傷と怒りの狭間には 2
目を開いた途端、キャスは体をこわばらせる。
自制が効かなくなりそうな自分を感じていた。
張り詰めていた気持ちが、今にも、ぷつっと切れそうになっている。
本当には、もうずっと、こんな状態だったのだ。
フィッツは、元のフィッツに戻ってしまった。
キャスは、元には戻れない。
感情のズレが、キャスを追い詰めている。
どんなに納得させようとしても、心がうなずくことはなかった。
どうしても折り合いがつかないのだ。
なにしろフィッツが目の前にいる。
(なんで、こんなに欲張りなんだろう……いろんなこと、わかってるのに)
フィッツに抱きしめてほしいと望んでしまう。
生きていてくれるだけでいい、というのも嘘ではないが、生きているからこそ、フィッツの心を求めてしまう。
ティニカの目で自分を見ないでほしい、と思ってしまうのだ。
視界には、ノノマの不安げな姿もある。
ザイードやダイス、ミネリネの顔も見えた。
義理や義務ではない想いが、キャスを縛っている。
皇宮から逃げるという選択は簡単にできたのに、ここを去ることは考えられない。
大事なものが増えてしまった。
本音では、フィッツと2人、平穏に暮らせればいいと思っている。
けれど、みんなを見捨てて逃げたことを忘れられはしないだろう。
そもそも、見捨てるという選択自体、彼女は拒否しているのだ。
フィッツのことは大事だが、みんなのことも大事だった。
「なにがあったんだよ、キャス」
ダイスの、そわそわとした様子に、少し笑いたくなる。
妻のことが大好きで、5頭の子の父親。
きっと人の国の兵にも似たような「父親」はいるはずだ。
戦争なんてせずにすむなら、そのほうがいいに決まっている。
(私は、やっぱり性根が悪い……正しい正義感なんて振りかざせないよ……)
誰も死なせずにすむ方法など思いつけやしない。
見ず知らずの「父親」より、ダイスに生き残ってほしかった。
向こう側にどれだけ犠牲を強いることになろうと、こちら側の1頭を守りたい。
命には優先順位がつけられる。
話し合いで解決をつけるべきだと、声高に言えれば良かった。
できない理想を掲げ、綺麗事の中に身を置いていられれば楽だった。
けれど、キャスには、できない。
目の前で、大事な人を奪われる痛みを知ってしまったからだ。
「フィッツ……なんでザイードと戦ってたの?」
「彼の力を測るためです」
「なんで測る必要があったの?」
「次の戦いに彼も加わるからです」
「どんなふうに?」
「最前線、と言えますね」
キャスは、布団に寝かされていた体を起こす。
その背中をザイードが支えてくれた。
いつものごとく、その手は、あたたかい。
「それじゃ、答えになってない。私は、どういうふうに加わるのかって訊いてるんだよ、フィッツ」
「状況に応じて、必要な場所を攻撃する予定です」
「答えになってない」
フィッツは、あえて答えをぼかしている。
そのことに、感情が揺さぶられた。
「私を舐めてんの?」
「そのようなことは……」
「なら、なんで言わないんだよ! 私が気づかない馬鹿だと思ってるからじゃん!」
常には、大きな声など出さないからだろう。
周りが、しん…と静まり返っている。
誰も口を開こうとしない。
キャスの握った両手が震えていた。
「いいよ……好きにすればいい……でも、それなら、犠牲を出すことは許さない。絶対に、誰のことも死なせないってことが大前提だからね。こっち側の犠牲ゼロで作戦立てなよ、フィッツ」
「……わかりました」
さらに、キャスは両手に力をこめる。
悲しみがあふれ、怒りに置き換わっていた。
せっかくノノマとの会話で明るくなっていた気分も台無しだ。
自分都合で、フィッツを生き返らせてしまった自分が厭わしくなる。
なのに、フィッツがいないほうがいいとは思えない自分がつらかった。
ともすれば、意思あるフィッツに戻ってくれと言いたくなるのに。
「今は、フィッツの顔、見たくない。出てて」
「はい、姫様」
フィッツは、淡々とした口調で「命令」に従う。
カサンドラ・ヴェスキルの意思が、フィッツの意思なのだ。
今のフィッツには、己の意思というものがない。
「キャスよ、そなた……」
「ザイードだって、気づいてたんでしょ?」
感情にとりとめがなくなっていて、言葉が荒くなっている。
丁寧に話そうだとかの気遣いをする余裕がなかった。
「あの開発施設を叩かねば、先々、我らの不利となる」
「そうだね。でも、あの場所は壁から遠い。どうする気?」
ザイードが口を閉じる。
