目まぐるしさに身を任せ 3
壁の手前に到着した時には、辺りは夜の黒につつまれていた。
だが、ザイードの視界は、逆に良くなっている。
ガリダもルーポも、夜目のきく種族なのだ。
明るい中で周りが暗く見えるより、ずっと鮮明に見える。
「ザイード、もし壁が越えられなかったら、私が1人で行きますね」
「しかし……」
「せっかく、ここまで来たんです。無駄足になるのは避けたいんですよ。準備にも時間がかかることですし」
しかたなく、ザイードはうなずいた。
1人で行かせたくはないが、キャスの言うことも、もっともだと思ったのだ。
だいたい、止めてもキャスは行くのだろうし。
壁は、もう目前にある。
中は見えないものの、薄曇りの空に広がる灰色の雲のようなものが揺らいでいた。
できた当初から魔物たちは「壁」と呼んでいたが、石や土でできた本物の「壁」とは違うのだ。
人の国と外とを「隔てるもの」という意味で使っている。
「では、まいろう」
ザイードは、自然にキャスの手を取った。
肩越しにダイスを振り返る。
「我らの姿が消えたら、帰っておれ。いずれナニャから連絡がゆく」
「連絡は早目にするんだぞ。いくらオレでも、ファニみたいにパッと現れることはできねぇんだからな」
「心得ておる」
ファニたちの移動は、ほかの4種族より遥かに優れていると言えた。
だが、それはファニが実体化を解くことにより成せる技なのだ。
自ら移動はできても、別の種族を一緒に移動させることはできない。
「気休めにしかならねぇけど……気ィつけろよな」
軽くうなずき、歩き出す。
灰色の「壁」が、鼻先に迫った。
目を閉じることなく、そのまま進む。
ぐっと、体に圧力が加わった。
次の瞬間。
「おお……余も抜けられたか……」
ふう…と、キャスが隣で大きく息を吐き出している。
落ち着いたそぶりではいたが、緊張していたのだろう。
なにしろ、ここは「敵地」なのだから。
「ダイス、ザイードも私も無事。帰ってノノマたちに伝えて」
壁があっても声は聞こえると、老体からの話で、知ってはいた。
そのせいで、老体は、自らの子が殺されたと知ることになったのだ。
だが、声は聞こえても、ダイスの気配は感じられない。
すでに帰ったのか、まだそこにいるのか、わからなかった。
「……行きますか」
キャスに顔を向けると、少し緊張した表情を浮かべている。
ザイードは、ゆったりと微笑んだ。
自分でも不思議なのだが、警戒はしているのに、緊張はしていない。
キャスと手を繋いでいるからだろうか、と思った。
「ジュポナは、元々は、リュドサイオが統治する予定の国だったんです。だから、アトゥリノの王都……中心地からは離れてるんですよね」
ザイードは、懐にしまってある地図を頭に浮かべる。
アトゥリノという国は、帝国と隣接しており、北側に主な支配地があった。
4つの支配地はいずれも北側に面していたが、最も北東にある、最も小さな国に「ジュポナ」の名が記されていたと、記憶している。
「だから、ここはもうジュポナなんですよ」
こくりと、うなずいてみせる。
ザイードは、人語を解せない。
なので、キャスと、人の言葉で話すことはできないのだ。
対して、キャスの魔力は感知されないらしいので、こうやって話すことができている。
魔力で話しかけているという意識はないのかもしれないけれど、それはともかく。
「これから、アイシャという女の人を探しますね。私の……同胞です」
キャスの話から、ザイードは、人は総じて数の多い生き物だとの印象があった。
小さな国とはいえ、大勢の中から、どうやって探すのか。
訊きたかったが、話せないので、首をかしげてみせる。
「探しかたですか?」
うなずくザイードに、キャスが曖昧に小さく笑った。
手立ては考えているのだろうが、確固とした自信はない、ということだ。
「人の国には、身分というものがあります。命令できる立場の者と、命令される側といった感じですね。同じ命令できる立場にも、上下の関係があるんです。それが王族や貴族と呼ばれてるんですけど、身分によって住む家の大きさも違います」
理解したかどうかを窺うように、キャスがザイードに視線を向けてくる。
軽くうなずいておいた。
魔物の国にはない概念だが、なんとなく想像はつく。
