今日と同じ明日は来ず 2
キャスは、ザイードに頼み、小さな机を用意してもらった。
室内の端の、陽の射す場所に置いている。
布団から出て、板敷の床に「座布団」を敷き、その上に座った。
(布団は、中に鳥の羽が入ってるって言ってたっけ)
ノノマから、そう聞いている。
元の世界からすれば、いわゆる「羽布団」であり、高級品だ。
座布団は、その布団の半分ほどの薄さで、少し硬く、丸い形をしている。
中には、魔獣の毛が詰まっているのだそうだ。
(……ウール、みたいな感じって思えばいいか)
羊毛と獣毛とでは、だいぶ違う気もするが、それはともかく。
いかにも「植物由来」を思わせる、薄茶色で繊維がところどころに見える紙。
少し、ごわごわしているが、丈夫そうだ。
鉛筆代わりの筆記具は木炭だった。
細さは鉛筆と大差ないものの、直に握ると手が汚れる。
そのため、薄く削った木の皮を、適当に巻き付けて使うのだとか。
早速、木炭を握って、紙に書き始めた。
1枚目は、地図だ。
最初に、彼女の知る人の国の地図を、大雑把に書く。
世界地図を作りたかったのだが、聖魔の国の場所がわからないので、ひとまず、魔物と人の国との位置や距離関係を記すことにした。
「ラーザの最東端にある壁を越えてから真っ直ぐに歩いてたってことは、私は東に進んでたってことか。ザイードに見つかるまで、たぶん4時間くらい……」
胸が、ぎゅっとなる。
あの日のことを思い出さずにはいられなかったからだ。
暑い夏の日の夕方。
薄金色の、ひし形になってしまったフィッツを抱きしめて立ち上がった。
その頃の日の入りは午後7時前後。
魔獣に襲われ、意識が途切れる前は、夜だった。
彼女は、一瞬、目を伏せ、大きく息をする。
そして、ゆっくりと吐き出した。
つらいという気持ちはなくならないし、忘れたいとも思わない。
こうやって、つらくとも、繰り返しフィッツを思い出すと決めている。
書き物をするため、ひし形は、机の上に置いていた。
それを、指で、ちょんとつつく。
「フィッツがいればさぁ、地図なんて、ちょちょいって作ってもらえたのにね」
言いながら、地図作成に戻った。
ザイードが言うには、キャスを見つけたのは、日をまたぐ前。
ということは、午後23時前後と考えられるので、真東方向に4時間ほど歩いていたと想定できる。
「あの時は、ふらふらだったし、時速4キロは、ないな。3キロ……それも怪しいけど、まぁ、十キロくらいは歩いたとしよう。で、ザイードが私を見つけたところからガリダまでが、北に5百キロくらい……魔物の国とラーザまでは、だいたい4,5百キロ近く離れてるってことか」
ザイードは、ほかのガリダたちと魔獣を狩っていたらしい。
その中の大きな集団が逃げ、ザイードだけが、後を追った。
が、壁が近くなったため戻ろうとしていたところ、キャスを見つけたという。
魔獣も知恵をつけ、壁のほうに逃げれば追われないと知っているのだそうだ。
「東京をラーザとして北に進むと……青森の八戸くらいまで行ける? 行ったことないから、遠いかどうかイメージできないなぁ……でも、こっちには新幹線ないんだし、移動に時間かかりそうだよね」
魚の形をしたような帝国の地図。
そのラーザから東、北と、進んだ先にある場所に魔物の国を書き加えた。
帝国全土の大きさと比較すると、魔物の国のほうが広い。
ヴァルキアスの歴史を思えば不思議ではないが、実は帝都はラーザ寄りにある。
皇宮逃亡後、10日もかからずラーザに入れたのは、狭い範囲での移動しかしていなかったからだ。
帝国本土自体は、帝都より西側のほうが圧倒的に広い。
地図上で見ると、帝都に最も近いのはリュドサイオで、最も遠いのがデルーニャとなり、その中間がアトゥリノとなる。
「ダイスは、自分の家から、ここまで3時間ほどで来たって、言ってた。4百キロくらいあるみたいだけど……ザイードの倍は速いのか。やっぱり種族で特色があるというか、資質が違うというか」
ルーポ族なら、いち早く人の移動を見つけられるのではないかと思う。
ラーザに最も近いのはイホラの領地で、ガリダまでだと5,6百キロ。
つまり、ダイスなら5時間前後で到達できる距離だ。
おそらく、人は乗り物を使っても、そこまで速く移動はできない。
「あ、でも、ラーザのところの壁から出てくるとは限らないよなぁ。最短距離ってなると、リュドサイオの北の端のほうが近い。3百キロ程度になりそうだもんね」
魔物の国は、種族での領地を加味しなければ、領土全体がほぼ円型をしている。
対して、帝国は魚の形に似ていて、尾の突端のひとつがリュドサイオだ。
