絶望の路頭 4
キャスの心は、空っぽになっている。
目の前で壊れてしまった。
いくつもの景色が流れては消えていく。
どれも、掴むことができなかった。
目には、現実の世界など、なにも映っていない。
見えるのは、幻想の欠片ばかりだ。
暑かった夏の日。
あの日の夕日。
フィッツは、決めてしまっていたのだろうか。
自分の影を、独りぼっちにしてしまうと。
彼自身の影を、独りぼっちにすることを。
その2つが、もう重なることはないのだと知りながら、それでも。
自分の言葉は、どこにもとどかない。
とどかなかった。
あげく、靴を履いてもおらず、抱き上げてくれる手も失ったのだ。
裸足では影踏みもできない。
フィッツの影を、つかまえられない。
穏やかで優しい、フィッツと過ごした日々の欠片が心に落ちてくる。
それは秋から始まり、夏で終わっていた。
茶色の時間が軋むたび、薄金色の髪がゆらゆら揺れる。
『毎日が楽しくて、嬉しくて……こんな日がずっと続けばいいと思える。これが、幸せというものなのですね。大好きですよ、キャス』
こんな時にさえ、愛しているという言葉は、フィッツに向けるためだけの想いの詰まった箱の鍵。
陽が落ちかけていて、キャスの姿の影模様を作っている。
その中で、キャスは泣くこともできず、ただ空を見上げていた。
フィッツは、もう逝ってしまったのだろうか。
あの日、抱きしめたフィッツの体の感触が全身に広がっていく。
今でもキャスは、フィッツを抱きしめたままでいるのだ。
『では、姫様にしかできないことをしてくれますか? 私を抱きしめてください。姫様にしかできないではないですか』
幻想と現実をごちゃまぜにしながら、なにもかもが燃えかすになってしまわないようにと、それでも世界を創り上げ、歩いていた。
ただ侘しさだけが繋がる記憶の線路を。
フィッツの声が聞こえない。
呼んでも呼んでも、返事がない。
声に出しても、出さなくても、繰り返し繰り返し、呼んだのに。
まるで音のない世界に迷いこんだみたいだった。
フィッツの声が聞こえないだけで、無音になる。
どうして返事をしてくれないのかと、フィッツに訊きたかった。
『私が姫様を置いて行くなど、有り得ません』
そう言っていたのに、置き去りにしたではないかと、フィッツを責めたかった。
けれど、どこまでも、心がフィッツを追ってしまう。
現実を受け入れることができずにいる。
こんな風になってなお、嘆きという苦痛ですら、フィッツと共有するためだけの世界を封じる命の片羽。
残された半分の羽では、飛ぶことはできない。
空を見上げ、もう片方の羽を探すだけだ。
そのための指標が、あの薄金色のひし形だった。
フィッツの魂が封じられていた、あの。
『先ほど、愛称で呼べるようになったら、姫様と恋仲になれるのだろうかと思っていました』
心の燃えかすと自分の影が、あたたかい日なたを思い起こさせる。
2人でピクニックをした日のことだ。
いつしか隣に座ることに、フィッツは恐縮しなくなっていた。
全力で努力するから、だから。
『待っていてください』
のちに、そう言ったフィッツに「ずっと待つ」と返事をしている。
だから、ずっと待っている。
フィッツは、自由になれたのだろうか。
ティニカという鎖から解放されたのは、わかっている。
解放されたあと、青空の向こうに逝ってしまったのだろうか。
もしそうなら、待っていても、フィッツは帰らない。
自分は、なにをしているのか、と思う。
やわらかだった夕方の陽射しが消え、急に空が雲っていた。
薄暗い空から、小さな雨粒が落ちて来る。
けれど、雨が降っても傘がない。
自分は、誰を庇うこともできないのだ。
いつもいつも。
フィッツが手を引いてくれた。
抱っこをして走ってくれた。
1人では、草原を駆けることもできないのだ、自分は。
なにをしているのか、と思う。
なにもできないくせに、なにかができるのだと勘違いをして、なにをやっているのかと、思った。
とたんとたんと地面を叩く雨は物静かに、秒針よりも時間を刻む。
それは、あたかも、まだお前の心臓は動いているだろうと、彼女に、突きつけてくるかのようだった。
こんな時でさえ。
彼女の「生」は、フィッツとの夢想を形にするための螺旋を描いた心の結露。
目から流せない涙が、心の裡で滴となり、流れ落ちていく。
彼女は、ただ生きていた。
絶望さえ遠く、鼓動に似た雨音だけが、無意味に耳に響いている。
『フィッツが1番なんだけどなぁ。フィッツより近い人なんていないよ』
『言葉で言っても伝わらないなら、行動で伝えることにする。ここを出たらね』
『新しい場所に着いたら、キスしよう』
『いいんだよ。私に1番近いのは、フィッツなんだって証なんだから』
フィッツは、もう忘れてしまったろうか。
絵空事になってしまった、あの日の約束を。
フィッツに、もう1度、好きだと言いたかった。
フィッツからも、好きだと言われたかった。
一緒に生きることができないのなら。
一緒に死のう、と言ってほしかった。
フィッツは、彼女のほしかった言葉を、なにひとつ知らない。
知らないまま、逝ってしまった。
こんな風になってもまだ。
愛をするのは、フィッツを迎えるためだけの朽ちた心の煤払い。
いつかフィッツと会える時にと、備えていた。
正しく自分の心が伝えられるよう、彼女は幻想の中で生きることを選んだ。
フィッツに「それならしかたありませんね」と言ってもらえるまではと。
見上げっ放しの空は濁っていて、光は見えない。
都会の空でもないのに、星が見えないのを、おぼろげに不思議に感じる。
雨が、彼女の顔を濡らしていた。
冬の雨は冷たいはずだが、そういう感覚はない。
この世界に来たのは、フィッツと出会うだめだったのではないか。
そんなふうに思っていた。
来たくて来た世界ではないが、フィッツと出会えたことで、来なければ良かったとは思えなくなったのだ。
フィッツの視線の先には、いつも彼女がいて。
彼女の視線の先にも、フィッツがいるようになった。
なのに、今は、どちらの視線も繋がらない。
ぷっつりと、断ち切られてしまっている。
いつもあったはずの薄金色が見えなかった。
その薄金色の中にいた自分も見えない。
たったひとつの星。
それは、どこにいても、自分の位置を示してくれていた。
道に迷った旅人が、空を見上げて探したという。
どんななにが変わっても、どれだけ時間が経っても、変わらない道標。
元いた世界では、北極星と呼ばれていた。
住む世界が変わり、星の位置も変わっていたとしても。
彼女にあった、フィッツという名の北極星。
空に投げ出される光景。
ひどくゆっくりとした銃弾の動き。
映画の特殊効果のような映像。
その中で、彼女は見たのだ。
『ご自身の命を大事にしてください』
どうして?
『姫様に生きていてほしいのです』
どうやって?
視線は繋がらない。
声は聞こえない。
言葉はとどかない。
彼女のたったひとつの星。
北極星は、砕けて、散った。




