日々どうでもいいことばかり 1
「なにか問題は起きているか?」
「いいえ、なにもございません」
決まった問いに、彼女は「いつもの」返事をする。
質問に意味などないと知っていた。
儀礼的なものに過ぎない。
だが、それは道端で見知らぬ人が「おはよう」と声をかけてくれる程度の礼すら持たないものだ。
だからといって、彼女は気にもしないのだけれど、それはともかく。
目の前にいる男性は、知り合ってから1度も表情を変えずにいる。
いつも同じだ。
鮮やかで澄んだ銀の瞳に、ただと彼女を映している。
眩しいばかりの金色の髪は肩につくかつかないかというところで留まっていた。
時折、体を動かす時以外、揺らぐことはない。
青い生地に金色の刺繍がされている上着に、黒のすっきりとしたズボン。
組んだ長い足の先で、革靴の黒が光っている。
上品な服装なのは間違いない。
とはいえ、それは騎士服に近く、彼の立場を考えれば「普段着」だ。
つまり、客と接する時の服装ではない、ということ。
「また新しい宝石を買ったのか」
いわゆるアーモンド型の目が、彼女の指に視線を投げてくる。
暖かみのありそうな唇も冷たい口調の前では、その効果を発揮できていない。
彼は、たいてい淡々としている。
彼女に怒ったり、手をあげたりしたこともなく、無関心。
それでも、わかるのだ。
彼は、自分を疎んじている。
彼女は、細い両腕を体の前に、膝の上で手を重ねていた。
その指には、いくつもの宝石がはめられている。
指は合計十本だが、指輪の数は、それより多い。
赤色で、いかにも贅を尽くした派手なドレスに見合った「手」だ。
「どれが新しいものかは、わかりませんけど」
彼女は、銅色の瞳で、向かい側に座る彼を見つめる。
クッションの効いた座り心地のいい長ソファが2つ。
その間にテーブルはない。
飲み物や茶菓子の乗った、繊細な細工の施された華奢な小テーブルは、互いの膝より、少し右横に置かれていた。
前かがみにならなければならないが、手の届き易い位置と高さだ。
彼の背後に見える室内品の数々も豪奢なものばかり。
ここは、2人が会うためだけの部屋なのに、贅沢に過ぎる。
少なくとも彼女の好みではなかった。
月に1度の「顔合わせ」にしか使わないのにと、思わずにはいられない。
「そろそろ夕食の時間だな」
「今日の夕食は、ご一緒できません。食欲があまりないので」
彼の整った右眉が、ぴくっと反応を示した。
めずらしくも、表情に変化があったと言える。
彼女は視線を外し、わずかにうつむいた。
肩よりも下にある、ごわついた焦げ茶色の髪が視界に入る。
手入れがされていないのは明白だが、それについて彼に指摘されたことはない。
高価な宝石やドレスと、荒れた手や艶のない髪は相反している。
とはいえ、それも彼には興味がないことなのだ。
だから、訊かない。
なぜ豪華な指輪は買うのに、手や髪の手入れをしないのか、とは。
彼は、無関心さによって、己の中にある憎しみを抑えているのだろう。
淡々とした態度も似たようなものに違いない。
憎しみを彼女にぶつけないための、彼なりの防御策だ。
ただし、それが彼女を気遣ってのことではないと、彼女は知っている。
「体調を崩しているのであれば、医師を呼ぶがいい」
「そこまで大層なことではありません」
初めて、ここに来たのは、カサンドラが16歳、彼が23歳の時だ。
この2年、2人は月に1度、この部屋で会っていた。
夕方に少しばかり会話をし、夕食をともにする。
夕食時には、ほとんど会話はなかった。
1人で食事をしているのと大差はない。
さっき彼の眉が反応を示したのは、そのせいだろう。
彼女が「断る」など、これまでにはない態度をとったからだ。
いつものことが、いつものことにならなかった。
