傷と怒りの狭間には 1
ひゅんと、ザイードがガリダの姿に戻った。
分厚く濁った雲が消え、薄い水色をした冬の晴れ間が広がっていく。
だが、陽の光は弱い。
夏場のように地面を乾かせるほどではなかった。
「オレの領地じゃなくて良かったぜ」
「私の領地であれば大惨事になっていた」
「俺は後始末が大変だがな」
アヴィオは、フィッツを見て、渋い顔をしている。
それでも、ほかの領地では試せなかったと、納得はしているのだ。
だから、食って掛かるような真似はせずにいる。
「お前、ひょろっこいのに強いな。この前、オレたちと戦った、人間の兵士なんか比べもんにならねぇぞ」
「あの者らのように装備も身につけていないのに、魔力攻撃が効いていなかった」
ダイスとナニャは驚いているようだ。
ザイードは無表情なので、どう思っているのかはわからない。
強いだろうとは思っていたが、ザイードの強さは予想以上だった。
だが、フィッツは魔力攻撃のみならず、どんな攻撃も、するすると躱している。
「いえ、服を焦がしましたし、攻撃も通ったものは多くありませんでした」
フィッツの灰色シャツの袖が焦げていた。
風になびいた端が、炎にふれたらしい。
本人は、かすり傷ひとつ負っていないものの、不満が残るところだ。
ザイードの、自然を操る力は、侮れない。
「使うた魔力の量を鑑みれば、余の敗北と言えような」
魔力には限界がある。
使い切ってしまえば、動きも鈍くなるのだ。
そこを捉えられれば、圧倒的にフィッツが有利となる。
ザイードは、そう見立てて、敗北だと言っているのだろう。
「ティトーヴァ・ヴァルキアの武器が扱えれば、私が有利だったかもしれません。ですが、あの暴風の中では、思うようになりませんでした。あなたの敗北と言えるほど、私に余裕があったわけではありませんよ」
「皇帝か。あの者の使う武器は、お前の使うたものより遥かに重かった」
「ワイヤーですからね。重量があるので、風に押し負けないのでしょう」
「それは、ちと甘い見立てよの。あの皇帝は、風をも味方につけておったのだ」
フィッツの目が、わずかに細くなる。
確かに、フィッツが使ったのは皇帝の武器よりも軽かった。
だが、ザイードが苦戦を強いられたのは、重量だけが理由ではないらしい。
「風の流れを読んでおったぞ、奴は。そのワイヤーとやらで体を固定し、地に足をつけた状態で、余に“当たる”攻撃を仕掛けてきたのだ」
「あの武器は、皇帝専用と言えるものなのです。銃などよりよほど……」
ふと、フィッツは不思議に思う。
フィッツ自身、帝国で最も強いのはティトーヴァだと認めていた。
だが、1対1なら勝てないこともない。
こちらも無傷ではいられないだろうが、ティトーヴァの手を切り落とすなりして使えなくすればいいのだ。
が、しかし。
「近くに銃の使い手……非常に腕の立つ者はいなかったのですか?」
「皇帝の指図で、余の背中を撃っておった者らだけであった。多少は腕の良い者もおったであろうが、優れた使い手というほどではなかったように思う。お前よりも腕の立つ者がおったのであれば、覚えておろうが……」
となると、ベンジャミン・サレスは、皇帝の近くにはいなかったことになる。
別の場所にいたのか、皇帝の側を離れなければならない理由があったのか。
ベンジャミン・サレスが出て来ると厄介なのだ。
ティトーヴァと組まれると、フィッツでも相打ちに持ち込めるかどうか。
考えていたフィッツの意識が、ふっと途切れる。
瞬間、ダイスのほうへと振り向いた。
「ダイスさんっ!」
「お、おう、どうした?!」
「すぐに、私をガリダまで連れ帰ってください! 速度は問いません!」
「な、なんだ? どうした?! なんかあったのか?」
「姫様が、お倒れになったらしいのです。命に別状はないようですが、直ちに戻る必要があります」
今日は、ザイードとともに長時間ガリダを離れることになる。
そのため、室内に、温度などを測る装置を設置して出た。
熱源がいくつあるかや、その輪郭などが情報としてフィッツに送られる。
ほんの少し前、その熱源が急速に温度を下げ、倒れたのだ。
「わかった! 乗れ!」
「待て! 余も同行いたす!」
ダイスの背に、フィッツは飛び乗る。
その後ろに、ザイードも乗って来た。
「お前ら……くそ! 落ちても拾ってやらねぇからな! 掴まってろよ!」
言うなり、ダイスが駆け出す。
景色が、たなびく色だけになっていた。
それほどの速度だということだ。
普通の人間であれば、呼吸などしていられない。
ティニカの施術を受けた身体だからこそ耐えられる。
魔物が、どうやって呼吸しているのかは知らなかった。
だが、ガリダは、そもそも沼地で暮らしている。
水の中でも平気らしかったし、おそらく、人間とは異なる呼吸の仕組みが、体に備わっているのだろう。
(1時間……この距離では、最速でも、そのくらいはかかる……お側を離れるより同行いただくべきだったか……)
