絶望の路頭 2
「ぎゃ、うっ!!」
辺りに、シャノンの叫び声が響き渡る。
キャスは鎖を自分の腕に巻きつけ、膝でシャノンを地面に押さえつけていた。
反対の手に持ったナイフは、血に濡れている。
元の世界でも、こっちでも、自分の手を汚したのは初めてだ。
「ほら、これ、どうぞ」
ぽいっと、ゼノクルのほうに「それ」を投げる。
見えていないゼノクルは、手探りで地面に落ちたものを見つけていた。
「これは……」
「あんたの可愛いシャノンの耳。あ、右耳ね」
『体の右半分は吹き飛んでいたはずです。ああ、左利きの者の場合は、左半分となりますが』
フィッツが、そんなふうに語っていたのを思い出して、言葉を付け足したのだ。
怒りが突き抜けていて、無感情になっている。
痛みに暴れているシャノンのことも、鬱陶しいとしか思わない。
膝に力を入れ、背中を強く押さえつけた。
「それじゃ、今度は左耳、いっとく? それとも尻尾にしよっか?」
「おいおい……小娘……お前は、人間だろうが」
「その人間の価値観だと中間種は魔物じゃなかったっけ? 魔物は殺してあたり前なんだよね? 魔物の解体ショー、あんたも楽しんだら? 目が見えないのは残念だけど、雰囲気だけでも楽しんでよ」
シャノンが肩越しに、キャスを振り返っている。
本気で怯えた目をしていた。
それでも、心は冴え冴えとしている。
動物虐待には抵抗感があったはずなのに、まるでそういう感覚がない。
「ぅぎぁあぎっ…っ…!!」
「はい、左耳」
それも、ゼノクルに向かって放ってやった。
地面に両手をついているゼノクルの頬に、切り取ったシャノンの耳が当たる。
2つの耳を、ゼノクルは両手に握りしめていた。
体を、ぶるぶると震わせている。
「なに? 楽しくないの? あんたの好きそうなことじゃん」
ゼノクルが唆さなければ、状況は違ったものになっていただろう。
すべてとは言わないまでも、なにかひとつくらいは「救い」があったはずだ。
思うほどに、心が凍えていく。
「シャノンに罪はないかもね。だから? 罪がなくても、殺されるなんて、理不尽だけどさ。そういう理不尽が、まかり通ってるわけだよ。シャノンだけが特別ってことにはならないね。さて、次は尻尾かな。長いから、少しずつ切ろうっと」
「やめろ!!」
ゼノクルが、ゆらりと立ち上がった。
気配でシャノンを探している。
シャノンが、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
なのに、ちっとも同情的になれない。
キャスだって、やめてくれ、と頼んだ。
フィッツを傷つけられ、泣いた。
それでも、誰も頼みを聞いてはくれなかったし、泣いても無意味だったのだ。
その涙の辿り着いた先に「救い」はなかった。
「自分たちだけは特別? 誰かを傷つけたら、やり返されたってしかたないよね。殺したら、殺される。そういうもんじゃないの?」
「だったら、お前は、どうなんだ? アトゥリノの兵と、ベンジャミン・サレス。奴らを壊したのは、お前なんじゃねぇのかよ」
「そうだね。でも、私には、ちっとも等価にならなかったよ」
アトゥリノの兵やベンジャミンを壊しても「復讐」できたとの思いはない。
彼らの後ろには、家族という名の大勢の悲しむ人たちがいたはずだ。
なのに、なんの痛痒も感じなかったのを覚えている。
むしろ、そんなことをしても「フィッツが戻らない」ことが悲しかった。
「人類なんて絶滅すればいいって思うくらい、それでも……命は等価にならない」
フィッツと引き換えにできる相手などいない。
たとえ人を絶滅させることができるとしても、その中にさえフィッツはいない。
キャスの中でだけ、生きている。
それも幻想だと、キャスは知っていた。
今さらな話を持ち出されても、心には響かない。
ならば「フィッツを返せ」と言いたくなる。
ラフロとの取引なんて必要としない、穏やかな日常を返せと言いたかった。
「あんたがしたことのツケは、シャノンに、はらってもらう」
シャノンの尾を握り、3分の1程度のところで折り曲げる。
輪にナイフを入れ、思い切り引いた。
シャノンが叫び、キャスの顔に血が飛び散る。
腕で拭いてから、その血を眺めた。
耳からも血が流れ落ちていることに、改めて気づく。
「中間種の血は、紫じゃないのか。人に近い赤色だ」
「……いいかげんしろよ、この小娘……」
「あんたは、途中でやめた? どこかで手加減しようと思った?」
「そいつは、俺のもんだって言ったはずだぜ?」
「お気に入りなんだね」
「そうだ。格別、気に入りの玩具なんだよ」