それを不快に感じたのか、不思議に思ったのか。
どちらでもかまわない。
彼女も、彼に興味はなかった。
どう思われようが、思われなかろうが、どうでもいいのだ。
たとえ彼が自分の婚約者なる相手であれ、関係ない。
数多の女性に憧れをいだかれている男性であっても、興味がない。
ティトーヴァ・ヴァルキア。
彼は、ヴァルキアス帝国唯一の皇子であり、皇太子だ。
現皇帝の崩御と同時に皇帝となることが、確定されている。
ヴァルキアス帝国は、3つの直属の王国と9つもの属国を従えていた。
大きな権力の持ち主であるのは否定できない。
だが、それすらも彼女にとっては、どうでもいいことだった。
彼女は立ち上がり、皇太子に挨拶の礼をする。
頭の中では、すでに次に起きるはずの事態に備えることを考えていた。
「本当に夕食はいいのか?」
「はい。大丈夫です、殿下」
呼び止められたことに、少しだけ不快を感じる。
それでも、表情にも口調にも出さず、彼女は再び頭を下げた。
「それでは失礼いたします」
夕食をゆっくり楽しんでくれと言おうかと思ったが、やめておく。
嫌味と取られかねないからだ。
2人での食事では、食器等の鳴る音が響くだけの、ほとんどが沈黙に支配された時間だった。
それを揶揄していると勘繰られたくない。
揶揄するつもりもないし。
彼女が歩き出しても、皇太子は声をかけてこなかった。
呼び止めたのも儀礼的なものに過ぎなかったのだろう。
一応は婚約者としての務めというところかと、彼女のほうが、彼の言動を皮肉っぽく捉えている。
が、しかし。
「なぜ食欲がない?」
部屋を出る直前に声をかけられた。
その言葉に、苛とする。
彼女は、肩越しに小さく振り返った。
「さぁ……そういう日もある、ということです」
他人事のように答える。
返事を待たず扉を開いたが、もう皇太子は呼び止めてはこなかった。
扉の向こうに立っていた護衛騎士2人が、彼女に対して頭を下げる。
これも儀礼に過ぎない。
カサンドラ・デルーニャ。
それが、今の彼女の名だった。
デルーニャというのは帝国直属の王国のひとつ。
一応、彼女は、その国の王女という立場なのだ。
実際に、デルーニャで暮らしたのは、ほんの3日程度。
カサンドラは「デルーニャ」という名にも国にも親近感はいだいていない。
王女との立場を、喜んでもいなかった。
正直、煩わしさしか感じられずにいる。
だとしても、与えられた人生を進むしかないのだ。
お定まりとも言える赤絨毯の敷かれた廊下を歩いた。
間隔を置いて立っている騎士たちは、カサンドラの姿に気づくや頭を下げる。
この皇宮には、ヴァルキアス直属の騎士しかいない。
彼らはヴァルキアス貴族出身の者が多く、誇りと自負心に溢れていた。
もっとも「誇り高い」と言えば聞こえはいいが、その誇りゆえに、他国を見下す傾向にある。
だから、王女との立場でも、カサンドラが皇太子の婚約者でもなければ頭を下げたりはしなかったはずだ。
カサンドラは護衛騎士たちには目もくれず、与えられている部屋に向かう。
1人で住むには広過ぎるほど広く、使用人も大勢いた。
そこは、自分の部屋であって、自分の部屋ではない場所。
広い皇宮の端に位置しており、皇太子宮とは離れている。
婚姻後は、皇太子宮に近い皇太子妃宮に移ることになっていた。
仮に婚姻前に皇太子が皇帝となれば、即皇后宮に移るのだろうけれども。
そんな日は来ない。
カサンドラは、そう思っている。
皇太子も、内心では自分との婚約を解消したいと考えているはずだ。
現皇帝の皇命に従っただけの婚約など、彼には不本意だっただろうから。
けれど、それはカサンドラにしても同じ。
彼は、カサンドラを憎んでいる。
それ以上に、彼女は、彼を「絶対に許さない」と決めていた。