混沌の過去 3
ザイードは、空を見上げている。
真っ黒な空だ。
暗いからではなく、なにも見えない。
「キャス……」
キャスの姿は、どこにもなかった。
自分の力が、およばなかったのだ。
絶対に守ると決めていたのに、守りきれなかった。
人には警戒していたが、聖魔を見縊り過ぎていたせいだと自覚している。
魔物は、聖魔を脅威ではないと認識している。
煩わしくはあっても、害があるとまでは言えなかったからだ。
人のほうが遥かに脅威だったこともある。
どちらかと言えは、魔力を持つ聖魔は「魔物寄り」だと考えていた。
「人にとって聖魔は脅威だと、キャスは言うておったに……余が、あやつらを甘う見ておったがゆえ……」
キャスを連れ去られてしまったと、ザイードは肩を落としてうつむく。
聖魔の国は、どこにあるのかわからないのだ。
魔物や人の国は、特定の「領地」の上にある。
地面に縛られないファニですら「領域」を必要としていた。
帰属する場所が必要なのだ。
だが、聖魔の国の場所は、明らかになっていない。
興味もなかったので、調べたことがなかった。
どこからともなくやってきて、自分たちを煩わせる存在。
それが魔物の、聖魔に対する認識だ。
「しかも、あのように大きな魔力を持つものがおったとはな」
魔物は、魔力を「色」や「揺らぎ」、そして「匂い」でとらえる。
種族や力の大きさによって、色や揺らぎかたが違うのだ。
魔物は、たいてい種族を象徴するような色で出ることが多い。
ガリダならば緑、コルコなら赤といった具合になる。
基本的には、聖魔も同じだった。
魔人は黒、聖者は白。
力が強ければ、黒はいっそう黒くなり、白は限りなく透明に近くなる。
キャスを連れ去ったのは、聖者だ。
魔力があるのは感じたものの、まるで魔力を持たないもののように、色も揺らぎも、匂いさえなかった。
ザイードも、日頃は、自分の力を抑制している。
すべての力を解放はしていない。
だから、わかるのだ。
抑制もしていないのに、魔力を見せずにいられるほどの力の持ち主だと。
魔物の国に、魔力を振り回しに来る聖者たちとは「格」が違う。
ザイードは、体の前で両手を開いてみた。
腕にも手のひらにも、傷はない。
魔力が、ほとんど残っていないのはともかく、体は「元通り」になっている。
あの聖者の力によるものだとは、推測しなくても、わかった。
その見返りに、キャスは連れて行かれたのだ。
ザイードの意図したものではなかったとしても、守るべき相手を差し出し、己の命を繋いだのだと思った。
取り返しに行きたくても、場所もわからないのでは、どうすることもできない。
自分の無力さに、後悔が募る。
わかりたくもなかったが、人の国の「皇帝」の必死さが理解できた。
奪われたと思っているから、取り戻そうとする。
今のザイードだって、キャスを取り戻したいと思っていた。
同時に、キャスの無事を願う。
それしか、できないからだ。
「あの皇帝とやらは……余を正面から撃たず、背を狙わせておった」
正面から撃つことで、キャスを傷つけるのを恐れたのだろう。
魔物に対しては非情でも、キャスへの想いは強いらしい。
ふと、皇帝は、キャスが中間種であることを知っているのだろうか、と思った。
「キャスは……聖者と人との中間種……あの聖者はキャスの身内か……?」
聖魔に「身内」などという意識はないはずだ。
だとしても、紫紺の髪と紫紅の瞳は、キャスと同じものだった。
なんらかの繋がりがあるのは間違いない。
ただ、それを「アテ」にして、キャスの無事を信じることはできずにいる。
聖魔には、同胞意識がないからだ。
もちろん、聖魔がどういうものかを、深く知っているわけではないので、絶対にないとは言いきれない。
だが、少なくとも、魔物の周りでウロチョロしていた聖魔たちは、ほかの聖魔がどうなろうと知らん顔をしていた。
煩わしさから火をつけても、助けるそぶりがなかったのは確かだ。
「ザイード!」
「遅かったではないか」
「これでも、最速で来たんだぞ。予定より早かったし……って、あれ?」
ダイスが、きょろきょろしている。
ザイードの「連絡」をナニャが受け取り、ダイスに伝えてから、およそ4時間。
確かに、ダイスは「最速」で来た。
わかっているのに、苛々を抑えきれずにいる。
「キャスは、どこだ?」
「連れ去られた」
「はあ?! そりゃあ、どういうことだ、ザイード!! お前がついていながら、人に掻っ攫われたってのか!」
