絶望の路頭 3
パチッ。
小さな擦過音。
瞬間、カサンドラが悲鳴を上げる。
激痛に見舞われているはずだ。
痛みに、カサンドラの体が悲鳴を上げているのもわかる。
脳から脊髄に、痛みが走っているだろう。
カサンドラは膝をついたまま、両手で頭を掴んでいた。
「シャノン、来い!」
「ご、ご主人様……っ……」
シャノンが鎖を引きずっている姿が映る。
目も見えるようになっていた。
近づいたシャノンを抱き上げる。
両耳は、ゼノクルが持っていた。
顔中、血だらけだ。
後ろを見れば、尾も残りわずか。
その先からは、やはり血が流れている。
「ちくしょう……俺が、こいつにどんだけ……ちくしょうが……っ……!」
シャノンの有り様に、ゼノクルは怒りを抑えきれずにいた。
子供のように地団太を踏んでいる。
本気で、腹が立っていた。
ロキティスに虐げられていたシャノンを「まとも」にするために、ゼノクルは、3ヶ月もかけている。
傷を治療し、食事を与え、ほとんど、つききりだった。
中間種の存在を知られるわけにいかなかったので、使用人に世話をさせることもできなかったのだ。
ガリダに送り込んだ時も、魔物に虐められていないかと気にかけている。
傷だらけにされてはかなわないと思っていたのだが、魔物はシャノンを傷つけるような真似はしなかった。
なのに、だ。
「こんなに傷だらけにしやがって! ふざけるなよ、この小娘……っ……」
これでは「まとも」にしたくても、できないではないか。
自分ではどうにもできないのが、腹立たしくてしかたがない。
カサンドラは、さっき本気でシャノンを殺そうとしていた。
それを察し、ゼノクル、もといクヴァットは、無理して魔人の力を使ったのだ。
そのことにも腹が立つ。
わずかな精神への攻撃。
干渉するのではなく、攻撃した。
そのほうが、一瞬ですむ。
精神を操る「干渉」は、ある程度の時間を要するのだ。
ここは魔物の国なので「壁」に弾かれることは考えなくていい。
とはいえ、ただでさえ無理をする必要があるのに、時間をかければ、体に負担がかかる。
ゼノクルの体を失うことは、人の国に戻れなくなることを意味していた。
まだ遊び足りていないのに。
腹立ちまぎれに、気を失っているロキティスの体を蹴飛ばす。
クヴァットは、子供のように癇癪を起していた。
3百年で、これほど「つまらない」思いをしたのも、初めてだ。
気に入りの玩具を壊されかけたことが、どうしても我慢ならない。
それから、カサンドラのほうに顔を向けた。
体がしびれているのだろう、まだ動けないようだ。
ナイフも取り落してしまっている。
殺す気はないが、しかし。
ゼノクルは、シャノンの体を抱え直す。
その顔を見て、にっこりしてみせた。
「お前は本当によく出来た玩具だ。可愛いシャノン、俺の役に立てて嬉しいか?」
「は、はい……ご主人様……」
「痛ぇのに、すげえ頑張ったな。そうそう、お前には褒美をやろうと思ってたとこだったんだぞ。特等席だ。よく見て、楽しめ」
抱き上げたシャノンの額に、ゼノクルは軽く口づける。
血だらけの額に。
「俺は、セウテルほど器用じゃねぇが、そこそこ銃の腕はいい。まぁ、あいつは、遊びで銃を撃ったりしねぇからな。面白味のねえ奴だと思うだろ? その点、俺は戦闘じゃ無意味な撃ちかたが好みでよ」
殺すつもりなら、さっさとすればいい、とでも思っているに違いない。
だが、ゼノクルは、カサンドラを殺さないのだ。
単に殺すのでは「面白味」がなかった。
だいたい、まだ気分におさまりがついていない。
癇癪を起しそうになるのを我慢している。
「後悔するって言ったよなあ?」
自分の気分を害したのは、カサンドラだった。
なので、楽しい気持ちにさせるのも、カサンドラの役目なのだ。
楽しむ方法も、すでに決めてあった。
あとは、ぜんまいを巻けばいい。
「そんじゃあ、俺を楽しませてもらおうか」
ちらっと、そこに視線を投げる。
カサンドラが、なにかを察したように目を見開いた。
無意識にか、手が動いている。
そして、顔色を変えた。
「な、俺のシャノンは、どんな時でも、俺を楽しませようと頑張る。可愛いだろ」
ぽーんぽーんと、ゼノクルは、薄金色をしたひし形を、空に向かって投げる。
シャノンが逃げ出す時に、奪ったらしい。
カサンドラは、両手で頭をかかえていたので気づかなかったのだろう。
「……やめ……」
声が震えている。
ゼノクルには、それがなにかはわからない。
けれど、カサンドラにとって「命」よりも大事なものだというのは、わかる。
さっきまでの威勢の良さと冷酷さが消えていたからだ。
「俺だって、さっきやめろっつったじゃねぇか。なのに、お前はどうした? やめなかったよな? それに、こうも言った」
ひし形を投げ上げながら、にいっと嗤う。
カサンドラの悲壮な表情に、楽しくなってきた。
「傷つけたら、やりかえされてもしかたない」
まだ体はしびれているはずなのに、カサンドラが這いずって来る。
その姿も、ゼノクルは気にしない。
魔人としての精神攻撃は、一瞬でも、人に対して大きな打撃を加えるのだ。
カサンドラは、今、まともに話すこともできなくなっている。
声を出せているだけでも、相当な精神力だと言えた。
「やっぱりラーザの王女は違うねえ。いや、聖者の血か?」
言いながら、ひと際、高く、ひし形を放り投げる。
カサンドラが追うように顔を上げていた。
その顔を見ながら、ひょいっと銃を手にする。
それを、空に向けた。
標的は見ない。
「戦闘向きじゃねぇよな、こういう撃ちかたって……バーン!」
ヒュッと空気を割く音がした。
銃弾の行方も追わずにいる。
命中を確信していたからだ。
パリーンッ!!