地図を見た時から、気にかかっていた。
帝都にある開発施設を叩く必要はあっても、壁からは離れ過ぎている。
とても魔力攻撃がとどく距離ではなかった。
「壁を抜けられるのは、フィッツとザイード。そうだよね?」
ハッとしたように、ダイスもノノマもミネリネも、ザイードに視線を向けた。
だが、ザイードは腕組みをしたまま、黙っている。
そのことに、腹が立った。
「自分たちだけで行く。そう思ってるんじゃないのっ? だから、お互いに、どれくらい力があって、どんな力が使えるのか試してたんでしょっ?」
ほかのものを連れて行く気はない。
フィッツの考えを、ザイードも察している。
龍の姿で戦っていたのは、そのためだ。
最悪の事態を想定している。
「壁の中で、ザイードが魔力を使わなきゃいけない状況ってなに? ジュポナの時みたいに、追い詰められた時だよねっ? わかってんの、ザイードっ? あの時、ザイードは死にかけたんだよっ? 壁の中なんてさあ、ザイードにとっては、制限だらけじゃん! 魔力も、ずっと抑制しないといけないんだよっ? 見つかって、魔力を使ったら、逃げられなくなるって……わかってんの、ザイード!!」
ザイードが腕をほどき、キャスに顔を向けた。
何度か瞬きをする。
瞳孔は狭まっておらず、金色の中に揺らぎはない。
ぐっと胸が詰まった。
その辺りのものを、蹴散らしたくなる。
なぜわからないのかと、怒鳴り散らしたくなった。
腹が立って、悲しくてしかたがない。
自分だけが除け者にされていることにも、納得がいかなかった。
「もう決めてるってことだね? 覚悟はできてる? 決心は変わらない? あっそう! 本当に、もう……勝手に好きにすればいいじゃんっ!」
ザイードに怒鳴りながら、自分で自分に問う。
魔物の国側に立ち、参戦を決めたのは誰か。
ラーザの民を巻き込みたくないのは誰か。
フィッツを生き返らせたのは誰か。
そして。
最も、足手まといなのは、誰か。
答えは、すべて同じだった。
ほかの誰でもなく自分なのだ。
(私がついて行っても、なんにもできない……アイシャと連絡を取る方法だって、わからないし……連絡ついたからって、どうする? またラーザの人たち巻き込むだけじゃん……協力してって言えば絶対に力を貸してくれるってわかってて……)
すでに自分の軽率な行動がきっかけで、3百人の犠牲を出している。
きっとラーザの民は「カサンドラ」のためなら、犠牲を犠牲とも思わない。
だとしても、自分は「カサンドラ」ではない。
彼らの信じる、本物とは違うのだ。
ヴェスキル王族だとの誇りも自負もないのだから。
そんな自分のために「戦え」とは言えなかった。
彼らは、あまりに妄信的に過ぎる。
(そっか……そりゃそうだよ……そんな覚悟できっこない……ただの一般人にさ、何万もの命の責任なんて負えるはずない……)
もし、これ以上、ラーザの民を巻き込むのなら、彼女はヴェスキル王族としての責任を持たなければならない。
フェリシア・ヴェスキルや歴代の女王のように、罪と責任を負う覚悟でもって、ラーザの民を従える必要があるのだ。
ラーザの女王は民と関わらない。
女王の姿を見ることなく、一生を終える民のほうが多い。
それを不思議に思っていたが、今ならわかる。
大事なものが増え過ぎると判断ができなくなるのだ。
大きな決断を前に、迷うことになる。
元の世界で、誰とも深く関わらず生きてきたので、その感覚が理解できた。
この世界に来た当初、簡単に判断できていたことが、今はできなくなっている。
周りと深く関わり過ぎ、大事なものが増え過ぎたからだ。
結果を得るため利用できるものは適度に利用すればいいとは、もう思えない。
キャスの中では、フィッツとザイードを行かせずにすむ方法が見えている。
おそらくフィッツも思いついてはいただろう。
だが、キャスの中の「覚悟のなさ」も気づいていたのだ。
だから、ザイードとともに、自分たちだけで行くと決めた。
自分の命だけのことなら、躊躇いなく放り出せるのに。
フィッツとザイードを行かせたくないのなら、キャスが行けばいいのだ。
キャスも壁は越えられる。
そして、ラーザの民と連絡を取り、開発施設を叩く。
ラーザの民なら、施設を使えなくすることくらい容易だ。
その代わり、帝国で、ラーザの民が生きる場所はなくなる。
今でさえ隠れ潜んで暮らしているのだろうに、明確に叛逆したとなれば徹底的に捜索され、排除されるに違いない。
その責任を負えるのか、負う覚悟があるのか。
問う自分に、キャスは答えが返せなかった。




