幻想にしか生はなし 2
胸の奥が、しくしくする。
肺の病にでも罹ったみたいに、しくしくするのだ。
胸のあたりを、拳で、とんとんと叩きたくなるのを我慢する。
これは病ではない。
貸し借りなし。
キャスは、あくまでも「線引き」をしようとする。
命を助けたことですら、ザイードのためではない、と示していた。
親しい仲にある「お互いさま」と「貸し借りなし」とでは、まるで感覚が違う。
自分の想いを自覚したがために、なおさら強く意識した。
そして、キャスとの距離に、いたたまれなくなる。
ザイードは、これまで誰かに想いを寄せたことがない。
自然に、そういう心持ちになるのだろうと思ってきた。
周りから、とやかく言われても、いっこう気にせずにきたのだ。
番とは、無理に探すものではない、というのが、ザイードの信条だった。
が、しかし。
まさか、キャスが、その相手になるなんて予想外。
ザイード自身、自覚はしていても、自分の心を持て余している。
なにぶん経験がないことなので。
「えっと……」
キャスの声に、正気に戻る。
自分から問いかけておきながら、上の空になっていた。
ちゃんと聞いていないことで、不興を買ったのではないか。
これまで気にしていなかった、キャスの気持ちや気分も気にかかる。
「聖魔は、人の体を借りて……子を成すらしいです……」
「……そうであったか。さようなことができる生き物であったのだな」
なんだか落ち着かなくなり、口調が、たどたどしくならないようにすることで、精一杯だ。
さっき抱きしめた時の腕の感触が、まだ残っている。
細くて華奢な体は、強く力を入れると壊してしまいそうな気がして怖かった。
(そうではない……今は、キャスの話に集中せねば……)
感情は、心の表れであり、ザイードにはキャスに対する想いがある。
好意という以上の気持ちだ。
だが、感情は本能にも結び付いている。
好きな相手を目の前に、うっかりすると理性が追いやられそうだった。
つい、キャスの手を握りたいと思う。
できれば抱きしめたいと考える。
そして、そのぬくもりを確かめたくなる。
本能とは、これほどのものか。
求愛を断られたものたちが、どうやって、この苦痛を耐え忍んでいるのか想像もつかなかった。
ザイードが思っていたよりも、遥かに難しいことには違いない。
感情を抑制するのに長けている自分でさえ「こう」なのだから。
とはいえ、いつまでも本能に揺さぶられていてはいけないと、自分を叱咤する。
守りたい者を、自分が傷つけることになりかねないからだ。
それでは、あの「皇帝」と同じではないか。
キャスの心には、歴然と「想い人」がいる。
「して、その父という聖者と、どのような会話を交わした? そなたが帰って来られたのは、取引をしたからであろう」
「ええ……まぁ……」
キャスが言葉を濁した。
視線も、まっすぐに合わせようとしない。
これまでのザイードなら、キャスの話したくないことを、あえて訊こうとはしなかっただろう。
だが、もうそうはできなかった。
どうしても気になる。
キャスの身に良くないことが起きているのではと、不安なのだ。
話したがらないのは、キャスにとって「悪いこと」だからではないか、と思う。
聖者の能力を、ザイードも把握していない。
外見的に変わりがなくとも、命を削られているという可能性もあった。
「どのような取引をしたのか、教えてはくれぬか? 余は……そなたの身になにが起きたのか……これから起きることがあるのか、知っておかねば……」
我ながら姑息だとの思いに、言葉が止まる。
ザイードは、ガリダの「長」として知りたいのではない。
が、キャスには、そう思わせようとしていた。
自分の心を悟られないためだ。
「……いや、無理に話す必要はない。余の身勝手であった。すまぬな」
感情に振り回されていることが情けなかった。
そのせいで、キャスを少しも思いやれていない。
好きな相手だからこそ、気遣うべきなのに、自分のことばかりになっている。
少し頭を冷やしたほうがいいかもしれないと、立ち上がりかけた。
「私が喪った人を蘇らせてくれると言われました」
上げかけた腰を落とし、座り直す。
ザイードの心は複雑だ。
そして、当然の疑問がわきあがっている。
なぜ、今、キャスは「1人」なのか。
キャスの嘆きや悲しみを、ザイードは誰よりも知っていた。
言葉も発せず、泣く時ですら声も出せないほどだったのだ。
