幻想にしか生はなし 4
そうか、と思う。
キャスの心を、理解できない自分がいた。
だが、キャスが、まだ「死」を受け入れていないことは、わかる。
死を受け入れることができていないから、取り戻したい「命」にも、手を伸ばせなかったのだ。
その命を、また喪うかもしれない。
取り戻した「生」が「死」に変わることの恐ろしさに怯えている。
そのせいで、1歩も動けなくなっているのだ。
前も後ろもない。
同じ場所に、キャスは独りで立ち止まっている。
どこまでいっても、独りぼっち。
進むもなにも、道すらないのだ、きっと。
それほどに怯えている。
ザイードは、やはり魔物だった。
死を、そこまで恐れてはいない。
もちろん、大事な相手を喪えば、嘆き悲しむだろう。
だが、自然の理として、受け入れる。
目覚めたばかりの頃のキャスに言った通りだ。
悲しみが薄れないのなら、いつまでも悲しみ続ける。
そして、忘れまいと、記憶にしがみつく。
相手が「もういない」とわかっているからだ。
キャスも、そうしているに違いない。
けれど、ザイードとは、決定的に違うことがある。
キャスは、それしか自らの生きる理由を持っていないのだ。
相手の死を受け入れてはおらず、どこか生きているかのごとく扱っている。
けして「生きる支え」とはしていない。
以前から感じていたが、キャスの命は、キャスのものではなくなっている。
キャスは、自分自身のために生きているのではない。
その命は「フィッツ」という者の命と同義。
キャスが生きているのは「フィッツ」を生かすために過ぎない。
(もし、次に、その者が死ぬるようなことがあれば……)
今でさえ、キャスは幻想の中で生きているようなものなのだ。
死を受け入れきれず、現実を遠ざけている。
なのに、フィッツを生き返らせてしまえば、現実と向き合わなければならない。
その中で同じことが繰り返されたら、今度こそキャスの現実は粉々に砕け散ってしまう。
幻想でさえ、彼女の心を守ることはできなくなるに違いない。
キャスは、自らの死を恐れてはいなかった。
再び訪れるかもしれない、フィッツの「死」を恐れている。
なにより、フィッツの死によって「自分が生かされてしまう」ことを。
「キャスよ。もし、次に機会が訪れた際には、取引に応じるがよい」
涙のこぼれる瞳で、キャスがザイードを見つめていた。
その華奢な体を、強く抱きしめたくなる。
キャスが弱いことを恥じているとしても、その心をこそ支えたかった。
今、目の前にいるのは、生きているキャスと自分だと、そう言いたかったのだ。
本当には。
だが、キャスの幻想を壊すことはできない。
その中でしか、キャスは生きられずにいる。
自然の理で生きる魔物の自分では、踏み込むことのできない心の領域。
それほどまでの嘆きを、ザイードは、どうしても理解しきれずにいた。
魔物は、なるべくしてなる、という摂理の中で生きているから。
死も例外ではない。
嘆きや悲しみを、心の支えに転換することはあっても、キャスのように、生きる意味そのものにしたりはしないのだ。
「そなたは、その者を再び喪い、独り遺されるのが恐ろしいのであろう?」
「……フィッツがいないのが嫌……いないって……思って、ないし……」
小さな声だった。
ザイードの胸も苦しくなる。
いっそ大声で泣いてほしかった。
なのに、やはりキャスは、とても静かに泣いている。
助けた頃と変わらない姿に、ザイードは自分の想いを押し潰した。
「案ずるな。次に、その者が死ぬることがあれば、余が、そなたを殺してやろう。さすれば、ともに逝けるではないか。恐れることはない」
ぱたぱたっと、ひと際、大きな涙がこぼれて床を濡らす。
愛しい相手を殺すなど、口にしたくもない言葉だった。
それでも、ザイードは、キャスの心を支え、守りたいと思う。
独りで取り遺されるのが怖いのなら、取り遺されないようにすると約束すれば、少しは安心できるのではないだろうか。
少しでも、キャスの心に寄り添いたかった。
なのに、できないことも知っていた。
繋いだ手を思い出す。
ぬくもりに安心した。
キャスが「ここにいる」と思えたからだ。
けれど、キャスが手を繋ぎたい者は、ほかにいる。
というより、今も繋いでいる気持ちでいるのだ。
その手を放すことができずに、必死で縋りついている。
ザイードの手は「仮初」でしかなかった。
本当には、1度も繋がれたことなどなかった。
それでも、ザイードは言う。
せめて、自分がここにいるのだと、気づいてほしかったのだ。
「道に迷うかもしれぬと、その者とはぐれるかもしれぬと恐れるのなれば、余が、介添えをしてやろう。なに、心配はいらぬ。夜目がきくのでな。そなたの会いたき者を見つけるなぞ造作もない」
