極限の選択 2
壁を壊す。
その言葉が、頭をぐるぐると回っていた。
言われていることを理解したくない、と心が逃げている。
ほかの取引に変えてもらえるよう縋りつく、ことも頭の隅で考えていた。
いろんな思いが迷走している。
「……む、無理だよ……」
鏡のような湖面には、フィッツの姿をしたティニカが見えていた。
取引さえすれば、取り戻せる。
自分の傍に、フィッツがいてくれる毎日が戻ってくるのだ。
元の世界も含めて、一緒にいたいと思えたのは、フィッツだけだった。
「だって……私に、そんな力ないし……見てたよね? ザイードでも、穴を空けるので精一杯で……空いた穴だって、すぐ塞がったじゃん! あんなの、どうやって壊せって言うわけ?!」
「私は、できない取引はしないよ」
「で、でも……壁は、ラーザの女王が作ったものだから……私、技術とか機械とか全然……わからない……」
なんとか別の条件に変えてもらえないだろうか。
その一心で、キャスは「できない」理由を並べたてている。
無駄だとわかっていても、足搔かずにはいられなかったのだ。
壁が壊れたら、この世界がどうなるのか。
聖魔は喜ぶだろうけれど、人や魔物には大惨事となる。
自分の指で、引き金を引きたい者などいるわけがない。
「時間がないのは、私ではないのじゃないかな? 私は、どちらでもかまわない。きみが、どちらを選ぶか。それだけのことだね」
どちらでもいい。
ラフロに「取引」は、重要ではないのだ。
選択をした結果に、関心を持っている。
選んだあと、キャスがどうするのか、どうなるのかを知りたがっている。
「実際、どうやるのか教えてもらえる? できることなのかは、自分で判断する」
「かまわないとも」
パッと、湖面に映る光景が変わった。
なにか機械が並んでいる。
見たことはなくても、わかった。
ラーザの技術によって作られた「壁」を発生させるための装置に違いない。
「フェリシアは、なぜあんな危険なものを持っていたのだろうね」
ラフロの話は、ぽんぽんと飛ぶ。
とはいえ、その実、話題は変わっていないのだ。
少なくとも、ラフロは「同じ話」をしているつもりでいる。
直線で話してくれないので、分かりにくいのだが、それはともかく。
「この機械……これは、魔物の国にあるんだ……」
「壁を作ったラーザの女王、彼女は、とても素晴らしかった」
壁は、人ではないものを感知する装置だ。
細かな条件づけがあるように考えていたが、本当は、とてもシンプルだった。
「魔物は人じゃない。違いは魔力があること。つまり、人の持ってない力に、壁は作用してる。だから、魔物も聖魔も関係なく弾かれる……血の判定を補完するためのもの? 聖魔が体を“借りて”たら、血じゃ判断できないから?」
無自覚に、独り言をつぶやく。
その装置は「魔力」を感知しているが、魔力だと感知しているのではない。
人にはない力として認識しているのだろう。
魔物の「魔力」が、その判断材料に使われている。
中間種が引っ掛からず、純血種だけが引っ掛かる理由も、そこにありそうだ。
「たぶん、量だね。中間種は魔力が少ないから、人ではない、とは判断されない」
「壁ができる前、聖魔は人の体を借りて、好き勝手ができたのだけれどねえ」
「体の関係を持つ取引にしたのも、好き勝手できなかったせい?」
「そうしなければ、生き戻る力を与えられなかったからだよ」
人の体を「借りる」ことはできても、壁の中で魔力を使うことはできない。
使えば「人ではない」ものがいると判定され、壁の外に弾き出されるのだろう。
そのための「補完機能」なのだから。
「だけど、機械はメンテナンスが必要だものね。フェリシアっていうか、ラーザの女王が、壁の効力を失わせる“宝物”を持ってたのは、人でも壁を越えられるようにするため。1人にしか作用しないのは、メンテナンスできる女王しか壁の外に出る必要がなかったから」
「メンテナンスがなにかはさておき、機械が壊れるというのは有り得る話だろう?」
人の国に、この機械があるのなら、壁を越える「宝物」なんて必要なかった。
そして、3つの種の中で、唯一、損をする聖魔の国の中に作れるはずもない。
残された国はひとつ。
「きみが、そこに帰るのに、不都合はあるかい?」
湖面が揺らぐ。
映像が「引き」に変わっていた。
装置だけではなく、周囲も見える。
おかげで「どこにある」のかも、わかってしまった。
「あとは選ぶだけだよ、私の娘」
また映像が変わる。
湖面には、薄金色の髪をした青年が映し出されていた。
