有限の幻想 1
盤面を操る者。
それは、人ではなかったのだ。
ザイードの目には、はっきりと見えている。
ほかの魔物では気づけないほどの、ごく微かな魔力の揺らぎ。
ザイードのように抑制している、というのとは違うようだ。
魔力が、ほかのものより大きい魔物は、周りを威圧しないため、抑えこむことも少なくない。
とはいえ、完全に抑制することはできず、いくぶんかは漏れ出てしまう。
たとえば、強い香りのする花を箱に入れても、匂いをかき消すことはできない、といったふうだ。
だが、ザイードの前に立つ男からは、そういう雰囲気がない。
花を箱に入れる際、花粉が箱についてしまった、という感じだろうか。
まるで、この男の持つ魔力ではないもののようなのだ。
酷く違和感がある。
「その体は、誰のものぞ?」
「これだから、魔物は嫌いなんだよ。獣くせえしな」
男が、口を歪めて、鼻をこすった。
本気で嫌がっている。
そして、ザイードの言葉を否定しなかった。
相手は、魔人だ。
細かな花粉のように、男の体に纏わりついている魔力は、真っ黒だった。
かなり濃い。
灰色や黒っぽいなどという、ザイードが目にしたことのある魔人のものとは違う。
真っ黒だ。
おそらく、人の体を「借りて」いるのだろう。
古い文献に、わずかではあるが、そんなことが書かれていた。
聖魔は、人を「使う」ことができるため、人は聖魔を嫌うのだとか。
読んだ時には意味が、よくわからずにいた。
のちに、キャスから聞いた「精神干渉」のことかもしれないと、想像していた。
けれど、精神を操るのと、人を使う、というのとは、別個のものだったのだ。
単に精神に干渉して操るのではない。
人の体を、いわば「乗っ取る」ことが、聖魔にはできる。
それを、ザイードは、明確に感じ取っていた。
違和感の正体は、それなのだ。
体が「人」であるのは、間違いない。
なのに、内側には、人でないものがいる。
(人を魔力で攻撃したとて、このような痕は残らぬ)
魔力は、それを持つものの、体に宿っているものだ。
魔物の魔力には匂いもあるが、使ったあとに、残り香はない。
色や揺らぎ、匂い、そのすべてが「持っている」状態を示している。
使っている状態を示すものではないのだ。
ましてや、いったん体から離れた魔力が「残る」などとは有り得なかった。
たとえわずかであろうが、体に纏わりつくことも、だ。
すなわち、この男自身が魔力を使った、ということになる。
なのに、男から魔力は感じられない。
(なれば、人の体を使うておるとしか考えようがない)
理屈はわからないが、魔力を使うにあたり、なにか制限でもあるのだろう。
人の体を使っているせいで、自由には使えないのではなかろうか。
人は、3つの種の中で、唯一「魔力を使えない」生き物だ。
それを、魔力を持つ魔人が使う。
(入れ物に、形の合わぬものを無理に押し込めておるようなものよな)
ザイードは、自分の魔力が、ほとんど残っていないと知っている。
今のお前では勝てない、と男が言ったのは、そういう意味だ。
自分にも男の魔力の痕跡が見えているが、相手にも見えている。
人の体を借りていても、魔人は魔人ということらしい。
気づくべきことには気づく。
「お前とて魔力を自在には使えぬのであろう。もとより聖魔の力は、我らに通じぬものゆえ、いかがいたす? 人の武器を使うか、魔人よ」
「まぁ、そういうことになるわな」
この男を、このまま生かしてはおけない。
本能が、そう悟っている。
人間の兵たちが、無謀な突撃をやめなかったのは、この男のせいだ。
精神を操ったのではないだろうが、なにか別の手段を持っているに違いない。
魔物と人の摂理は違う。
同様に、聖魔と人の摂理は異なるはずだ。
ザイードに、人の摂理は理解できない。
だが、この男は、それを理解している。
「お前、あの時の、でっけえ魔物だろ。ほら、ジュポナで会ったじゃねぇか」
ザイードの瞳孔が、すうっと狭まった。
ザイードは、1人1人の顔までは覚えていない。
はっきりと覚えているのは、皇帝くらいだ。
「ありゃあ、すごかったぜ? まさか壁をぶち破って逃げるなんざ、ちょっと考えられねぇよな。よくあれで死ななかったもんだ」
キャスが取引をしなければ、死んでいただろうことは、わかっている。
魔力は尽きていたし、尾も脚も、ちぎれていた。
