傷と怒りの狭間には 3
「キャスにはノノマがついてる。お前ら、ちょっと来い」
いつになくダイスが剣呑な雰囲気で顎をしゃくった。
人型からルーポの姿に戻っている。
拒否するかと思ったが、フィッツは黙って家を出た。
その後ろをザイードもついて行く。
例の湿地帯の辺りまで来てから、ようやくダイスが足を止めた。
キャスの耳に入らないところまでと、用心したのだろう。
人の耳はルーポほど優秀ではないのだが、注意するに越したことはない、という気持ちは、ザイードにもあった。
あれほど感情を露わにするキャスを見たのは、初めてだったのだ。
出会った当初、ザイードに噛みついてきた時でさえ、あんなふうに怒鳴ったりはしなかった。
そうさせるくらいに、キャスを傷つけたのだと、自覚している。
「まず、キャスの言ってたことは本当か? お前らだけで行くってのは」
「本当です」
「壁を越えねば、あの施設は叩けぬのだ、ダイス」
「んなことは、わかってんだよ。オレたちは魔力を完全には抑制できねぇからな。壁の向こうには行けねぇんだ。けど、あの施設は叩かなけりゃならねぇんだろ?」
「ミサイルを撃たせぬようにするためぞ」
「同じ施設を建設するには、費用と時間がかかりますからね。民からの反発もあるでしょうし、帝国の軍事開発を遅らせることができます」
ダイスが、ザッと後ろ脚で地面を蹴った。
湿地帯なので、泥が、びしゃりと跳ねる。
いつもは汚れるのを嫌がるくせに、今は気にしていないらしかった。
毛が小さく逆立っていることからも、苛立っているのがわかる。
「だとしても、だ。壁を越えられるのは、お前らだけじゃねぇはずだぞ」
「開発施設は帝都にあるのですよ? そのような危険な場所に姫様をお連れすることはできません」
「余も同感だ」
「なんでだ? キャスは、人を壊せるんだろ? 大きな戦力だ」
「フィッツを巻き込むことはできぬではないか」
「キャスだけ別行動すりゃあいい」
「あなたは、なにを言っているのです?」
ダイスの意見は、無茶苦茶だ。
人の国に入るだけでも危険だというのに、キャスだけ別行動など有り得ない。
別動隊を指揮するというのならまだしも、1人で動くなんて危険過ぎる。
「ダイス、人の国はキャスにとっても危険な場所なのだ。見つかれば捕らえられ、なにをされるかわからぬのだぞ」
「それは、お前らも同じ……いや、キャスは皇帝とやらの気に入りだから殺されやしねえ。むしろ、お前らのほうが危険なんじゃねぇのか?」
「姫様は、ティトーヴァ・ヴァルキアとの婚姻を望んではいません。皇帝に掴まるということは、姫様の意思を……」
「うるせえ!」
べしゃっと、ひと際、大きな音が響いた。
ダイスの尾は、泥まみれだ。
が、地面に小さなひび割れが入っている。
そこに、泥水が溜まっていた。
「お前らが壁越えをするってのはいいさ。けど、それをなんで先にキャスに教えてやらなかったんだよ」
「それは、キャスが心配をすると思うたゆえのこと。納得もせぬであろうしな」
「へえ。おかしいじゃねぇか、なあ、フィッツ」
ジロっと、ダイスが灰色の瞳でフィッツをにらむ。
銀色の瞳孔が、これ以上ないというほど狭まっていた。
「お前、さっき、キャスの意思がどうこう言ってたけどよ。お前らの壁越えを反対するってなら、それが、キャスの意思なんじゃねぇの? それを隠して、こそこそしやがって。キャスの意思なんか、どうでもいいんじゃねぇか」
フィッツに向けられた言葉ではあるが、ザイードも反論でぎすにいる。
キャスの怒鳴り声が、耳によみがえっていた。
『もう決めてるってことだね? 覚悟はできてる? 決心は変わらない? あっそう! 本当に、もう……勝手に好きにすればいいじゃんっ!』
フィッツは、キャスが反対するだろうことを察していたし、ザイードもだ。
それでもやらなければならないとの結論をくだしている。
だから、キャスには話さずにいた。
いずれにせよ、キャスを戦線に加える気はなかったからだ。
黙ったまま、やり遂げるつもりだった。
「この前の戦で、キサラはオレの言うことなんか、これっぽっちも聞きゃしなかった。正直、腹が立ったぜ? 亀裂に落ちそうになった時は、オレの心臓のほうが、止まりそうになったしな」
キサラは、ダイスの最愛の番だ。
586回も求愛し、ようやく結ばれた相手。
亀裂に落ちかけた時のダイスの狂乱ぶりを、はっきりと覚えている。
自らも亀裂に身を投げそうな勢いだった。
「けど、亀裂の向こうに残った奴らを助けることをキサラに許したのは、オレだ。あいつは黙って勝手なことをしたわけじゃねぇんだぞ。オレだって、嫌だったさ。隠れててほしいって、何回も説得した。ただ、キサラが、言ったんだよ、オレに」
ダイスが、ザイードとフィッツ、交互に視線を投げてきた。
「足手まといになる気はねぇってな」
その言葉が、深くザイードの胸に刺さる。
キャスが、なにより嫌っていて、傷ついていた言葉だ。
口にしなくても、自分たちは、キャスに、そう言ったも同然だった。
そのことに、ようやく気づく。