その頬を、キャスは手で撫でる。
冷たくて硬い感触しかない。
「なにを犠牲にしても取り戻したい。それが愛というものじゃないかい?」
「そうだね……」
フィッツを喪った時の光景を、まざまざと思い出していた。
自分をかかえて走っていたフィッツ。
足を撃たれたと言いながらも、淡々としていたフィッツ。
命を奪われることを、フィッツは知っていた。
なのに、微笑んでくれて、名を呼んでくれたのだ。
ヴェスキルでなくてもいい、と言ってくれた。
「私は、ラーザの女王じゃないしさ……責任なんて負えないよ……」
壁を作ったラーザの女王も、フェリシアも偉大だったのは間違いない。
技術でおかした罪を、技術で償った。
人と魔物の両方を救い、世界を安定に導いたのだ。
フェリシアも己の身を犠牲に、ヴァルキアス帝国の平和を維持した。
けれど。
キャスは、彼女らとは違う。
自分を女王だと思ったことはないし、偉大な人物になる気もない。
フィッツがいなければ生きる意味を見出せなくなるほど、この世界との繋がりは薄かった。
この世界は、元の世界よりも、ずっとずっと遠くにある。
フィッツと過ごした日々だけが、彼女のすべてだ。
呼べば必ず、返事が聞こえる。
それが、どれほど幸せなことだったか。
失って初めてわかる、なんていう定石通りの言葉ほど、生易しくはなかった。
『あのさぁ、フィッツ』
『はい、姫様』
今度は、名で呼んでくれるだろうか、と思う。
毎日、毎日、繰り返し、繰り返し、呼んでくれるはずだ。
フィッツも言っていた「幸せな毎日」が取り戻せるのなら、とも思った。
彼女の命は、フィッツとともにある。
だから。
キャスは、鏡のような湖面に立ち、ラフロに顔を向けた。
決断はできている。
後悔するのは、わかりきっていた。
それでも、キャスは決めたのだ。
「あんたと取引なんてしない」
ラフロが、少しだけ表情を変えた。
微笑みが口元からなくなっている。
驚いているのかもしれない。
「魔物に気を遣っているのかな?」
「そうじゃないよ。別に理由は、なんでもいいよね? 取引しないっていうのが、私の選択。答えを変える気もないしさ」
ラフロは、キャスに「関心」を持っているのだ。
取引しないこと自体はともかく、その理由を知りたいと思っているに違いない。
わずかに落ち着かなげに、イスの背もたれを指で軽く叩いている。
聖者の摂理は「関心」なのだ。
たとえば「危険なものが入っているので開けるな」と張り紙のされている箱を、聖者は開けずにいられない。
危険なものが入っているかどうかは、開けてみなければわからないからだ。
本当に危険なものであるかを判断するために、必ず開ける。
ささやかな「関心」でも、聖者の弱味に成り得るのだ。
「ねえ、私と取引しようか」
「取引?」
「いいじゃん。そっちからしか取引できないってことはないんじゃない? あんたからの取引は決裂してるしね」
ラフロは、ゆっくりとした動きでイスに座る。
キャスも、それを真似するように、のんびりとイスに座った。
向き合うと、ラフロが、キャスに視線を投げてくる。
表情を読もうとしているのだ。
(読めるはずないよ。あんたには、絶対に、わからないことだから)
わかりっこない、と思う。
仮に、説明をしたとしても、理解できるかどうか、わからない。
おそらく理解できないと推測はしている。
なので、取引すると面倒なことになるのも、予測していた。
この先も、ラフロにまとわりつかれる可能性が高い。
(フィッツだったら、可能性としては96%くらいです、とか言うかな……)
淡々と、真面目な顔で実数を言うフィッツを思い出して、小さく笑う。
ほかの人が、どう思うかは知らない。
キャス自身も、この想いを正しくは表現できずにいた。
弱くて弱くて、嫌になるくらい弱い心が、フィッツへの「愛」を紡ぐ。
人の国を出てからずっと、思い出さなかった日はない。
皇宮での暮らし、短かったけれどいろんなことがあった逃亡生活。
そして、ティニカの隠れ家での平穏な日常。
そのどれもが楽しくて嬉しくて幸せで。
悲しかった。
「いいだろう。きみは、どんな取引を私と望む?」
ラフロは聖者の摂理に抗えなかったらしい。
穏やかな口調に変わりはないが、口元に笑みは浮かべずにいる。
今度は、彼女が口元に小さな笑みを浮かべた。
それから、どうせわからないだろうけど、と心の中で付け足しながら、言う。
「私を無事に魔物の国に帰してくれるなら、取引決裂の理由を話してあげるよ」