きみのいない空の下では 4
目が覚めた。
覚めてしまった。
が、元の世界での目覚めではないと、わかっている。
(あっちだったら、私、完全に死んでるからね。目が覚めるはずがないんだよ)
目覚めても、憂鬱な気分にしかなれない。
もう本当に、うんざりだ。
目覚めなければよかったのに、と思う。
視界には、板張りの天井。
昼なのだろう、板の隙間から光が差し込んでいる。
周りを見回す気にもならず、じっと視線を天井に向けていた。
空は見えない。
防御障壁を越えたところに、なにがあるのか。
それは、カサンドラもわからない、とのことだった。
人は、防御障壁の中の安全な場所で暮らしている。
そう聞いてはいたけれど、ちっとも安全なんかではなかった。
人が人を殺す場所だった。
(向こうでも死んでるし、こっちでも死ぬんだと思ったのになぁ)
障壁は、簡単に越えている。
それが可能だと、彼女は知っていたのだ。
だから、皇宮を出たあとは、防御障壁の向こうに行こうと考えていた。
人の国にいる限り「カサンドラ」をやめられないと思ったからだ。
カサンドラの母は「防御障壁には近づかない」と約束させていたらしい。
ほかの人間では越えられない壁も、カサンドラは越えてしまえるため、心配していたのだろう。
越えられる理由がなにか、具体的には知らずにいる。
ヴェスキルの継承者だからなのかもしれないと、漠然と思っていた。
そして、彼女は防御障壁を越えた景色を見たのだ。
ひび割れた地面が延々と広がっていた。
砂漠よりも、なにもない光景だったが、戻る気にはならなかった。
どこで野垂れ死んでもいいと思いながら、夜になっても歩き続けている。
(夏なのに、ちょっと寒かったっけ……それから……)
周りを、見たことのないものが取り囲んできた。
尖った角や牙はあるが、毛のない生き物。
大きさは虎くらいだったように思う。
目は、あるのだかないのだか、見つけられなかった。
(あれが、たぶん、魔獣ってやつだな。ああいうのって、赤く目が光ったりするんだと思ってたよ)
うっすらとカサンドラから聞いていた話だ。
魔獣は、人の国でいう猛獣と同じ。
言語を解さず、国を持つような意識もない。
住み易いところに点在しているという。
彼女の前に現れたのは、その魔獣と呼ばれる生き物だった。
十匹近くはいただろうか。
それを見て、彼女は諦めている。
頑張って生き残ろうなどとは考えもしなかった。
携帯電話に手を伸ばさなかった時と同じ。
もういいやと、自分の命を放置したのだ。
痛かったり苦しかったりするのは嫌だが、逃げるのも面倒だった。
苦痛を避けたいとか、そういう気力も残っていなかったし。
それに。
なにか奇跡みたいなものでも起きて、フィッツが助けに来てくれるかもしれない。
そんなことを考えていた気がする。
期待というより、現実逃避に近い感覚だ。
期待が現実にならなくても、死ねば終わりにできる。
そう思っていたので、その場に立ち尽くしていた。
1匹に飛び掛かられ、肩を噛まれたところまでは覚えている。
死ぬんだろうな、と感じたのも記憶に残っていた。
なのに、そこから先、どうなったのか、なぜ目覚めたのかは、わからない。
「目が覚めたか」
低くて落ち着きのある声が聞こえた。
彼女は、声のほうを見ずにいる。
おそらく「よけいなこと」をした者だろう。
それが誰であれ、感謝などしない。
放っておいてくれればよかったのに。
そうとしか思えずにいる。
会話をする気もなかった。
体が動くのなら、すぐにも出て行きたいくらいなのだ。
ここが、どこかは知らないけれど。
にゅっ。
目の前に、影が落ちている。
声の持ち主が、視界に割り込んできたのだ。
それで、わかる。
(人の国に連れ戻されたわけじゃなさそうだね)
そのことにだけは、安心した。
あんな場所には、2度と戻りたくない。
人の姿も目にしたくないほどだ。
だが、この家の主は、少なくとも「人間」ではなかった。
大きく長い口に、ぎざぎざの歯。
丸くて黒い目には、縦に金色の筋が入っている。
なにより、頭も首も緑色の「鱗」のようなもので覆われていた。
(なに? トカゲ? ワニというより、オオトカゲって感じ)
つまり、ここは「魔物の国」だ。
カサンドラから、大雑把に聞いている。
カサンドラのいた世界は、人、魔物、聖魔という3つの種の国があるらしい。