「人ではない。聖者だ」
「はっ? 聖者っ? 聖者が、なんでキャスを攫うんだよ?!」
「余にも、わからぬ」
ダイスに、ぎゃんぎゃんと責めたてられ、ますます苛々していた。
ザイードも、聖者がキャスを連れ去った理由が思いつけずにいる。
いくら噛みつかれても、わからないものはわからないのだ。
ザイード自身、どうすることもできなかった自分を責めていた。
言われなくても。
「ふざけんじゃねぇぞ! なんのために、お前が一緒に……っ……」
「わかっておるわっ!!」
バーンッと、尾で地面を叩く。
金色の瞳孔は、これ以上ないほど狭まっていた。
ダイスにではなく、自分に腹を立てている。
「キャスは……余を……余を助けるために、聖者と取引をしたのだ……」
「取引って、あの意味わかんねぇやつか……?」
魔物にとっては、意味不明な取引。
裕福にしてやるとか、好いた相手を振り向かせてやるだとか。
そういうことばかりを「囁いて」くる。
だが、魔物は、その一切に応じたことはない。
なぜなら、魔物は自然の摂理の中で生きているからだ。
なるべくして、なる。
裕福になるのも、好いた相手を振り向かせるのも、自らの行動によって実現するものであり、誰かの介入によって成されるものではない。
仮に、それが「死」であったとしても、だ。
「……キャスは、余の命を助けることと引き換えに、聖者と取引をしたのだ」
「なんだって、そんな……死ぬ時は死ぬ。死なねぇ時は死なねぇってだけだろ」
「我らは、そう考える。だが、キャスは我らとは理が違う」
魔物は、それが番であれ、子であれ、死を受け入れる。
ダイスの言う通り、死ぬ時は死ぬのだ。
まだ「その時ではない」のなら、命を落とすことはない。
生も死も、訪れるべくして訪れるものに過ぎなかった。
仮に、自分が死んでいたとしても、そこで果てる命だった、とザイードは思う。
ダイスも、ほかの魔物たちも同じだ。
悲しみはするし、人を憎むことはあっても、死を否定することはない。
「そうか……キャスは、長いこと人として生きてきたからな……お前が死ぬのを、受け入れられなかったわけか」
「聖魔は、人の心につけ込むのだと、キャスは言うておった。人の心は脆弱ゆえ、精神に干渉を受けてしまうそうだ」
ひょこんと、ダイスの耳が尖る。
尾で、軽く背中を叩かれた。
「それなら、大丈夫だ。キャスの心は、そんなに弱かねぇだろ。簡単に操られたりするもんかよ」
「そうだの」
「なぁ、ザイード、オレらは、オレにできることをしようぜ」
「そうよな」
空を見上げ、大きく息を吐き出す。
ここにいても、キャスは戻らない。
連れ戻しに行くこともできない。
「ガリダに帰り、キャスを待つ。それと、もうひとつ」
ザイードは、ひょいっとダイスの背に飛び乗る。
途端、ダイスが駆け出した。
ここに来るのにも「最速」だったのだろうに、ダイスは疲れを見せずにいる。
風が猛烈な勢いで、ザイードの体を揺さぶっていた。
「あのものは、どうしておる?」
「大人しくしてるぜ? ちゃんと飯も食わせてる」
「拘束はしておらぬのだな?」
「見張りはつけてるさ。けど、あいつ、なんもしてねぇぞ? 家ン中で飯食って、ぼーっとしてるだけだ。魔力を使ってる痕跡もねぇしな」
これが、危険なのだ。
魔物は、なんでも「魔力」で物事を測ろうとする。
その魔力が危険かどうか、自分に敵意のある魔力かどうか。
そして、その判断によっては、相手を「脅威」だと見なさない。
いや、壁ができて以降「見なせなくなっている」のだ。
「あれは危険なものぞ。魔力で判断してはならぬのだ。そもそもは、我らの魔力が効かぬゆえ、我らは人を脅威としておったのではないか」
「あいつ……魔力じゃねぇもんで、なにかしてたのかよ」
「人の国と連絡をとっておったようだ」
「くそっ! 騙されたぜ! ビクビクしてるだけの奴だと思ってたのに!」
もとより、魔物を攻撃するために送り込まれたのではなかったのだろう。
シャノンの役目は「繋ぎ」だった。
魔物たちがなにをしようとしているのかを、伝達する存在。
目立つ動きはせず、怯えている仕草で、周囲の警戒を解くだけで良かったのだ。
「帰り次第、あのものを拘束いたせ。これ以上、野放しにして、我らの情報を垂れ流させるわけにはゆかぬ。場合によっては……」
「わかってるって。キャスが帰って来る場所は、死守しねぇとな」
キャスは帰る。
それを信じ、自分は国を守るのだ。
魔物の国は、キャスが帰って来る場所なのだから。