景色が見えない日々ばかり 3
すでに何日が経ったのか、数えるのをやめていた。
だが、ザイードの言ったことは的を射ている。
体の傷が癒えてくるに連れ、思考が戻り始めたのだ。
それが疎ましくてたまらない。
なにも考えたくないのに「考える」ことを止められずにいる。
周囲のことや、ザイードの言葉が、勝手に頭に入ってくるのだ。
入ってくれば、考えずにはいられない。
言葉であれば、どうしたって意味を捉えようとする。
彼女の「力」を裏付けるように。
相手が、なにかを話していると認識すると、嫌でも脳が処理しようとするのだ。
なにを言っているのか、どういう意味なのか。
それらを理解するために働き出す。
聞き流したり、無視したりすることができるのも、それが「言葉」だと認識しているからこそだった。
要は、完全な遮断は不可能だということ。
「かなり良うなっておる。この調子なら、そろそろ動けるようになろうな」
動きたくなんかない。
だが、動けるようになったら、どうするべきか。
それを「考えよう」としている。
キャスは上半身を起こした状態で、上掛けを両手で握りしめた。
この世界で、したいことなんて、なにもない。
なくなってしまっている。
このまま、ここで暮らすのも望んではいなかった。
(動けるようになったら……出て行こう……)
行くアテがあるわけではないし、どこかに行く気もない。
ただ、それが人であれ、魔物であれ、誰とも関りたくないのだ。
この国を出て、また魔獣に襲われたとしても、かまわなかった。
どうして自分が生きているのか、それがわからない。
もともと自分の「生」に執着はなかったが、今は、命の肯定すらできずにいる。
頑張っても無駄だと思い知ったからだ。
最初の予定通り、誰とも深く関わらずにいれば、最悪の事態は招かなかったかもしれない。
「キャス、そなたは、もうガリダの民だ。勝手に出て行ってはならぬぞ」
心の裡を見透かしたようなザイードの言葉に、苛とする。
この世界にも、この地にも、来たくて来たのではなかった。
うつむいて、自分の両手を見つめる。
布団を握りしめつつも、右手には、ひし形があった。
「助けてくれと頼んだ覚えはありません」
「そうだの」
「勝手に、連れて来ておいて、出て行くなと言うんですか?」
「そうだ」
「責任があると思ってるのかもしれませんが、迷惑です」
「責任とは思うておらぬ。むしろ、そなたの義務と言えよう」
「義務……? 助けてくれと頼んでもいないのに、なぜ義務が生じるんてす?」
喉が痛む。
長く話していなかったせいかもしれない。
声もかすれていて、話すたびに、喉の奥が、ざりざりする。
「そなたの意思に非ずとも体は生きようとしておる。それゆえの義務だ。生きようとしておる体を放り出すな」
キャスは、小さく息を吐いた。
息を吐くだけでも、喉が痛むのだ。
深呼吸など、する気にもなれない。
本当には、溜め息だって。
「生きることを強いられたくありませんね」
彼女は、自分が、最期に携帯電話へと手を伸ばさなかったのを覚えている。
もし、救急車を呼んでいたら助かっていたかもしれない。
助かっていたら、生きる「必要」が生じていただろう。
ザイードに助けられていなければ、とっくに死んでいた。
体が生きようとしているのは、生かされてしまったせいだ。
「大事な相手を喪うたか」
言葉に、胸が、ぎゅっと痛くなる。
思い出したくないし、認めたくもないことだ。
心の中を引っ掻き回されている気がして、腹が立つ。
けれど、悲しみのほうが大きくて、言葉が出て来なかった。
「であれば、なおのこと生きねばならぬな」
腹立ちと悲しみの中で、キャスは、ハッと小さく笑う。
ひどく、ささくれた感情に支配されていた。
望んでもいないのに、生かされて。
