行きつ戻りつ 2
ヨアナは「わかった」と言って、帰って行った。
さっきの話は誰にもしないだろう。
とくに、ザイードには知られたくないはずだ。
叱責を恐れて、というより、反対されるのが目に見えている。
(でも、強制するって感じじゃなかったよなぁ)
それだけでも、自分よりヨアナは「性根がいい」と思えた。
ああやって意見してきたのも、ガリダ全体の安全を考えてのことなのだ。
キャスとて、巻き込まずにすむのなら、そのほうがいいとの思いはある。
(戻りたいわけじゃないけどね……ていうか、戻りたくないんだけどさ……)
ここに来た時点で、巻き込まずにはいられない状況になってしまった。
それはもう、否応なく、だ。
だから、人に対抗する手立てを考えようと思った。
とはいえ、打てる手があるのなら、試すべきだとも考えている。
戻りたくないというのは、自分の我儘に過ぎないのだし。
(でもなぁ……なんだろ……ロキティスの動きが、急過ぎる気がするんだよなぁ。あいつは、アトゥリノを動かせるほどの立場じゃなかったはず……)
かつて人は魔物に対し、虐げるという言葉では足りないほどの扱いをしていた。
そういう行いを、またやろうとしているのではないか。
帝国には、歴然とした身分制度がある。
その中で、人は、自らの下に「誰か」を置きたがるのだ。
カサンドラが、その対象とされていたように。
(人身売買は犯罪ってされてたけど、魔物なら奴隷にできるとか考えてそうだよ)
ロキティスは、アトゥリノの第1王子だった。
あの国の別名は「財のアトゥリノ」だ。
安全が確保できるのなら、魔物を「材」と考えてもおかしくはない。
(シャノンが実験材料だったのは嘘じゃないかもね。壁を越える方法を見つけようとしてたのかもしれない。あとは……聖魔の精神干渉を防げるかどうか)
聖魔の精神干渉を無力化できるのなら、壁は不要となる。
むしろ、ロキティスのような人間にとっては、邪魔にしかならないだろう。
なので、壁が越えられる技術ができれば、やりたい放題するに決まっている。
おそらく、そうした動きを咎める者もいない。
猛獣を狩ったり、見世物にしたりするのと同じ。
人は、魔物を、対等な生き物としては見なさないはずだ。
中には、同情的になる者もいるかもしれないが、ごくわずかに違いない。
人道という言葉は、人でないものには適用されないのだ。
(戻りたくもないし、あいつにも会いたくない……でもさ、戻れば、なにかわかるかもしれないよね。それに1度は戻らなきゃ……)
死んでいれば、戻る必要はなかった。
というか、戻れなかった。
けれど、こうなってしまった以上、人と対峙するにしても、どこかで1度は戻る必要があると、頭の隅では思っていたのだ。
いつとは決めていなかったし、ティトーヴァと会う気もなかったけれど。
(アイシャも、ラーザの人たちも心配してるはずだしさ……私が魔物に捕まってるって勘違いして、戦争に加わるかもしれないからね)
場合によっては「名分」を立てるために、偽情報を流される可能性もある。
ヴェスキルを妄信しているラーザの民は、間違いなく「カサンドラ」を助けようと立ち上がるに違いない。
だが、ラーザの民には、人の側に加担してほしくなかった。
壁を越えたのは自分の意思だし、魔物に捕まってもいないのだ。
つまり、加担する理由がない。
勘違いや偽情報で、必要もないのに命を危険に晒すことになる。
それを防ぐためには、本格的に戦が始まる前に、1度は戻る必要があった。
だいたい、ラーザの民がいたのでは、力を使うことを躊躇ってしまう。
いくら魔物の側に立つと決めていても、ラーザの民はヴェスキルの継承者である彼女につき従っているのだ。
自分を信じて、敬っていると知っているのに「奴ら」と等しく壊してしまうことなどできそうにない。
(……フィッツなら、どう言うかな……私の好きにすればいいって言いそうだね。ラーザの民も本望でしょうとかなんとか……)
キリキリと、胸が痛む。
フィッツ、アイシャ、ラーザの民と過ごした、ほんの1日半。
鉱山の宿泊施設でのことが思い出された。
あと少しで「ティニカの隠れ家」に着くと、ホッとしていたのを覚えている。
(皇宮を逃げてからも、私、寝不足になったことないんだよ、フィッツ)
いつも傍にフィッツがいてくれたからだ。
守られていることに安心していたのではない。
自分を「フィッツが守ってくれている」から、安心して眠れた。
野宿だろうが、どこだろうが、関係なかったのだ。
(今は、眠りが浅くて困る。ちょっと物音がしただけて起きちゃうもんなぁ)
そして、目が覚めるたび、少しだけ、泣く。
朝食時、ザイードが現れるまでに平静さを取り戻すようにしていたけれど。
「キャス、帰ったぞ」
「あ、おかえりなさい、ザイード」