「キサラが死んだら、オレは嘆く。どうしようもねぇってくらい悲しむ。けどな、それは、キサラも同じなんだよ。戦うのも生きるも死ぬも、オレたちは、対等だ。それで? お前らは、どうだ? キャスに、なんもさせねぇのか? ただ見てろってのは、なんの役にも立たねぇって言ってるようなもんだぜ」
「そういうつもりでは……」
「どういうつもりだったかなんて関係ねぇだろ。キャスじゃなくても、オレだって怒る。いいや、今まさに怒ってんだよ」
フィッツの言葉を、ぴしゃりとダイスが断ち切る。
ザイードは口を開くこともできずにいた。
守りたいという気持ちが、キャスの意思を無視させたのだ。
先回りをして、勝手にキャスを安全な場所に置こうとした。
「お前らは、頭もいいし、強いんだろうぜ。だから、わからねぇんだ。お前らほど強くなくても、馬鹿でも、なにかしてえ、役に立ちてえって思う気持ちがよ。足手まといで悪かったな、オレもほかの奴らも、キャスも、お前らにとっちゃ同じだ」
「ダイス……」
「言い訳はいい。その代わり、考えろ。本当の最善がなにかってな」
フィッツの「最善」は、間違いなくキャスの安全にある。
はっきり言って、ザイードも、その考えを否定はできなかった。
あえてキャスを危険に晒したくはない。
自分たちだけで事が成せるのならと考えたフィッツの気持ちがわかるのだ。
「お前らの最善と、キャスの最善は違うだろ。おい、フィッツ、お前は、どっちを取るんだ? “姫様”の意思は、どこいった?」
「しかし、私の使命は姫様を守り……」
「守れよ。強いんだろ、お前。頭いいんだろ、お前はよ」
ダイスに畳みかけられ、フィッツが黙る。
本当に、いつになくダイスは手厳しかった。
好奇心に振り回され、子供じみた真似をする姿からは想像もできない。
自ら口にしていたように、ダイスは怒っているのだ。
「オレはな、この前の戦、キャスがいたから負けずにすんだと思ってる。なのに、なんだ、ザイード。こいつが来たらキャスは用済みか? それが許せねぇんだよ」
「そうではないが……そう言われてもしかたあるまいな……」
「お前は、キャスに生かされたんだぞ。その命を、キャスの許しも得ずに、危険に晒すってんだからな。この恩知らずめ」
チッと、ダイスが舌打ちする。
尾を振って、ついた泥をはらっていた。
「ったく、壁がなけりゃ、オレたちだって、囮になるだけ、なんてことはなかっただろうによ」
忌々しげに言ったダイスを、フィッツが、じっと見つめている。
気づいたのか、ダイスが、嫌そうに鼻にしわをよせた。
さっきより、毛も逆立っている。
苛々が募っているらしい。
「ダイスさん、あなたの言うことは正しい」
「は?」
「私は、姫様の意思を尊重します。命に関わらないことを前提に」
言うなり、ふいっと体を返した。
その背を、ダイスは瞳孔を狭めて見送っている。
引き止める気はないようだ。
「良いのか?」
「いいさ。あいつには、なにか考えがあるんだろ」
「お前に叱責されるとは……余も不甲斐なきものぞ」
「はあ? オレら、長の中で、1番、年下のくせに」
「そう思うたことが、ほとんどないゆえ、自分に落胆しておる」
「勝手に、がっかりしてろ! オレは帰る! もうキャスを傷つけんなよ! 惚れた女をないがしろにするなんて、どうかしてるぜ!」
返事をする間もない。
ダイスは、本気で怒っていたからか、ザッと駆け出してしまった。
すぐに姿が見えなくなる。
木立が揺れるのを見ながら、ザイードは溜め息をついた。
(キャスは足手まといなのではない。1人で背負おうとする性質ゆえ、少しでも、余にできることは、こちらで片をつけたかったのだが)
逆に、キャスには「なにも背負わせない」ことになっている。
自分だけで背負いきれない責任を、皆で分かつべきだと話したのはザイードだ。
受け入れるかはともかく、意見を聞いて判断するのがザイードのやりかただった。
つまり、今回のやりかたは、らしくないと言える。
(余は、こだわっておるのだな)
肝心な時には、いつもキャスを守れなかった。
ジュポナでは逃げることができたとはいえ、キャスを聖魔に連れ去られている。
ミサイルを止めるすべもなく、死ぬ覚悟をするしかなかった。
魔物の理として、死ぬ時は死ぬものだ、と思ってはいる。
だが、同じ理で、生き残ることを考えてもいた。
魔物には、生きるのを諦めた結果の死などないのだ。
生き残ろうと足掻いた結果の死はあっても。
(今度こそ、なんとしてもキャスを守りきろうとの想いが強過ぎたのだ)
結果、守ろうとしないでくれというキャスの言葉を無視し、壁越えをフィッツと予定していることも隠した。
キャスの意思も意見も、なにひとつ確認せず、決めている。
(キャスは……怒っておったな……)
ザイードは、すべての感情は、傷から生まれると思っていた。
深過ぎる傷は怒りを生じさせ、怒りが嘆きを呼ぶ。
些細な傷があってこそ、癒えた時に喜びや嬉しさを感じる。
たとえば、赤子が寂しがって泣き、親にあやされ、安堵して眠るように。
(守りきれぬのなれば、余は、それを認めねばならぬ。己が、さして強くはない、ということを)