なぜ魔物に説教などされなければならないのか。
「死んだ人が悲しむから? そんなことを相手が望んでいないから? その人の分まで生きなければならない?」
そんなのは、おためごかしに過ぎない。
彼女は顔を上げ、トカゲ顔のザイードをにらむ。
「なんで、そんなことがわかるんですか? その人は、もう死んじゃってるのに。なにも訊けないし、確認もできません。その人が、なにを望んでるかなんて、生きてる者の勝手な推測、というより、生きていくための口実に過ぎませんよ」
生きていてほしい、とは言われた。
だが、死ぬなとは言われていない。
もちろん、こじつけで自死しようとは思わないが、不可抗力で死ぬことまでは、止められないはずだ。
たとえば、防御障壁を抜けたあと、魔獣に食い殺された、とか。
それは不可抗力の死であって、自死とは違う。
詭弁であろうと、いたしかたなかった、と言えるものではあるだろう。
携帯電話に手を伸ばさなかったのと同様、ただ頑張らなかっただけなのだから。
「そのようなことは思うておらぬ。そなたが死ねば、その相手が再び死ぬることになるゆえ、言うておるのだ」
「再び……」
「死は肉体の滅びだけではない。誰の記憶からも忘れ去られた時にこそ、真の死が訪れる。その者は、どこにもおらぬ者となり、その命も生もなかったことになる。まるで生まれて来てもおらぬようにな」
胸の奥が、ずきずきする。
ティニカによって作られた命。
けれど、確かに存在していた命だ。
いなかったことにはできない。
少なくとも、彼女には。
ザイードの金色の瞳孔が、細められている。
その瞳に、なにも言い返せなかった。
大きな手が、彼女の頭を撫でる。
やはり「なぜか」暖かいと感じた。
「忘れたい、と思うこともあろう。だが、それは、そなたの甘えだ。弱さであり、ただの逃げに過ぎぬ。ずっと、悲しんでおればよいではないか。嘆き続けておればよいのだ。日々、思い出して泣けばよい」
パッと、彼女の目の前に、様々な光景が流れ始める。
その姿も、はっきりと見えた。
フィッツ。
『置き去りにしないでください』
そう言って、フィッツは、ほろほろと涙をこぼしていた。
使命を果たすことだけを生きる目的としていたからだ。
『姫様、私は、けして……けして……』
アイシャに「破廉恥」だと言われ、動揺していた姿に、彼女は笑った。
フィッツが感情を露わにしたのは、あれが初めてだったかもしれない。
『私は、姫様を抱きしめたり、口づけたり、肌にふれたりすることが許されるのでしょうか』
大真面目に、そんなことを言ってきた。
同時に、カサンドラを守るためではなく、別の意味で抱きしめている。
(フィッツ……フィッツ……)
いろんな表情を見せてくれたフィッツを思い出していた。
最後の最後で、フィッツは、ティニカの鎖をすべて断ち切って。
『大好きですよ、キャス』
そう言ってくれた。
全力で努力して、彼女の想いに応えてくれたのだ。
「こんなに……苦しいのに……?」
「そうだ。そなたは生きていかねばならぬのだ。その相手を生かしたくばな」
涙があふれ出す。
どっと、悲しみが押し寄せてきた。
苦しいのに、遠ざけられない。
フィッツは、彼女に遠ざけられるのを、なにより嫌がっていたから。
「時が経てば、悲しみが癒えるなぞとは言わぬ。いつまで経っても、つらいものはつらかろうし、悲しかろう。だが、そなたの想いだけが、その者を生かすのだ」
低く深みのある声は、静かで優しげに聞こえる。
けれど、ひどく残酷で、厳しい言葉だった。
甘えることも、逃げることも許してはいない。
(……私が死んだら……フィッツもいなくなっちゃうのか……)
だとしたら、まだもう少しだけ生きていようか、と思う。
悲しくても苦しくても、今はまだ、フィッツを遠ざけることはできなかった。