カサンドラを連れて行くか、残して行くか。
ノノマと家にいてもらうのが良いというのが、フィッツの「最善」だった。
ザイードとの「試合」では、本気が必要だったのだ。
互いに攻撃し合う中、カサンドラが巻き込まれるかもしれないと危惧した。
冷たい風が、フィッツの全身を切りつけてくる。
実際に傷はつかないが、皮膚にピリピリとした痛みは感じていた。
それ以上に、フィッツは苛立っている。
カサンドラの倒れた理由をつきとめられずにいるからだ。
敵に襲われたのではない。
朝、出かける前に挨拶をした時は、体調に変化はなかった。
気分も良さそうだったし、感情も安定していたように思う。
ノノマとの関係も良好だ。
フィッツも気づいてはいる。
自分が近くにいると、カサンドラは、どこか緊張していた。
話しかたや口調は、皇宮にいた頃と、大差ない。
だが、あの頃よりも、ずっと距離を感じる。
彼女が意識的に距離を取ろうとしていることも、察していた。
フィッツは、ヴェスキル王族の後継者であるカサンドラに仕える者だ。
そのように教わり、そのように育てられている。
最も近くで王族を見守る存在、それがティニカだった。
だとしても、主従の関係であるのは否めない。
カサンドラが王女として、臣下の者との間に線引きするのは正しい行動なのだ。
皇宮のボロ小屋での暮らしでは、身近で気楽な雰囲気があったとしても。
帝国との敵対を余儀なくされている魔物の国。
彼女は、魔物の国につくと決めている。
そして、ヴェスキルの王女として、フィッツをはじめ帝国にいるラーザの民3万近い戦力を保持していた。
言うなれば、ひとつの種族の長と、同じ立場なのだ。
王女、いや、ラーザを率いる女王として、臣下と距離のあるつきあいをするのは当然のことだった。
フィッツとて、ティニカだからこそ側にいられる。
でなければ、一生、姿すら見ることはなかったかもしれない。
「あなたたち、帰って来たってことは、知っているのよねえ?」
ダイスの近くに、ミネリネが現れていた。
ダイスの速度も、おかまいなしだ。
ふわふわと漂うようにして、すぐ隣をついてくる。
「なぜ姫様は、お倒れになられたのですか?」
「それは、よくわからないわ。悪い物を食べたとか飲んだとかではないけれど」
「腹が減って倒れたってことじゃねぇんだな」
「あなたじゃあるまいし、あるわけないでしょうよ」
「いったい、なにをしておったのだ」
魔物の会話は、人の「言葉」よりも便利だ。
口を開かなくても、意思の疎通ができる。
フィッツの体に埋め込まれている「波長」を作る装置により会話をしているので呼吸にも影響を受けない。
それでいて、自然な「会話」となっている。
アトゥリノやリュドサイオの「訛り」を覚えるより、よほど楽だった。
「あなたたちの、力比べを見ていたわ。そう言えば、癒しは不要だったようねえ」
「余と、この者が戦うておるのを見ておったのか?」
「見たがっていたから、見せてあげたのよ。あなたが雨風を、あまりに使い過ぎていて、ぼんやりとしか見せてあげられなかったけれど」
その映像を見て、カサンドラは倒れたのだ。
理由は、わからない。
ダイスの速度でも1時間はかかるほど離れた場所だった。
直接的な、戦闘の影響を受けるはずはない。
「我らが、本気で戦うておると勘違いをしたのであろうか」
「勘違いと言うのは語弊がありますね。本気で戦っていたのは否定できません」
「やり過ぎたんじゃねぇか? そんで、キャスを、びっくりさせたんだろ」
「びっくり……驚いてはいたみたいだったわ。でも、それだけかしら。驚いただけなら、卒倒まではしないのではなくて?」
ミネリネの言葉には、一理ある。
もとより、カサンドラは感情の起伏が大きくない。
フィッツの経験において、激情に駆られて卒倒する女性がいたことはあった。
けれど、彼女は、そういう手合いとは違う。
フィッツと同じくらい、いつも淡々としていた。
(しかし……この国で姫様は変わられた。誰とも関わろうとしていなかったのに、ここでは親しくしているものもいる……)
ノノマもそうだし、ザイードとも親しく見える。
自分より、ザイードやノノマのほうが、カサンドラにとっては、近しい存在なのかもしれない。
フィッツの心に、微かな不快感がよぎった。
胸の奥が、なぜか、ちくっとする。
「とにかく、キャスに訊かなきゃわかんねぇしな。考えても無駄だぜ?」
「そうよな。ダイス、もっと速う走れ」
「ゆっくりだの速くだの、勝手なことばっか言うんじゃねぇっての!」
文句を言いつつも、ダイスの速度が上がった。
ダイスなりに、カサンドラを心配しているのだろう。
フィッツは、不意に不安を感じた。
彼女の役に立っている実感が、あまりないのだ。
カサンドラからは遠ざけられている。
必要とされているのかも、わからない。
この魔物の国で、自分に存在意義はあるのだろうか。




