有限の幻想 2
雨が降っている。
顔を雨が濡らしている。
うっすらとした感覚があった。
不思議に感じてもいる。
冬の雨は冷たい。
けれど、温かい。
冷たいはずなのに、温かいのだ。
これと似た雰囲気を知っている。
大きな手だった。
繋ぐと、丸々、自分の手は、その手に覆われる。
冷たい見た目なのに、暖かい。
そういう手を知っている。
あれは、誰の手だったか。
フィッツではなかった。
フィッツとは、手を繋げなくなってしまったから。
フィッツに「手を繋いで」と言っても返事がないので。
冷たそうでいて、あったかい。
フィッツの手も大きくて、暖かかった。
けれど、冷たそうだと思ったことはない。
自分を守ってくれる優しい手だった。
ぴしゃ。
温かい冬の雨が、顔にかかる。
体を動かす意思がないので、流れ落ちる雨をぬぐうこともしない。
ぴしゃ。ぴしゃ。
フィッツとは、どんな冬を過ごしていたのか。
寒いからと言って、コートを着せてくれた。
彼は、いつも半袖シャツ。
体温調節ができるから、コートは必要ないのだとか。
それでも見ているほうが寒くて、けれど、そうとは言えず、冬場に半袖は目立つのだと言った。
フィッツは、ぺらっぺらの上っ張りでも、平気そうにしていた。
ぴしゃ、ぴしゃ。
冬の雨は冷たいはずだ。
フィッツと一緒に、雨に打たれたことがあったろうか。
相合傘を、フィッツに教えたかった。
フィッツは、どんな顔をしただろう。
温かい。
この雨は、温かい。
冬の雨は冷たいはずなのに。
頬にも、暖かいものがふれていた。
誰かの手だ。
フィッツの手ではないはずだ。
フィッツはもう、いないから。
「魔物は強えよな? 強えから死んでくんだ。お前らの同胞意識ってのには、感心させられるね。人間なら、とっくに見捨ててるぜ。なんだかんだ言い訳してよ」
また嫌な「音」が聞こえてくる。
ものすごく「嫌な音」だ。
「俺も、部下に言ってやったんだ。あいつらが言い訳できるようにな。お前たちの命は帝国のものである、自分だけのものではないと思え、1人でも多く生き残れることこそ皇帝陛下のためだ、とかなんとかよ。それで、あいつらは、納得。俺を、1人で行かせて、てめえらは居残りしてんだぜ? 今頃、ホッとしてんだろうな。これで死なずにすむってよ。実際、誰もついて来てねぇだろ?」
ぴしゃ……。
また「雨」が顔にかかる。
冷たいはずの冬の雨が、生温かかった。
「だが、お前らは違う。同胞を、そういうふうには見捨てねえ。見捨てる時には、言い訳なしだ。そこまで頑張っちまうもんなあ。とっとと見捨てて、自分だけ生き残りゃいいのによ。夫が、妻が、子供が、同胞がって、どうしようもなくなるまで見捨てようとしねえ。だーから、こんなことになっちまう」
キャスの瞳が、わずかに揺れる。
意識の隅に、なにかが灯る。
「魔物は強え。だがな、馬鹿だ」
紫紅の瞳が、じわりと景色を、彼女へと伝えてきた。
生きている「体」が、意思を求めている。
この光景を見てみろと視覚が、この「嫌な音」を聞けと聴覚が。
そして、この「ぬくもり」はなんだと知覚が、訴えかけていた。
視界が、突如、開ける。
顔にかかっていたのは、紫の血。
だから、温かかったのだと「認知」した。
「あ……あ……」
言葉にはならない声が、喉からもれる。
ザイードの手が、キャスの頬にふれていた。
冷たそうに見えるのに、不思議なほど暖かい手だ。
全身から、すべての感覚が、キャスに教えてくる。
お前は生きているのだろう?