ザイードが、見た目はのしのしと、だが、足音もなく入って来た。
体が不調だった頃とは違い、座布団のようなものに座るようになっている。
横によけておいた、もうひとつを引き寄せ、向かい側に置いた。
そこに、ザイードが、やはり静かに座る。
正座だ。
「あのものは、ダイスが連れ帰った。監視はファニに頼んであるゆえ、何事か起きれば、連絡が来よう」
「それなら、当面は安心……ですね」
確信は持てないが、シャノン1人でできることは限られている。
自分が疑われていることもわかっているはずだ。
その間は、大人しくしているに違いない。
よって、「当面は」あまり心配しなくてもいいだろう。
「歳は、16と言うておった」
「魔物と人では、歳の数えかたが違うのは知らなかった、と」
「さよう。魔物のことを知らぬのだと思う」
ザイードは瞳孔を細め、腕組みをしている。
なにか考えがあるようだ。
「ザイードは、シャノンを怪しんでいるんですか?」
「話の辻褄は合うておるし、怪しいそぶりもない。が……なにか解せぬのだ」
釈然としない、腑に落ちない、ということらしい。
確かに、キャスも、そう思う。
シャノンは魔物を知らず、頼れるのは「カサンドラ」だけ。
逃げて来た理由も、はっきりしている。
なのに、なんだか「すわり」が悪い。
「実験材料として殺されかければ、逃げたくもなりますよね」
「だが、なぜ今なのだ。もっと早う逃げられたのではないか?」
「捕まってて自由がきかなかったとか、壁を越えられるとは思わなかったとか? 私が逃げたことで、壁を越えられると知って逃げたのでは?」
「それを、どうやって知った?」
「それは、アトゥリノの兵が…………」
言いかけて、言葉が止まる。
アトゥリノの兵は、彼女が、全員、壊した。
なにが起きたのかを話せる者はいなかったはずだと、彼女自身が判断をくだしたばかりだ。
その場に「カサンドラ」がいなかったからといって「壁を越えた」と考えるのは極端な気がする。
人は「壁を越えられない」のだから。
カサンドラの特異な体質は、フィッツしか知らない。
ラーザの民どころか、フィッツ以外のティニカですら知らないのだ。
カサンドラに仕える者として女王直々に教わったと、フィッツからは聞いている。
カサンドラの出自にしても、フィッツは言っていた。
『そのことを知っている者は、今となっては私だけだと思っておりましたが』
ならば、あの場にいなかった「カサンドラ」が、フィッツとともに、別の土地に移動したと考えるのが、自然な流れだ。
だが、シャノンは「カサンドラが壁を越えた」と、ロキティスが言うのを聞いている。
だからこそ、自らも壁を越えて来たのだと。
「そうか……そもそも、私が壁を越えたって思うわけなかったんだ……追いかけて来るって思い込んでたけど……そうじゃなかった……」
「どういうことだ?」
「人は壁を越えられないんだよ。私に魔力があるなんて、誰も知らなかったし……探すにしても、帝国内を探そうとしたはず……壁を越えてるって思うわけない」
「つまり、現状、そなたが壁を越えたと判断しておるものが存在するのだな」
彼女は、独り言になっているとは気づかず、無意識にうなずく。
ロキティスは、事実を無視している。
推測ですらない。
当てずっぽうだろうが、なんだろうが、かまわなかったのだ。
彼女が壁を越えたことにしたかった。
カサンドラだけだったら、そんな意見に耳は貸す者はいなかっただろう。
だが、フィッツが死んだことを知っている者も「あちら側」には、いない。
フィッツの力があれば、壁越えも可能だと思われても不思議ではないのだ。
ティトーヴァは、戦車試合でフィッツが見せた「光」の力を知っている。
「ロキティス・アトゥリノ……あいつ……」
そもそも、ロキティスは魔物の国を襲うことを考えていたに違いない。
ロキティスにとっては、好機だったのだ。
あの壁を「防御障壁」と呼ぶほど、人は「壁に守られている」と思っている。
壁を越える技術の開発が許されるとは考えられない。
カサンドラの壁越えは、それを公に認める「名分」にされた。
ロキティスは「カサンドラ」を餌に、ティトーヴァを唆したのだ。
「キャス?」
「どっちみち、魔物の国に来るつもりだったんだよ。私とは関係なく……」
ロキティスに口実を与えてしまったのだと、気づいて唇を噛む。
仮に、ザイードに助けられず、あの時に死んでいたとしても、だ。
もしかすると、その死すらも、ロキティスに利用されたかもしれない。
魔物が「カサンドラ」を殺したと。
「私、1度、人の国に帰るよ。そうしなきゃ、いけない」
最悪なのは、ロキティスが、とっくに壁越えの開発を進めていたと、推測できることだ。
人の襲来は、予測よりもずっと早いに違いない。