過厄の気配 4
ゼノクルは、かなり不機嫌だった。
しきりに鼻をこすっている。
こすったからといって、どうなるものでもない。
わかっているのに、ついこすってしまうのだ。
それにも、苛つく。
「ったく、獣くさくってしょうがねえ」
言葉に、体を縮こませる相手を、横目で小さくにらんだ。
顔まで、すっぽりと黒いフードをかぶっている。
かなり小柄な姿に「出来損ない」だと思った。
ロキティスが寄越したのだが、切り捨てても惜しくない者を選んだに違いない。
ロキティスのやりそうなことだ。
「ロッシーから薬もらってねぇのか?」
「……い、いただいて、ます……」
かぼそい声が聞こえる。
怯えていても、同情などしない。
そもそも「魔人」には、そういう感情がなかった。
「そんじゃ、なんで飲んでねぇんだ」
「で、でも……の、飲むと……」
「っせえ! さっさと飲め!」
びくっと、フード姿の全身が震えている。
懐から、震える手で薬の瓶を取り出した。
が、しかし。
ころん、ころころころ。
震えるあまり、手から瓶が落ちて床に転がる。
そして、ゼノクルの足のつま先に当たって止まった。
以前のロキティスの私室よりも、ここは貧相な部屋だ。
リュドサイオの第1王子の寝室なのだが、少し裕福な貴族屋敷並みでしかない。
大理石の床にも、そこそこの絨毯が敷かれているだけだった。
「す、すみ、すみま……っ……」
ばたっと、フード姿が両手を床について、這って来る。
薬瓶を拾おうとしているのだろう。
近づいてくる相手に、顔をしかめた。
その手が瓶にふれる寸前、それをゼノクルが取り上げる。
あ!と言いたげに、フード姿が顔を上げた。
イラっとする。
「そんなもんかぶってたって、獣くせえことに変わりねぇぞ」
「……すみ、すみませ……」
「取れ」
また、びくっと体を震わせたのち、相手がフードを取りはらった。
くすんだ銀色の髪は短く、ぐしゃぐしゃだ。
あちこち飛び跳ねているし、長さも、まちまち。
手入れがされていないのは一目瞭然。
ゼノクルは苛々しながら、薬瓶の蓋を開ける。
中から白い錠剤を、ひとつ取り出した。
それを、人差し指の上に乗せる。
「口開けろ」
開かれた口に、錠剤を放り込んだ。
気づいたからか、無意識なのかはわからない。
放り込まれた薬を、大人しく飲み込む姿を、じっと見つめる。
喉を通過後、しばし待った。
ひょこん、ぴこん。
ぐしゃぐしゃの髪を分けるようにして、三角の耳が生える。
同時に、細くて、くるんと巻いた尾が、フード服の裾から飛び出していた。
青い目の中の、銀色の瞳孔は縦長で、人間のものではないと、すぐにわかる。
その瞳孔が、怯えの感情とともに、広がったり狭まったりしていた。
「やっと獣くせえのが、おさまったな」
「え…………」
はあ…と、大きく息を吸い込む。
ずっと呼吸を「控え目」にしていたからだ。
息苦しさが緩和され、苛立ちがおさまってくる。
ゼノクルを見上げてくる瞳を、見返した。
「知らねぇのか。魔物の魔力は獣くせぇんだよ。今は薬の効果で魔力は使えねえ。だから、匂いもしなくなったってことだ」
言われて気になったのか、すんすんと、自らの体を嗅いでいる姿に呆れる。
嗅いでも、わかるはずがない。
魔物を「獣くさい」と感じるのは、聖魔だけなのだ。
魔物は自らの匂いを気にはしないし、人は魔力の匂いに気づかない。
「そんで? お前、名は?」
ハッとしたように、また魔物が体を縮こまらせた。
うつむいたまま、黙っている。
「ねぇのか?」
黙ってうなずく相手に、ゼノクルは目を細めた。
ちっと、小さく舌打ちする。
いよいよ縮こまる魔物を、今度は鼻で笑った。
「やっぱり1番いらねぇ奴をおくったってことか。ロッシーらしいぜ」
見た感じからして「使えない」気はする。
もとより、魔物といっても、完全な魔物ではないのだ。
簡単に魔力を抑制されてしまうのが、その証だった。
たぶん耳や尾を隠す程度にしか魔力を扱えないのだろう。
「立て」
ゼノクルが言うや、スタッと俊敏な動きを見せる。
ロキティスらしくも「躾」は完璧だ。
