過厄の気配 1
ザイードは、文献蔵に来ている。
新しい情報をもらえるにしても、古い書物も見直しておくことにしたのだ。
朝食後、ふらりと足を運んでいる。
長という立場ではあるが、周りから平伏されるような関係性ではない。
領地内を、ぶらぶら歩いていても、声をかけられたり、かけられなかったり、といった具合だ。
(人は数が多いと、キャスは言うておったな。ガリダは……1万ほどか)
正確な数は、わからない。
基本的に、魔物は成年したものだけを、頭数としていた。
男女の区別はなく、労力や戦力に成り得る民だけを数える。
ガリダは好戦的な魔物ではないが、魔獣を狩る必要があった。
そういう場合には、自分の身を自分で守れるものたちで部隊を編成する。
それが、魔物の考える「頭数」なのだ。
(これも、正確に把握しておかねばならぬな。皆が皆、戦う意思を持つかどうかもわからぬのだ。幼子をかかえておるものもおろう)
実際的な数を出し、部隊を編成し直す必要があった。
人との闘いは、魔獣を狩るのとは、わけが違う。
かつては、一方的にやられた相手だ。
キャスの話からすれば、2百年前より、人は進化しているようだった。
こちらも、それなりに備えてはいるものの、十分とは言えない。
人に対する感情から、これまで魔物は壁には近づかずにいる。
そのため、この2百年の間の、人についての情報はないのだ。
古い情報に基づいての備えでは、対処できないことも多いだろう。
しかも、手持ちの情報も口伝によるものが多く、曖昧で抜け落ちがある。
今後は口伝えに頼るだけとはせず、書物として残していくことにした。
いつまで壁が有り続けるかはわからないし、キャスがいなくても壁を越えようと考える人間がいないとは限らない。
仮に、今回は避けられたとしても、将来的なことを鑑みれば、少しでも確実性のある情報を残しておくべきなのだ。
ただし、ザイードの本能は「人が来る」と予感しており、すでに「仮」の話ではなくなっているのだが、それはともかく。
「ザイード様」
声のしたほうに顔を向ける。
変化はしておらず、ガリダ族の姿をした女が立っていた。
ザイードと似た装いだが、赤くて金糸の刺繍が入った衣は高級な代物だ。
ひと目で、特別にあつらえさせたものだと、わかる。
ガリダ族に、食べるのに困るほどの貧富の差はない。
だが、ほかの民たちより、裕福なものはいる。
商売の才があったり、ひと際、よく働いたりするものたちだ。
ほかの種族と取引して儲けるのは悪いことではないし、騙すような真似さえしなければ、正当な報酬だと言える。
なにもなかった沼地を綺麗に整備し、魚や稀少な薬草を育て、それらを生活の糧とするのも、努力の結果だ。
交渉をして互いに納得のいく交換である限り、なにも問題はない。
「商売の書でも探しにまいったのか、ヨアナ」
ヨアナは、手広く商売をしている家に産まれている。
長女であり、家を継ぐ気もあるようだった。
ほかの種族との取引ため出かけて行く父親に、よく同行している。
少し濃い色の緑の髪と、緑の目に茶の瞳孔。
ヨアナの母は、3番目の妻として迎えられたイホラ族の女だ。
緑の目と茶色の瞳孔は、イホラ族に多い特徴だった。
もちろん、ほか種族との間にできた子だからといって冷遇されることはない。
ヨアナの父には5人の妻がいるが、仲が良く、みんなで子育てをしている。
魔物にとって、誰が産んだかなど、さしたる意味を持たないのだ。
「いえ、ザイード様に、お訊きしたいことがあって、まいりました」
ザイードは、ぱたんと、手にしていた書物を閉じる。
そのザイードに、ヨアナが歩み寄って来た。
ガリダ族の多くの男が、ヨアナの夫になりたがっている。
2番目でも、3番目でもかまわないと言っているものさえいた。
種族を問わず、魔物は「養う」ことが最重視される。
養うだけの器量があれば、男が妻を何人もとうが、女が夫を何人もとうが、気に留めない。
ヨアナには、それだけの器量があると評価されているのだ。
「人のようなものを連れ帰ったというのは、本当にござりましょうか?」
「人のようなものなぞと言うでない。キャスという名があるのだぞ」
ヨアナの瞳孔が、スッと細くなる。
考えこんでいるというよりは、不快に思っている時の細さだ。
尾も、小刻みに左右に振れている。
どうやら、キャスのことが気に入らないらしい。
(そういうものもおるわな。同じ種族とて、等しく受け入れられるとは限るまい)
ここ半月あまり、ヨアナは父親と一緒に取引に出かけていて不在だった。
帰ってきたところに、キャスの話を聞き、ザイードを問い質しに来たのだろう。
