
行き当たりばったりで、ゼノクルは死を迎えたのではないのだ。
こればかりは、ある意味、予定調和と言える。
「フィッツの体が借りられりゃ、それもいいと思っちゃいたが、あの魔物がいたんじゃ、そいつは欲をかき過ぎってもんだ」
「ガリダの、長……?」
「俺がいるって知ってりゃ、魔物を護衛につけるだろ? けどな、壁を越えられんのは、あいつだけなんだよ。それにな、あいつは壁に“弾き出される”ってことがねえ」
ジュポナで、クヴァットは、それを目にしていた。
魔力を解放していたにもかかわらず、あの魔物は「壁の内側」にいたのだ。
だからこそ、壁をぶち破って逃げる必要があった。
おそらく魔力の種類が原因ではないかと思っている。
大きさだけなら、クヴァットもラフロも負けてはいない。
違うのは、あの魔物が「自然を操れる」ところだ。
それが、壁になんらかの影響を与えているのだろう。
「弾き出されねぇのはともかく、むしろ、閉じ込められちまう。となれば、当然、壁は開く」
ティトーヴァ・ヴァルキアは、頭のいい男だ。
開発施設が狙われていることくらい、すぐに気づく。
ゼノクルで時間稼ぎをして、皇帝を待った。
なぜなら、魔物に魔力を使わせなければならなかったからだ。
「ジュポナじゃ壁をぶち壊して逃げたが、あんなこたぁ何度もできるもんじゃねえ。前にラフロが言ってたんだよな。壁を造ってる機械が魔物の国にあるってよ」
フィッツは、カサンドラを危険に晒すことはしない。
なぜ、ジュポナにカサンドラと魔物を行かせたのかは知らないが、帝都の中枢に送り込むような真似はしないはずだ。
今回、開発施設を叩きに来るのは、フィッツと魔物だと予測していた。
「皇帝の攻撃に対抗するには、あいつも魔力抑制を解かざるを得なくなる。あいつらを逃がすために、王女様が壁を開いてくださると信じてたぜ、俺は」
ラフロと取引をしてまで、魔物を助けた女だ。
大事な従僕も一緒なのだから、見捨てるとは考えられない。
ならば、壁を開く「一瞬」がある。
思っていたよりも、手こずっていたようだが、それも都合が良かった。
「ラフロ、なんか言ってたか?」
「騎士らしくするのは窮屈だろうに、と言って、ました」
「まったくだぜ。しかも、こいつのことを、俺は、ほとんど知らねぇしな」
「で、でも、ご主人様は楽しむはずだから心配ない、と……」
「ラフロらしい言いぐさだな。俺を、よくわかってる」
20年かけて、クヴァットは、ゼノクルという人物を作り上げてきた。
ゼノクルの取る行動は、周囲から疑われる余地はなかったのだ。
が、ベンジャミン・サレスのことを、クヴァットは、あまり知らない。
ベンジャミンらしくない行動を取り、疑われる可能性も考える必要がある。
皇帝とは信頼関係もあることだし。
とはいえ、そういう危機感もなければ、つまらない。
そう思うのが、魔人だった。
とくに、クヴァットは。
「ま、当面、そんな心配はしなくてもいい。ゼノクルを失って傷心の皇帝の元に、旧友が戻ってくる。感動的な話じゃねぇか」
多少、ベンジャミンの行動に不自然なところがあったとしても、疑われることはないだろう。
ベンジャミンは1年近く、生きている死人状態だったのだ。
息を吹き返したからと言って、たちまち元通りにならなくてもしかたがない。
微妙な部分は「記憶が混乱している」とでも言えば、納得させられる。
ティトーヴァ・ヴァルキアは、頭のいい男だった。
だが、聖魔を知らなさ過ぎた。
そして、見たいものを見たいようにしか見ない性格をしている。
ベンジャミンに対する後悔や罪悪感が、なおさら、それを後押しするだろう。
「これで、壁が消せることもわかったしな」
それが魔物の国にあり、カサンドラが操れることも実証できた。
ほとんど確信はしていたものの、ほんの少し「賭け」でもあったのだ。
仮に、カサンドラが操れなければ、壁を消すことはできなかった。
そうなると、人の国にラフロは呼べない。
結果、ゼノクルが死んだら、クヴァットは聖魔の国に帰るしかなくなる。
予測通り、壁を消してくれたので、シャノンはラフロを呼べた。
そして、ラフロが力を使い、ベンジャミンの体にクヴァットを引き込めたのだ。
シャノンは、クヴァットと繋がっているので。
クヴァットはゼノクルの死とともに、その体を離れ、シャノンを通り道にして、ベンジャミンの体に入った。
壁が消える瞬間がなければ、成せなかったことだ。
「お前は、本当に、良く出来た玩具だ」
頭を撫でると、シャノンが嬉しそうに尾を揺らせる。
クヴァットに対する恐怖心など、まるで感じられない。
外見すら、どうでもいいのだ。
シャノンの「ご主人様」は、魔人クヴァットだけ。
「これで皇帝を唆し易くなったし、もうちょっと遊べるな」
「もうちょっと……?」
「壁をぶっ壊して、人と魔物の殺し合い。そんでよ、聖魔も人の国に、また入れるようになるってわけだ」
「ご主人様は、魔人に、戻るの、ですか?」
「そうだな。人と魔物の国がぐちゃぐちゃになったら、国に戻るとすっか」
シャノンの瞳が、ゆらっと揺れる。
耳が、へたっと横に倒れていた。
ベッドの上に残されたオレンジの皮をつまんで、放り投げる。
「物覚えが悪ィんだよ、お前は」
少し乱れているシャノンの銀髪を撫でて、整えてやった。
へたっている耳をつまんで持ち上げる。
「俺のもんは、俺のもんだ。置いてくつもりはねえ」
「せ、聖魔の国に、連れて行って、くれるん、ですか?」
「前から、そう言ってんだろ? 幕をおろしたら、しばらく国に戻って、のんびり過ごす。そン時に、お前がいねぇと、つまらねぇしよ。当然、連れてくさ」
くるんくるんっと、尾が輪を描いて揺れている。
耳も、元通り、ぴんっと立ち上がっていた。
目に分かり易く、嘘のないシャノンの感情に、気分が良くなる。
それだけでも、手元に置いておく価値があった。
「人の国に出入りが自由になりゃ、誰かにオレンジを持って来させるか」
聖魔には仲間意識などなく、ほとんどが個で動く。
だが、壁を壊したら、その分の「報酬」を要求するのは、当たり前。
魔人の王であるクヴァットに逆らえるほどの聖魔もいない。
遊びに行くついでに、果物を取って来るくらいのことはするはずだ。
「終幕が近いってのは寂しいが、残りの舞台を楽しもうぜ、シャノン」
「はい、ご主人様」
うなずくシャノンを膝に乗せ、この体でなにをしようかと考える。
ゼノクルほど長持ちはしないだろうが、ゼノクルより使い途があった。
が、しかし。
(そういや、こいつにも弟がいたっけ。セウテルほど気持ち悪くなけりゃいいが)
人や魔物の持つ、同族意識が、聖魔には理解できない。
なので、体を「借りる」なら、天涯孤独とも言えるフィッツが良かったと思う。
アルフォンソがセウテル並みに気持ち悪かったらと考え、少しだけ憂鬱になった。