ローブの上から腕を掴む。
瞬間、ぎゅっと目をつむる仕草に、どんな「躾」をされてきたのか理解した。
(人との間にできたっつっても、魔物は魔物だからな)
とくに、耳や尾があるのでは「人」として扱われなくてもしかたがない。
ここは「人の国」なのだ。
魔力があると感知されれば「殺処分」間違いなし。
そういう者たちを、ロキティスは汚れ仕事に使っている。
以前から気づいてはいたが、言わずにいた。
ゼノクルには関係のないことだったし、あえて関わるほどの面白味もなかった。
だいたい魔物は「獣くさい」ので嫌いだ。
「ぅわ……っ……」
掴んだ腕を引っ張り、自分の膝の上に乗せる。
名なしの魔物は、がちがちに体をこわばらせ、小さくなっていた。
耳はピンと立って緊張を伝え、尾は、たらりと下がって恐怖を訴えている。
感情表現のしかたが、いかにも「魔物」だ。
「シャノン」
「…………シャノン……?」
「お前の名だ。俺が、そう呼んだら、すっ飛んで来い。わかったか」
こくこくと、名付けたばかりのシャノンがうなずく。
これといって理由はないが、なんとなく浮かんだ名をつけてやった。
ロキティスは、シャノンを使い捨て用として取っておいただけだ。
もしくは、実験材料に過ぎなかった。
だから、名など不要としていたに違いない。
だが、ゼノクルは別のことを考えている。
そのため、名がないと不便なのだ。
ちょっと面白いことになるかもしれない、と思う。
魔人は、娯楽に手は抜かない。
「お前は、俺がもらい受けた。ロッシーのところに帰るこたねぇんだ」
「は、はい……ご主人様から……ゼノクル殿下にお仕えするよう言われて……」
「違う。お前の主人は、もうロッシーじゃねぇって言ってんだ」
ゼノクルは、適当に切られたらしき、ぐしゃぐしゃの髪を撫でてやった。
銀色の瞳孔が、忙しなく動いている。
警戒と安堵、猜疑心と好奇心などが入り混じっているようだ。
基本的に、魔物は瞳孔や尾による感情表現の自己抑制ができない。
なにを考えているのかを隠せない、と言える。
「お前は、俺の言うことだけ聞いてりゃいい」
まだ瞳孔が、ちらちらしていた。
ロキティスの「躾」が、シャノンに迷いを生じさせているらしい。
送られる際に、なにか言い含められていたのだと、察しはつく。
ロキティスにとって最も「害の少ない者」だっただろうが、情報ゼロというわけでもなかったはずだ。
「俺は、ロッシーとは違う。お前に痛いことはしねぇよ。ていうか、お前、ちっと細過ぎだろ。体も小せぇし、うまいもん食って、大きくなりな」
シャノンが、目を見開いていた。
尾が、わずかに持ち上がっている。
ほんの少しゼノクルに対する警戒が緩んだようだ。
それを感じて、笑った。
「俺は、お前を可愛がってやる。なんでかってぇと、お前が俺の役に立つからだ。ロッシーは、使えねぇと思ってただろうが、そんなこたねぇぞ、シャノン?」
「や、役に……立つ……」
シャノンの頭を、雑に撫でながら、少し考えてみる。
仮に、ここで役に立たなかったとしても、別の「用途」が思い浮かんだ。
(こいつを連れて帰ったら、みんな、嫌な顔すんだろうぜ)
魔人は「娯楽」を摂理として生きている。
対象が「人」とは限られていなかった。
ただ、魔人の玩具として「人」が最適だったに過ぎない。
精神に干渉を受けた「人」は、魔人にとって、わけのわからない行動を取る。
それが、面白かったのだ。
そして、聖魔は、魔物を嫌う。
シャノンは、厳密に言えば「魔物」ではない。
が、魔力があるので、人と同じく、聖魔からしても魔物扱いする。
ラフロは呆れるだけだろうが、それ以外の聖魔は騒ぎ散らすはずだ。
ゼノクル、もといクヴァットは、魔人の王。
見境なく「娯楽」を探求する。
「どっちにしても、楽しくなってきたじゃねぇか。なぁ、シャノン」
髪を、さらにぐしゃぐしゃにされながら、シャノンはゼノクルを見つめている。
瞳孔の動きがおさまりつつあった。
その目を覗き込み、膝に乗せたシャノンに、ゼノクルは言う。
「けど、俺といる時は、1日1回、必ず薬を飲め。獣くせぇのは嫌いなんだ」