魔物は数が少ないため「長」だけで取りまとめることができていた。
けれど、人は大勢いるので、取りまとめる者も複数必要なのだ。
その取りまとめ役が細分化されている、ということだと判断している。
ザイードは、繋いでいないほうの手で、三角を描いてみせた。
「そう、それです。アイシャは、その三角で言えば、下のほうになります。でも、貴族なので建物は大きいはずだし、その建物の前にある紋章を見れば、アイシャの家がわかると思います」
ザイードは、足を止め、名残惜しい気もしたが、繋いでいた手を離す。
どうしたのかという顔をするキャスに、懐から、紙と木炭を取り出して渡した。
「……ああ、紋章ですか?」
こくりとうなずく。
その「アイシャ」という者の紋章を知っておけば、探す時に役に立つはずだ。
「え……でも……目は?」
自分の目を指さしてから、天を指さしてみせた。
それから、陽射しが降り注ぐ様子を手で示しつつ、首を横に振る。
「昼間のほうが見えないんですね……そうか、元々、暗視がきくタイプ……いえ、今のは、私の独り言です……」
キャスは少し恥ずかしげだったが、ザイードからすると、意味がわからない。
キャスの独り言には慣れていたからだ。
(今まで、独り言を口にしておると気づかずにおったのか)
ザイードは、紋章を書いているキャスを見つめる。
それほど、一緒にいるのが、自然なことになってきているのではないか、と感じられた。
ただでさえ、キャスは、誰とは言わず距離を置こうとする。
信用できる相手でなければ、気が緩んだりはしないはずだ。
「こういう感じの紋章です。絵が下手なので……かなり微妙ですけど……」
問題ない、というように、うんうんと、うなずいておく。
確かに、細かな部分までは再現できていないようだったが、似た雰囲気のものを探せばすむことだ。
ザイードは、顔を少し上げ、遠くまで視線を伸ばす。
イホラほどではないが、ガリダも目がいい。
魔獣を狩る時なども、ずっと遠くまで見渡して、追い込んだりするのだ。
(あの方角に、背の高い屋根が多い。貴族は集落を作って暮らすのかもしれぬ)
キャスに、その方角を指さして見せる。
ザイードの意図を察したのか、今度はキャスがうなずいた。
一緒に歩き出したが、少しだけキャスは前に出ている。
そのため、手を繋ぐきっかけを失ってしまった。
ほんのりと胸に寂しさが広がる。
なぜかはわからない。
ただ、キャスを守りたいという気持ちが強くなっているのは確かだ。
魔獣から助け、声もなく姿を見て以来、ザイードは、ずっと気にかけている。
キャスの心を支え、守りたいと思ってきた。
「この辺りに貴族屋敷が並んでいますね……門衛が……入り口を守っている者がいるので、気をつけてください」
ザイードは、意識して気配を消した。
魔獣を狩っている際には、気づかれないことも必要なので、身についている。
すると、急に、キャスが、パッと振り向いた。
ザイードを見て、ホッとした顔をする。
(気配が消えたゆえ、おらぬようになったかと思うたのだな)
ザイードは手を伸ばし、キャスの手を握った。
その手を見つめ、キャスが苦笑いを浮かべる。
「私のほうが、見つからないように気をつけないといけないですね」
キャスは気配を消すことができないらしい。
気に病む必要はないと、首を横に振った。
それからは、しばらく黙って歩く。
貴族の家は、魔物の造る家より、遥かに大きかった。
それぞれの家の前には門があり、見張りが立っている。
家々は連なり合っているため、身を潜められる細い道がいくつもあった。
見つからないよう、物陰に隠れて移動する。
紋章を、先に見つけたのはザイードだ。
キャスの肩を、軽く、ちょんちょんとつつく。
その指で、家を示した。
キャスが確認してから、うなずく。
「裏に回りますね」
小声で言って歩き出したキャスに、ついて歩いた。
人の家が、どういう造りになっているのか、わからないからだ。
大きな塀を、ぐるりと回って「裏」に行くと、そこにも門があった。
魔物の家と同じく「裏口」があるらしい。
こちらは、見張りがいなかった。
「すぐに見つかると思いますが、こっちの監視は当主に繋がるはずなので……」
言いながら、キャスが門にふれる。
途端、家の中でざわめきが広がるのを、ザイードは、感じた。