生きているくせに、どうして動かない。
どうして考えない。
なぜ、自分を助けようとしているものを、助けようとしない。
これでは、あの時と同じだ。
フィッツを抱きしめるしかできなかった。
フィッツは、彼女を庇ったまま、命を失ったのだ。
同じだ。
同じになる。
「嫌……嫌だって……言った、じゃん……」
ジュポナでも、そう言った。
あんなことは、嫌だと。
あんな光景は2度と見たくないと。
なのに。
ザイードの体には、いくつもの傷がある。
肩や腹から血を流していた。
硬い鱗が貫かれるほど、撃たれているのだ。
あげく、キャスにあたらないよう、手や尾でも、彼女を庇っている。
「おお、キャス……そなた……」
口から、血があふれていた。
けれど、ザイードは大きな黒い瞳の中にある、金色の瞳孔を優しく狭めている。
嬉しそうだった。
「守らないでって言ったじゃないですか」
「そうだの……しかし、できぬと、言うたであろう?」
ザイードを死なせることはできない。
だが、今度は、取引などしない。
「お姫様が、目を覚ましたってか? あの金色のやつが、壊れちまったってのに。シャノンが言ってたぞ。きらきら散ってたってな」
ぎゅうっと胸が痛くなる。
言われなくても、その光景は、自分の目で見ていた。
フィッツの魂が、粉々に砕け散るところを、だ。
だが、幻想の中に逃げ込むことはできなかった。
その間に、ザイードが死んでしまう。
『すごいよなぁ、人間て。こんなに苦しくても体さえなんともなけりゃ、ちゃんと生きてけるんだからさ。あ、知ってた?』
キャスは、ザイードの体の後ろから、立ち上がる。
そして、逆にザイードを、自分の背に庇って立った。
「て、め……っ……また……っ……」
『人間にはさ、いろんな感情がある。楽しかったり、嬉しかったり。いい感情だけじゃなくて、苦しかったり、悲しかったりもする。でもさ、今の私はさ。すべての感情が一丸になっててね。あんたへの怒りが、独走状態なんだよ』
ゼノクルが、がぼっと血を吐き出す。
銃を持つ手も震えていて、照準も合わせられないようだ。
『私、ずっとティニカの隠れ家に帰りたかったんだよね。でも、帰り道がなくなっちゃってさぁ。立ち往生してたんだ。帰ろうって言って、迎えに来てくれる人もいないし、本当にまいったよ。どん詰まりもいいとこ。わかる? そんなところまで追い詰められたことなんかないよね、あんたには』
どぼどぼと、ゼノクルの口から血があふれた。
耳や鼻からも血が流れ出している。
それでも、まだ「生きて」いた。
「ミネリネ、ザイードをお願い」
ぶわっと現れたファニたち。
ミネリネが黙って、ザイードの傍に近づいていく。
ファニたちは「何色」を見ただろう。
『あんまり、きれいな色じゃなさそうだね。こんなに怒ったのって初めてだから、自分が、どんな気持ちなのか、よくわからないよ。怒り過ぎててさ』
血を吐きながら、ゼノクルが地面を転げ回っているのを眺めていた。
どうして「壊れない」のか、「死なない」のかと、不思議に思う。
ものすごく冷静だった。
「みんな、シャノンはいる?」
ファニたちが、首を横に振る。
おかしい、と感じた。
シャノンは「ご主人様」に忠実なのだ。
近くにいないはずはない。
近くにいれば、キャスの力の影響を受けている。
動けるはずがなかった。
「……は……やっと……気づきやがった……」
ゼノクルは、大の字になったまま、顔だけをキャスに向けた。
手で空を指さす。
「空から、でっけえ贈り物をしてやるよ。ま、俺を殺すのは勝手だが、止められんのは、俺だけだ。それだけは、言っとく」
なにをするつもりかは、わからない。
けれど、はったりでないことは確かだった。