咎人の有用 1
あれから5日。
キャスが戻ったことは知れ渡っていたが、寝込んでいることになっている。
どういう状況にしたのかはともかく、ザイードは誰も家に入れていない。
まるでガリダに来た当初の頃に戻ったかのようだった。
食事も、ザイードが用意してくれている。
違うのは、寝起きも食事も、自分でしていることだ。
あの頃は、それすらできずにいた。
水もザイードが飲ませてくれていたのを、忘れてはいない。
ザイードとは、一定の距離を持って接している。
ザイードも、そうしているらしかった。
お互いに、踏み込んだ話はせずにいる。
一緒にいる時間は、相変わらず長いが、そのほとんどを持ち帰った資料や装備の確認に充てていた。
今も、ザイードは、資料を「魔物向け」に書き直している。
キャスが読み上げたものもあるが、平易な文章で書かれたメモのようなものは、読めるものもあるそうだ。
キャスのいなかった1ヶ月で、人語を学んだのだと言っていた。
(……ヨアナの処分かぁ……)
キャスが「寝込んでいる」大きな理由だ。
ザイードから、ヨアナがしたことは聞いている。
それは、まだ公にはされていない。
ノノマやシュザも知らないのだという。
悪意があったとは、キャスも思っていなかった。
だが、結果として、最も大きな被害をこうむったのは、ザイードとキャスだ。
ヨアナを裁くか否かを決めなければならない。
それによって、シャノンをどうするかも決まる。
ザイードの話からすれば、シャノンも「意図的」ではなかったことになる。
それが、嘘だと断定する根拠はなかった。
実際、ヨアナは人語を使えるし、シャノンとも接触している。
だいたい、その事実があるから、シャノンを罰するのなら、ヨアナも同等の罰を受けることになるのだ。
悪気はなかった、で、両者ともに無罪とするか。
悪気はなくとも被害を出した、で、両者ともに罰するか。
キャスとしては、シャノンだけを「なんとか」したい。
ザイードを危険に晒したのは確かでも、ヨアナはガリダだ。
同胞を裁かせるのは、どうにも気が進まなかった。
けして、ヨアナが可哀想だといった同情心からではない。
自分は「善人」でも「良心的」な人物でもないと、彼女は思っている。
むしろ、性根が悪い。
正直、ヨアナのことなど、どうでもいいのだ。
罰だって、誰かが決めてくれるのなら、決めてほしいくらいだった。
彼女の心は、今「それどころではない」のだから。
キャスは、木炭を使い、文字を書いているザイードを、ちらっと見る。
ガリダの姿だ。
あれ以来、ザイードは、1度も変化していない。
とくにおかしなことではなかった。
人の国に行くために必要だっただけで、それまでザイードは、変化を拒み続けていたのだ。
ガリダ姿のほうが見慣れてもいる。
(ザイード……わからなかっただろうな……なのに、あそこまで言わせてさ……)
取引を断った理由を、ザイードは理解できなかったはずだ。
だが、それは「種」の問題ではないと、キャスは思う。
誰にも理解できない。
わかっていたのに、心が折れて、内心をザイードに吐露してしまった。
それを後悔している。
ザイードが、わからないなりに、わかろうとしてくれたからだ。
気づいたからこそ、キャスは正気に戻った。
死の先に続く道があるのなら、そこで迷うのを恐れるのなら、自分が手を引いてやる。
そんなことまで言わせている。
自分の弱さを、ザイードに押しつけたのだ。
だから、距離を置いている。
でなければ、また甘えてしまいそうだった。
フィッツの時とは違う。
が、心の中に踏み込ませてしまう。
それは、ザイードが「違う考え」を持っているからだ。
自分の中にはない考えかたや判断に、信頼を置いている。
こうして生きているのだって、ザイードの考えかたにふれた結果だ。
だから、答えを探そうとする時、探しても見つからない時に、頼る。
ザイードから答えをもらいたいと。
(でも……あれは違う。あんなこと、言わせちゃいけなかったんだ……)
自分は、自分とフィッツのことしか考えていない。
なのに、ザイードに縋り、甘えた。
弱くて身勝手な感情に嫌気がさす。