生きているのは、キャスのおかげだ。
「なぁ、お前、その小娘が欲しいんだろ? まぁ、今は壊れちまってるようだが、直せねぇわけじゃあねえ。直したうえで、お前にくれてやる」
ザイードは、肩越しに、キャスに視線を投げる。
地面に、ぺたりと座り込み、動く気配はない。
最初に助けた時より、酷い状態だ。
あの時は、まだ「会話」ができていた。
今のキャスは、話しかけても、まったく反応がない。
キャスを「直せる」のなら、直したいと思う。
泣くこともせずにいるキャスは、声も出さず泣くキャスよりも、ザイードの胸を痛ませていた。
視線を男に戻し、ふっと息を吐く。
それから、瞳孔を狭めたまま、男を見つめた。
小さく笑う。
「魔人とは、かくも弱きものであったか」
キャスは、聖者と取引をして、ザイードを救った。
だが、ザイードは魔物なのだ。
人とは理が違う。
キャスと同じ選択はしないし、できない。
(癒せるものなら癒してやりたい。余に、心を向けてほしいとも思うておる。だが、誰ぞの手を借りてはならぬ。キャスが己で立たねば意味がない。キャスの意思で、余を見てくれねば意味などないのだ)
ザイードは、魔物だった。
自然の摂理の中で生きている。
生き物は、自分の力で生きなければならない。
与えられたもの、手にいれたもので、なんとかやりくりをして命を繋ぐ。
それでも、死ぬ時は死ぬのだ。
少なくとも、キャスの体は生きようとしている。
魔獣から助けた時も、そうだった。
そして、幻想の中であったとしても、キャスは立ち上がったのだ。
死にたい心をかかえながら、できる限り生きようと踏みとどまっていた。
今度も、きっと立ち上がれる。
いつになるかはわからないが、きっと自らの意思で立つに違いない。
それまで、支え続ければいいのだ。
傍にいて、命を繋ぐ手助けをする。
「己が、なにも持っておらぬゆえ、わからぬのだ。わからぬゆえ、あらゆるものを知りたがり、欲しがる。聖者とは、魔人とは、さように弱き生き物ぞ」
「そうかもな。けどよ、俺に頼るほうが簡単だろ? 手に入れてぇもんが、すぐに手に入るんだ。人の命ってのは短いしな。待ってる間に、くたばっちまうぜ?」
「かまわぬさ。それが自然の道理だ。余は、やりたきようにやる。これまで、そのように生きてきた。これからも、そのように生きる」
人の命は、魔物より短い。
いつか、なんていう日は来ないのかもしれない。
だとしても、魔人の手を借りてまで、キャスは生きたいと思うだろうか。
その答えもまた、キャスから聞かなければ、わからないのだ。
「融通が利かねぇな、魔物はよ」
カチャッと音がする。
男が、銃を手にしていた。
残った魔力で、体を硬化させる。
緑の鱗が、いっそう色を濃くした。
立て続けに、銃の音が響く。
無視して、ザイードは男に向かって走った。
一瞬で間合いを詰め、首を片手で掴む。
尖った爪が首に食い込んだ。
中にいるのが魔人でも、体は人のものに過ぎない。
装備によって魔力での攻撃は効かないと、わかってもいる。
なので、物理的な攻撃を仕掛けたのだ。
1対1なら、力で押し負けたりはしないと踏んでいた。
「魔物が……なんで、人に勝てねぇか……知ってる、か?」
首から血を流し、息苦しそうにしながら、男が嗤う。
耳をかさず、手に力を込めた。
「人は、人を殺すし……裏切る……心が弱え……魔物は……心が強過ぎんだよ!」
男の手が動く。
ハッとなって、その手を掴んだ。
が、一瞬、遅かった。
ザイードは、男を突き放す。
「キャス……っ……」
男が狙ったのは、キャスだった。
咄嗟に、ザイードは、キャスを抱きしめて、その体を庇う。
ぱんっと、背中に銃弾を食らった。
「そうやってさ、お前らは退かねぇよな? ずっと庇ってろよ。でなきゃ、小娘が死ぬことになるぜ?」
ジュポナの、あの場に、この男はいたのだ。
皇帝の取った手段を知っていることには、気づいていた。
同じ場所を、繰り返し的確に撃ってくる。
戦場にいた兵たちのように、でたらめな撃ちかたはしない。
ザイードの鱗が傷つき、血が流れ始める。
紫色の血だ。
(かまわぬさ。ああ、かまわぬ。この命は、キャスに救われたのだ。ここで、命を落とすのなれば、死に時なのであろうよ)
ザイードは、魔物だった。
自然の摂理の中で生きる、魔物なのだ。