ぴくっと、キャスの指が反応した。
続けて、シャノンの尾を切り飛ばす。
シャノンの叫びも、うるさい、と感じた。
かつてないほどに心が硬化し、冷酷さにも無頓着になっている。
「あんたにとっては、みんな、玩具? だったらさ、それこそ自分のお気に入りの玩具だけ大事にとっとくなんてのは、ズルいんじゃないの? 私にも遊ばせてよ、あんたの玩具でさ」
シャノンが、血だらけの体を動かしていた。
顔を上げ、ゼノクルを見ている。
やはり泣いていた。
「ご、ご主人様……に、逃げ、て……」
「なに言ってんだ、シャノン。俺が、ちゃんと連れて帰ってやる」
「ご主人様……まで……殺される……から……」
「痛くねぇわけねぇよな? 痛ぇだろ、シャノン。また俺が治してやるから、心配すんな。耳も尾も、また生える。ま、なくてもかまわねぇけどよ」
はっと、キャスは、小さく笑う。
まるで、自分が悪役のようではないか。
ゼノクルのしたことに比べれば、悪役がどちらなのかは、はっきりしていた。
シャノンにとっては違うようだが、キャスにシャノンの感情は意味がない。
「茶番もいいところだね。悲劇の役者気取りで吐き気がする」
ゼノクルは、まだ両手にシャノンの耳を握っている。
見えているのかは定かではないが、じっと、その手を見つめていた。
それから、ふっと息を吐く。
「つまんねぇことしてくれたもんだぜ」
ゼノクルが、つまらないかどうかなど、どうでもよかった。
人も魔物も、ゼノクルを楽しませるために存在しているわけではないのだ。
もしゼノクルにも「誰かを想う」気持ちがあるのなら、思い知らせてやりたい。
喪った者の嘆きや悲しみを。
「なんで私たちが、あんたを楽しませなきゃいけないの。今まで、散々、楽しんできたんだし、たまには、つまらない思いもしてみれば?」
切った、シャノンの尾を、ぽいっと放り投げる。
もうシャノンの尾は、3分の1ほどしか残っていない。
切り口からは、血があふれていた。
銀色の髪も、血に濡れている。
「後悔するぜ?」
「なにを? もう後悔し過ぎて、することもないくらいだよ」
「そうでもねぇさ」
ゼノクルが、口の端を歪めて嗤う。
キャスと同じだ。
殺しても飽き足りない。
もっと痛めつける方法を持っているとでも言わんばかりだった。
はったりかもしれないし、本当に「なにか」あるのかもしれない。
だが、これ以上のなにがあるのか、と思う。
いくつもの後悔の上に、キャスは立っているのだ。
こうすればよかった、ああすればよかった。
こうしていたら、ああしていたら。
考えても無駄だと知りながら、繰り返し、考えている。
考えずにはいられなかったからだ。
自分の選択が、自分だけのものではないと、初めて知った。
元の世界と、この世界とでは、成り立ちも、人の有り様も違う。
元の世界では、人と深く関わらなくても生きていけた。
周りだって、自分を放っておいてくれたのだ。
心から気にかけてくれていたのは、母親くらいのものだろう。
彼女とて、それでよかった。
満足も不満もなく時間を浪費して生き、死んでいく。
自分の「生」なんて、そんなものだと思っていた。
人は死に際して、未練や後悔を残すという。
だが、彼女には、そのどちらもなかったのだ。
なのに、この世界は、彼女を1人にはしてくれない。
放っておいてもくれない。
簡単だったはずの「選択」には、責任がついて回るようになった。
皇宮から逃げ出してからも、今も、自分の「選択」に誰かしら巻き込んでいる。
そのせいで、後悔ばかりだ。
もう十分というくらい後悔してきた。
「あんたに、なにもせずにいるほうが、後悔する」
「シャノンを虐めてるだけじゃねぇか」
「あんたのお気に入りの玩具だからだよ。壊せば、清々しそうなんだよね」
ゼノクルの口から、笑みが消える。
それだけでも「清々」した。
自分の甘さには、辟易している。
もっと早くシャノンを殺しておけばよかった、と思った。
たとえゼノクルが「お気に入りの玩具」を壊されたとしか思わなかったとしても一矢報いたくらいにはなっていただろう。
目の前で、シャノンが壊れる様を見ていればいい。
「本当に、後悔することになるぞ、小娘」
「そういう私を楽しむのが、あんたの趣味なんじゃないの?」
「俺は、娯楽に手は抜かねぇからな」
「なら、楽しめば?」
ナイフを、シャノンの首元に近づける。
ゼノクルが、チッと舌打ちをした。
眉を寄せ、目をつむっている。
シャノンの「死」を見たくないと思っているのだろうか。
(いつまでも目を閉じてられるわけじゃないのにね)