取引の時。
見えたのは、フィッツの血塗れの姿だった。
自分のために犠牲になるのを、フィッツは厭わないのだ。
これから人と戦になるという時に、生き返らせたとしたら、どうなるか。
魔物の国のため、というなら、フィッツがいたほうがいいに決まっている。
戦略とか戦術とかいうものにも長けていただろうし、陣頭指揮をとるのに、あれほど向いている人もいない。
魔物の力だって、効果的に使えたはずだ。
(でもさぁ……そういうふうには思えなかったんだよ……)
大勢の人や魔物、それに自分自身でさえ、どうなろうとかまわない。
取引を前に、キャスは綺麗事の中に身を置けなくなった。
戦の中で、またフィッツが傷つき、死んでいくのは嫌だと思ったのだ。
人は壁を越えようとしている。
その技術を前に進める際、聖魔への対策を考えないはずがない。
壁を壊せば、三竦みのバランスも壊れる。
大きな戦になるのは目に見えていた。
だが、キャスは、もう巻き込まれている。
フィッツを生き返らせれば、必然的に、そんな戦に巻き込むことになるのだ。
また死なせるために生き返らせるのか。
(私が、こんなに寂しいのに……フィッツが寂しくないわけないよね……)
答えを返せない者の考えは、わからない。
けれど、これだけは確かだと言える。
独りで逝くことは、どれほど寂しかっただろう。
一緒にいたいと願っていてくれたからこそ、寂しかったに違いない。
フィッツだって、独りで逝きたくなんてなかったのだ。
それでも「守る」ことをやめなかった。
きっと生き返らせても、同じ。
もちろん、必ずしも死ぬとは限らない。
そんなことは、わかっている。
とはいえ、死なない約束も、やはりできないのだ。
それは、お互いに。
自分が死ねば、フィッツは生きられない。
フィッツが死ねば、今度こそキャスも生きてはいられない。
そうなれば、今のようにキャスの「生」でもって、フィッツを生かすこともできなくなる。
(今は……私が生きてることで……フィッツも生きてられる……)
フィッツを生き返らせていれば、楽しくて嬉しくて幸せな日々をおくれた。
だとしても、喜びが大きければ大きいほど、再び喪った時の反動も大きくなる。
それに耐えることはできない、と思った。
たとえフィッツを生かし続けられなくなるとしても、死を選ぶだろう。
ザイードは、壁を自然の理に反する、と言った。
そして、ザイードにとって「生死」は自然の摂理の中にある。
だが、キャスにとっては違うのだ。
どうしたって、その考えとは相容れない。
(死ぬのと、殺されるのとでは……違うんだよ……戦争はさ、淘汰じゃない……)
戦争は、人の身勝手で持ち込んだ外来種が、在来種を絶滅させるのと似ている。
なるべくしてなった、なんてふうに納得はできない。
そんな戦にフィッツを巻き込み、最悪の事態をまねくなんてごめんだ。
今のまま、優しい思い出と幻想の中で生きているほうがいい。
(こんな状況で、あんな取引……私より性根が悪い……)
壁がなくなっても戦争が起きない世界なら、違った選択ができた。
帝国に交渉の余地があったなら。
もっと人が「善良」であったなら。
ロキティスのように悪意のある者がいなければ。
フィッツとの幸せな日常を選べたのだ。
だが、ティトーヴァがザイードにしたことを思えば、そんなのはそれこそ幻想に過ぎない。
望むべくもなかった。
自分の言葉がとどかなかったのを、彼女は思い知っている。
(本当に、私は……フィッツと自分のことしか考えてないね……)
必ずしも死ぬと決まってはいない。
けれど、不確かな未来に、フィッツの命を賭けたくもない。
誰よりもフィッツを信じていた。
いついかなる時も、フィッツは「絶対の味方」で在り続ける。
だから、取引には応じられなかったのだ。
フィッツに「それならしかたありませんね」と言ってもらえるような意味のある死を、キャスは、ずっと考えている。
生きるも死ぬも一緒が良かったのに、独り遺されてしまったので。
フィッツに繰り返し「死」を与えるくらいなら、自分が追いつけばいい。
それが、彼女の結論だった。