どういう経緯で連れて来たのか、脅威に成り得るのではないかと、訊きたがっている。
キャスの存在を、ヨアナは納得していない。
ザイードも、全員が全員、自分の考えに賛同しているとは思っていなかった。
強制する気もないし、無理に従わせようとも考えてはいない。
ほかの種族との話し合いで言ったのと同じだ。
戦う状況になったら、同意するものだけで迎え撃てばいいと思っている。
「そのものがおるせいで、魔物の国が脅かされるなぞ、あってはならぬこと。そのものと我らには、なんの関りもござりませぬでしょう?」
「なに、お前にも、お前の家にも戦えとは言うてはおらぬ」
「そういう話をしてはおりませぬ。同胞であれば、命を賭して戦うことを、躊躇うたりはいたしませぬが、そのものは、同胞に非ず。ゆえに、ほかの同胞が巻き込まれるのを、放ってはおけぬと思うておるのです」
「巻き込まれとうないと思うものは、巻き込まれぬようにすればよい。余は、戦うことを強要はせぬのでな」
ザイードの言葉に、ヨアナは苛立ちを募らせたようだ。
尾の揺れが激しくなっている。
「ザイード様を慕うものが、どれほどおるか、ご存知にござりましょう?」
「であれば、すでにキャスも身内。あれを慕うものもおる」
「比べるに値しませぬ。そのもののためではなく、ザイード様のために戦うと言うものが大勢おる、という話をしておるのです」
「であろうとも、それは、そのものたちの意ぞ」
ザイードのためか、キャスのためか。
そこに、たいして意味はない。
ザイードは、キャスを受け入れている。
その結果として、人の襲来があるのなら、対抗措置を取るだけのことだ。
キャスを追い出したり、引き渡したりする考えはない。
そのザイードにつき従うということは、キャスを受け入れるという考えにも同意したと見なせる。
いや、等しくなければならないのだ。
自分に対しての思慕や親愛の情には、信頼や敬意も含まれている。
(余は、その信頼に応えられるように行動せねばならぬ)
自分を高く評価しているのではない。
だが、こういう自分であるからこそ、情をかけてもらえているのだ。
もし、キャスを見放すようなガリダであれば、逆に、信頼を裏切ることになる。
少なくとも、シュザやノノマからは軽蔑されるに違いない。
それでもガリダの長か、と言われそうだった。
「ザイード様には、ガリダの長としての責任がござりましょう」
「そうだの」
「であれば、無謀な戦いに、皆を巻き込むのはおやめくださりませ」
「なぜ、無謀と思う?」
「人の武器に、我らが太刀打ちできぬことは、明らかにござりましょう!」
ザイードは、なんとかすると言った時のキャスの瞳を思い出す。
キャス自身をも壊してしまいそうな、そんな手段だという気がした。
だから、できれば「なんとか」などしてほしくはない。
(……キャスは、己が壊れても良いと思うておるのだ)
魔力を隠し、人として生きてきて、最近まで魔物との接点などなかった暮らし。
キャスが来てから半月ほどしか経ってはおらず、面識のあるものも少ない。
どう考えても、そこまで魔物に親近感をいだく理由がなかった。
なのに、魔物に犠牲を強いるより「人」に犠牲を出すことを選んでいる。
(魔物のために、己の心を犠牲にしようとする“人”はおらぬのだ。それだけでも、余の理由には成り得る)
「余がキャスを助け、ガリダの地に連れて来た。余は、余の個としての責をまっとうする」
「それでは、長としての……」
「個の責をまっとうできぬのなれば、長の座を降りてもかまわぬ」
「な…………」
そもそも、ザイードは長という立場にこだわりなどない。
前の長が死んだあと、次の長を決める集会が開かれた。
それぞれに次の長としたい民の名を書いて、集めるのが習わしとなっている。
結果、ザイード以外、皆、ザイードの名を書いていた。
本人は、なぜそんなことになったのか、未だにわからずにいる。
もっと相応しいものがいると、常々、思っていた。
「それでよいな」
「そ、それは……それは、なりませぬ……」
「なぜだ? 長でなくば、お前も納得できよう」
「私は……私は、ザイード様に長を降りてほしいなぞとは思うておりませぬ……」
ヨアナの尾が、へなりと垂れ下がっている。
理屈に則って返答をしたつもりだったので、ヨアナが気落ちしている意味がわからない。
首をかしげている間に、ヨアナが、ぺこっと頭を下げた。
「ともかく、今一度、ご再考くださりませ」
言って、文献蔵を出て行く。
その落胆ぶりにも、首をかしげた。
「いったい、いかがしたのだ、ヨアナは」
こんなことだから「女が寄りつかない」のだと、ザイードは気づいていない。