もしかすると、最短距離ではなく、回り込むようにしてアトゥリノ方面から壁を越えて来ることも有り得る。
「見張りは、絶対に必要だけど……」
「そうだの」
声に、ハッとして振り返った。
後ろに、ザイードが立っている。
体を折り曲げ、地図を見ていた。
「すまぬ。驚かせたか?」
「ちょっと……」
驚いたことより、ブツブツ独り言を言っていたのを、聞かれたのが恥ずかしい。
1人で考え事をする時の癖なのだ。
頭の中で思っていることが、無意識に口から出てしまうことがある。
誰かを意識している時は抑制できるが、誰もいないと思うと、気が緩むのだ。
ザイードが、隣に座って来る。
もとより、彼女に「気配」を察する能力はない。
だが、ザイードは外見に見合わず、とても静かだった。
足音もないし、衣擦れの音も出さないのだ。
見た目としては、どすんどすんとやって来てもおかしくはないので、どうやって歩いているのだろう、と思う。
とはいえ、シュザやノノマの足音は、軽くではあるが聞こえるのだ。
ザイードが、なにか特殊な力を持っているのかもしれない。
「人の国に面した場所すべてに見張りを置くことはできぬな」
「そうです。範囲が広過ぎて、どうしようかと」
「であれば、イホラに見張りをさせればよい」
「イホラ?」
ゆっくりと、ザイードがうなずく。
基本的に、ザイードはゆったりとした動きをするのだ。
人間より遥かに速く走れるようだが、そんなふうには見えない。
おっとりしているという言葉が、ザイードには、しっくりくる。
「イホラは植物から生じた魔物でな。空気の揺らぎや、風を読むことに長けておるのだ。大気から生じたファニは温度や湿度に敏感ではあるが、空気は読めぬ」
「大気から生じたのに、空気が読めないっていうのは不思議ですね」
「己が身が、大気とともにあるゆえ、空気が揺らぐのも風が流れるのも、ファニにとっては、ごく普通のことに過ぎぬのだ。自然の理と言ってもよい」
イメージはしづらいが、川が水の流れを意識していないのと似たようなものなのかもしれないと思った。
『あいつらは地面がなくてもへっちゃらなんでね』
ダイスの言葉を思い出す。
ほかの4種族とファニは、同じ魔物でも性質が異なっているのだろう。
確かに、地面がなくても平気というのは、かなり特殊だ。
「魔物は、それぞれ生じかたが違うんですか?」
「その土地に見合うた生じかたをしておる。我らガリダが最も古く、次がルーポ、イホラ、コルコ、最後にファニが生じたのだ」
「それぞれの領地が、沼地や森、林に岩場だって、ダイスが言ってましたね」
「コルコとファニ以外は、生き物から生じたと言えような」
そこで、ん?と思う。
ファニは大気から生じたと、ザイードは言った。
見た目により、ガリダは爬虫類っぽい生き物、ルーポは哺乳類っぽい生き物から生じたのだろうことは予想に容易い。
そして、イホラは植物から生じたと、さっきザイードは言っていた。
「コルコは生き物ではないんですか?」
「生き物とは言えぬ。コルコは、古き時にあった、人の死骸から生じたものゆえ」
「え? コルコは死人から生じたっていう……」
「死骸を人とするかはわからぬが、生じかたとしては、そうだ」
もちろん、今となっては、コルコは「魔物」なのだろう。
だが、なんとも言えない気持ちになる。
ザイードは「死骸を人とするかはわからない」と言うが、たとえ死んでいても、彼女からすれば「人は人」だ。
「ええと……コルコは、人と敵対するのを、どう考えてるんでしょう?」
「乗り気ではなかろうが、加勢するとは言うておったぞ」
「そうですか……あまり頼らないほうがいいかもしれませんね」
「余は、無理に戦わずとも良いと言うたのだがな」
魔物にも事情があるのだろう。
種族が違えば、各々の立場が違ってくるのも当然だ。
魔物という大きな括りの中にいるため、コルコ族は加勢せざるを得ないだけなのかもしれない。
ザイードの率いるガリダはともかく、ほかの種族との兼ね合いもある。
「そう気に病むことはない。この2百年が安泰であったからと言うて先の2百年も引き続き安泰とは限らぬのだ。どの道、解決せねばならぬ。そなたがおるうちに、対抗策が講じられるのは、むしろ幸いであったと思うておる」
小さく息をつき、うなずいてみせた。
ザイードの言うことは、間違ってはいない。
技術が進歩していけば、いずれ人は「壁」を越えて来る。
百年後か千年後かはともかく。
カサンドラを探すという目的ができたことで、その時期が早まったに過ぎない。
そう考えることにした。
揺らいだり、迷ったりしたくなかったからだ。
(甘い考えでいたら……また……同じになる……)
思うキャスの目に、薄金色のひし形が映っていた。