標的の「壊れる」音が響く。
銃の威力を考えれば、あの「ひし形」は粉々だ。
ゼノクルは、シャノンに笑顔を向けて言った。
「こうしてお姫様の大事な宝物は砕け散ったのでした、おしまい」
カサンドラは、空を見上げたまま動かずにいる。
瞬きすらしていない。
「どうだ、シャノン。楽しかったか?」
「……き、きれいに……壊れ、ましたね……」
「いや、俺、見てねぇっての」
「きらきら散って……き、きれい、でした、よ?」
「そっか。ま、お前が楽しかったんなら、そんでいいや。それより急がねぇとな」
シャノンは傷だらけだった。
その体を抱えたまま、ロキティスの襟首をつかんで引きずる。
リニメアーは放置して、歩き出した。
そろそろ無人の中型リニメアーが到着する頃合いだ。
魔物たちに気づかれないよう、かなり北西を迂回させている。
セウテルと決めておいた合流地点に向かって、のんびりと歩いた。
途中、副官に連絡を入れておく。
自分で戦意を煽っておきながら、部下思いの「指揮官」を演じた。
「全員、撤退してるかっ? 1時間って言っただろうが! してねぇ奴らは、すぐ呼び戻せ! そこから北西に迎えを来させてる! 位置情報を送るから是が非でも生還しろッ! 急げ!!」
それらしいことを言って、通信を切る。
おそらく生存者は、多くて4,5千人というところだ。
出征した人数からすると、生き残りは3割程度になる。
だが、ゼノクルに死者を悼む気持ちなどない。
「ラーフロぉ!!」
魔物の国を出た少し先、空を見上げて、ゼノクルはラフロを呼んだ。
壁はないし、魔物たちも追える状態ではないと、わかっている。
すぐに懐かしい声が聞こえた。
気配もなく、ラフロが目の前に現れる。
「きみは、ずいぶんと癇癪を起こしていたねえ」
「だって、お前の娘、ひでえんだぜ? 俺の気に入りの玩具を、こんな傷だらけにしやがってよ! あんまりじゃねぇか?!」
「おやおや、これはずいぶんと傷んでいるな」
「だから、言っただろ! お前の娘は、ひでえってよ!」
「ああ、わかった。すぐ元通りにしてあげるから、そう怒らないでおくれ」
目をしばたたかせているシャノンが、光につつまれた。
ひょこんと耳が立ち、くるんっと巻いた尾が現れる。
すっかり元通りになり、俄然、気分が良くなった。
人の国には壁があるので、呼びたくてもラフロを呼べなかったのだ。
そして、魔人であるクヴァットには「治す」という力はない。
ラフロとは、得意とするところが違う。
実を言うと、ラフロのお気に入りの王の間は、クヴァットが作った。
世界を映す鏡のような湖面も、ラフロが退屈しないようにと考えてのことだ。
「これでいいかな? きみのご機嫌は直ったかい?」
「まぁな。元通りになったから、よしとするさ」
「それにしても、きみは、いつも楽しみを見つけてくるねえ」
「お前も一緒に楽しめりゃいいんだけどな」
「楽しんでいるさ。わかっているくせに、わざとらしく、悩み深げに言うのだから呆れてしまうよ」
ラフロが、ちらっとシャノンに視線を向ける。
たいして関心もないのだろうということやなんかは、わかっていた。
「連れて帰るのかい?」
「それこそ、わかってることを聞く必要があるか、ラフロ」
「好きにするがいいさ。でもねえ、あまり癇癪を起こさないようにしてくれると、助かるよ。きみが癇癪を起こすと、イスの座り心地が悪くなっていけない」
クヴァットが肩をすくめると同時、ラフロが消える。
ちょうどいい具合に、無人のリニメアーが近づいて来るのが見えた。