わずかに躊躇ったのち、ザイードは手を伸ばし、キャスの頭を撫でる。
この程度が、自分には、ちょうどいい。
これ以上、キャスの心に負荷をかけたくはなかった。
「ゆえに、キャス。恐れずともよいのだ。巡り合わせが来たら、次こそ、その者を生かす取引をいたせ」
「で、でも……壁を壊したら……人が大勢……」
「そうさな。しかし、考えてみれば、壁も自然の理には反するものであったのだ。なくばないなりに、やっていくのが道理ぞ。あれが人の手によって造られたものと知れば、皆も納得しよう。むろん、全員とは言わぬ。納得せぬものもおろうがな」
最期まで抗うつもりはある。
だとしても、人に駆逐されるのであれば、それも自然の摂理なのだ。
生き残れないなら「淘汰」される。
魔物は、そのように考える生き物だった。
キャスが言った「ないよりはあったほうがいい」との言葉に納得しきれずにいたのは、そのためだ。
人の造った「機械」によって守られていることが、自然と言えるのか。
老体たちも心のどこかで、そう感じていたから隠してきたのではないのか。
壁が「機械」によるものだと知れば、多くの魔物が、ザイードと同じく、釈然としないものを感じるに違いない。
老体たちのように、人に蹂躙された経験がないものは、なおさら強く反発する。
実際の凄惨さを知らないからだと、老体たちは言うだろうけれども。
(それでも、我らの理は、自然とともにあらねばならぬ……生も死も……)
ザイードは、ひどく寂しかった。
自分が魔物であることが、これほど寂しいと感じたことはない。
どんなに望んでも、魔物は、人の心に寄り添えないのだ。
己の心と折り合いをつけられずにいるキャスを理解できない自分が、たまらなく寂しかった。
『人になろうとしても、魔物は魔物にござりますれば』
ラシッドの言葉を思い出す。
その通りだ、と思った。
キャスを愛しく想えば想うほど、自分は魔物なのだと実感する。
人とは違う生き物だ。
(我らのためではないと、そなたは言うたが……であれば、なぜ再び喪う心配なぞせねばならぬ……その者と逃げればよいではないか……人と戦うことが頭にあるゆえ、その者を喪うことを恐れておるのであろう? ともに戦うと……さように、そなたは思うておるのだ……それだけでよい……それだけでよいではないか……)
魔物の国を見捨てて逃げる。
その選択肢があれば「フィッツの死」など考えなかっただろう。
どんな犠牲をはらってもいいとしながらも、キャスは、その犠牲の中に、魔物を入れることができなかった。
だから、戦を前に、愛しい者を生き返らせる決断もできなかったのだ。
相手がキャスを守り、死んでしまうかもしれないから。
それでまた「自分だけ」が遺されるかもしれないから。
(そなたは……真に、己のためには生きられぬのだな……)
ザイードは、そんなキャスが悲しくも愛おしかった。
人の理は理解できなくても「フィッツ」という者が、キャスを守るために、命を懸けた理由はわかる。
同じ気持ちを、ザイードもいだいていた。
愛しい者に、ただ生きていてほしい。
それだけなのだ。
キャスに「守ろうとしないでくれ」と言われたが、ザイードは「できない」と、答えている。
愛しい者を守ろうとするのは、いわば本能に近い。
するなと言われて、できるようなものではなかった。
「ありがとう、ザイード……でも、自分で選んだことだから……後悔も、私だけのものでいいんだ」
キャスが手で涙をぬぐう。
紫紅の瞳にあった揺らぎはおさまっていた。
こうやって、キャスは、また独りぼっちに身を置く。
現実に戻って来ようとはせず、幻想の中に引きこもってしまうのだ。
「今はさ、戦のことだけ考えようよ」
「そうだの」
そう答えるしかなかった。
仮初の手では、キャスを現実に連れ戻すことはできない。
「余は、そなたを守る」
「ザイード……」
「これ、最後まで聞かぬか」
苦しい胸の裡を悟らせたくなくて、あえて厳しい表情を浮かべる。
自分にできることは、あまりない。
せいぜい嘘をつくことくらいだ。
「我らは、そなたの力を必要としておる。ゆえに、ある程度の戦果があるまでは、そなたに生きておってもらわねば困るのだ。よいか、キャス。仮に、余が戦で命を落とすことがあれど、それは、そなたを守って死ぬのではない。魔物の国を、我が同胞を守って死ぬのだ。心得違いをするでないぞ」
言ってから、ザイードは変化を解く。
これが自分なのだ。
人にはなれない。
「余が死んだあとも戦がおさまっておらねば、そなたは戦わねばならぬ。よいな」