人の国から、ほかの2つの国に行くには防御障壁を越える必要があるという。
けれど、もう2百年近く、人は防御障壁の外に出たことがなく、ほかの2つの種の国を、実際に見た者はいないとされている。
壁の中の者にとっては、おとぎ話のようなものだ。
ぼんやりと、カサンドラとの会話を思い出す。
『昔、聖魔の者たちに人は精神を操られ、苦しめられておりました。彼らは人を玩具にするのが好きだったのです。そこで、ラーザの女王は、人の国を守るために防御障壁を造りました。約2百年前の話になります』
『ふぅん。その防御障壁って、聖魔用? 魔物は来ないの?』
『魔物は強固な肉体と、攻撃の魔力を持ちますが、人は技術で、それに対抗することができるのです。魔物は聖魔に精神干渉を受けないので、魔物を研究していた時期もありましたね。なにか対抗手段でもあるのか、魔物の国は、聖魔に襲われていなかったようですから』
聞き流していたようでいて、案外、覚えていた。
カサンドラの話をまとめると、3つの国は得手不得手があることになる。
人は聖魔の精神的な干渉に弱い。
が、魔物に対しては、武器を含め技術で対抗できる。
魔物は、聖魔の干渉は受けないが、人の武器には弱い。
そして、聖魔は、人に精神的な干渉はできるが、精神干渉のできない魔物には弱い。
(三竦みってやつか。どこかの種が最強ってわけじゃないんだな)
彼女は、人の国を捨て、魔物の国に辿り着いてしまったようだ。
聖魔の国よりマシなのかどうかは、わからないし、どうでもいい。
助けられたこと自体が迷惑なのだから。
「そなたは、人の国から来たのか? なぜ、あのようなところにおった?」
話したくないし、話す気もなかった。
あの魔獣から助けてくれて、怪我の手当てもしてくれたようだが、彼女は助かることを望んではいなかったのだ。
また「生き続ける」ことを押しつけられたと、苛立ちすら感じている。
「余は、ガリダ族の長ザイードと言う。ここは、ガリダの地だ。安全ぞ?」
なにか勘違いをされているのだろう。
魔物に怯えているとでも思っているに違いない。
けれど、彼女は死を恐れてはいないのだ。
当然、魔物を恐れる理由もない。
「まだ傷が痛かろう? 人にも効果のある薬を使うたのだが」
黒い瞳が、きょろきょろと動いていた。
縦に入った金色の筋が、太くなったり細くなったりしている。
猫の瞳孔に似ていた。
今は、光ではなく、感情による変化のようだったが、それはともかく。
「そなたは変わった魔力を持っておる。もしや、人の薬は効かぬのか?」
魔物は、人の使う武器に弱いはずだ。
それにしては、人に対する警戒心がなさ過ぎる。
むしろ、本気で心配しているように感じられた。
(魔物が人の心配って……裏もなさそうだし……)
けれど、その心配こそが迷惑なのだ。
彼女は、ふいっと顔を背ける。
途端、肩に激痛が走り、思わず、呻き声を上げた。
「これ、動いてはいかん。傷が癒えてはおらぬのだぞ」
顔を横に向けたことで、板張りの床に寝かされているのだとわかった。
一応、布団のようなものの上にいる。
這うような格好でザイードという名の魔物が、また彼女の顔を覗き込んできた。
「よいか。ここには、そなたを襲うような者はおらぬ。安心して傷を癒せ。癒えたのちは、余が人の国の近くまで送っていってやろうぞ」
言葉に、びくっとなる。
送り返されるより、放り出されるほうがいい。
人の国になんか戻りたくもなかった。
「人の国から来たのかはわからぬが、人の国には行きたくないのだな」
有無を言わさず送り返されたくなくて、彼女は、小さくうなずく。
オオトカゲにしか見えないザイードの瞳孔が細くなった。
「そなた、名をなんと言う?」
名乗る筋合いはないのだが、多少の会話は必要になるかもしれないと思う。
自由に出て行けるかどうか、今はわからないのだ。
とはいえ、彼女はもう「カサンドラ」ではいたくない。
かと言って、元の世界の名も名乗れなかった。
『大好きですよ、キャス』
フィッツの声を思い出す。
誰もフィッツをフィザルドとは呼ばなかったように、自分もただの「キャス」でいいと思った。
小さな声で、その名を口にする。
それを自分の名とし、彼女は、心の中で「カサンドラ」という名を、捨てた。
こちらの章が終了となりました。
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