あれほどの想いをいだいていたのだから、その「取引」は、どんなにか魅力的であったことか。
想像に容易い。
魔物であれば「死したものを戻すなど自然の理に反する」と考える。
だが、キャスは魔物の摂理の中にはいない。
ザイードの命を救うためにだって取引をしているくらいなのだ。
どんな犠牲をはらおうと、取引の成立を望んでも不思議ではなかった。
なのに。
「なぜ……取引を断ったのだ……?」
キャスは断った。
だから、独りで、ここにいる。
取り戻したくてたまらなかったはずなのに。
「我らのためか? 取引の条件が、我らの害になることであったゆえか……?」
自然の摂理の中、魔物は「取引」を笑い飛ばす。
ただ「取引」が、なにかとなにかを天秤にかけるものだとは知っていた。
ならば、天秤の片方に乗せられたのは、なんだったのか。
キャスが求めてやまない相手を諦めるほどの。
「取引の条件にはなってました……でも、断った理由は……この国のためっていうのとは、違うんです。だから、気にしないでください」
「どのような条件であったのだ?」
「壁を壊すことでした。それについては、話さないきゃいけないこともあるんですけどね。壁そのものに関わる問題というか……」
ザイードは、壁のことを思い出す。
自分の持つ最大の魔力を使って穴を空けたものの、すぐに塞がってしまった。
簡単に壊せるようなものではない。
が、聖者が「条件」にしたのには理由がある。
できるとの見込みがなければ、キャスだって取引に応じるはずがないのだ。
とはいえ、キャスは魔力を使ったこともなく、ザイードほどの大きさもない。
ザイードでも、穴を空けるだけで精一杯だったのに、キャスに同等以上のことができるとは思えなかった。
しかも、壊すとなれば、もっと大きな力が必要となる。
(キャスの魔力は、我らのものとは異なる。だが、聖者の力が混じっておっても、壁を壊すことはできぬはず)
それができるのなら、聖魔が、とっくに壁を壊していた。
できないから、締め出されているのだ。
ならば、同質の力であるキャスの力でも、結果は同じ。
壁を壊すことはできない。
「ほかの長に話すかどうかは、ザイードが決めてください」
「つまり……ガリダの地に、壁を壊せる理由があるのだな」
「壁は、人の技術によって造られたものですが、その機械が、ガリダにあります。その機械を使えなくすれば、壁は壊れる、ということなんですよ」
「なんと……さような話は聞いたことが……」
言いかけて、記憶の端に引っ掛かりを覚える。
ここ最近、読み漁っていた書物の中に、手がかりがあった。
ガリダでは「言い伝え」になっている、さしてめずらしくもない話だ。
「暗がりの洞、か」
老体たちの住む湿地帯の奥にある洞が、そう呼ばれている。
そこは、入ると出て来られないとか、魔物を食う異種がいるとか、近づくだけで災いが起きるなどと言われていた。
小さい頃から聞かされるため、誰も近づこうとはしない。
(老体の中には知るものもおるのかもしれぬ。だが、外に漏れぬよう黙っておったのだ。その上で、誰も近づかぬよう言い伝えを残したのであろう)
壁は、魔物にとっては、自分たちを守ってくれるものだ。
失えば、また人に蹂躙されると恐れていた。
壁が、人にとっても「守ってくれるもの」であるとは考えていない。
だから、厳重に隠してきたのだろう。
ほとんどのガリダは、そんな機械の存在など知らずに暮らしている。
長であるザイードでさえ知らずにいた。
「人が壁を越える技術を作ったとしても、ないよりはあったほうがいいと思います。装備も無制限には作れないので、壁を越えられる人数は制限されますからね」
「……それが妥当であろうな……」
ザイードはうなずきながらも、釈然としないものを感じている。
キャスからの言われて作った各種族の記帳により、戦えるものの数は出ていた。
コルコを除き、約3万。
コルコの記帳が届いていないので不明だが、数に加えたとしても、4万にも満たないだろう。
その数で、人と渡り合わなければならないのだ。
ザイードは、少しだが人の国を知った。
小さいと聞いていたジュポナだったが、多くの家が建ち並んでいたのを記憶している。
帝国全土であれば、もっと大勢の人間がいると、容易に想像できた。
(この戦……長引きそうだの)
第1陣は退けられても、繰り返し、人はやってくる。
考えれば、キャスの言うことはもっともなのだが、どこか納得できずにいると、ザイードは自覚していた。