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「汝、生涯彼女を愛する事を誓いますか?」
「ち、ち、ち、ち、ち、誓います。」
ダラダラと冷や汗を流している男性の手にそっと美しい手が添えられ、二人は生涯の愛を誓う。
と言っても、完全な政略結婚だ。誓いの言葉と言うのは異世界に来たとしても前世とそうそう変わるものではないようで、楽しみにしていた分少し拍子抜けたがアリーナは顔には出さない。
だが、キスが無いのは良かったなと思っていた。
会うのは色々有って、今日が初めて。
前髪が目の下迄有るので全然顔は見えないが、悪い人では無さそうだな。とアリーナは彼に微笑みを向ける。噂など噂でしかない。
何故アリーナが前世がどうの、と思うには理由が有る。
それは十歳の頃に遡る。彼女は伯爵家に生まれながらもとても快活な女の子で、その日も風に飛ばされ木の上の方に引っ掛かった姉の帽子を取るためにその木に登った。
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「アリーナ!危ない事は辞めて、早く降りて来て?帽子は後で庭師のサニーにお願いするから!」
普段はおっとりした優しい姉のナターシャが青い顔をしながらアリーナに叫ぶ。
アリーナは姉の静止をものともせず、帽子のある太い枝まで上手に木によじ登った。
「しっかりした木だもの。これくらいサニーが居なくても平気よ、お姉様!今落とすから受け取ってね!」
後もう少し、とグッと手を伸ばし帽子に手が届いた所で身体を支えていた左手の枝がアリーナの体重に耐えきれず折れてしまった。
木から落ちている間、時間がゆっくり進んでいる様で走馬灯の如く前世の記憶が蘇ってきた。
素肌感を重視したファンデーション。バサバサと目を大きく見せる為何重にも薄く塗り重ねたマスカラ。スカートは短めが好きで、脱色を繰り返しているが手入れを怠った事が無い金色の髪を緩やかに巻いて、ピアスは右耳二つに左耳一つにおへそ。校則等というものは破る為に有る。
そして、何よりも大好きなネイルは彼女の命だ。
好き過ぎてネイリストになる為に同級生の爪を借りて練習に明け暮れていた位である。
そう、彼女の前世は俗に言う『ギャル』だった。
幸い、木の下に背の低い植木が有ったお陰で大事には至らなかったが前世の記憶が蘇った反動で寝込んでしまった。
アリーナが目を覚ますと、今にも決壊しそうな涙を溜めたナターシャが居た。
「あぁ、アリーナ!目を覚ましたのね!……お、お医…者様はだ、だいじょ…ぶって、ぐすっ……言っていたの……だけれどっ…目を、覚まさないからっ……う、ふあんで……」
優しいナターシャは木から落ちたのが自分のせいだと思ってアリーナが寝ている間ずっと傍に居たらしい。
こんなにも泣いている姿を見るのは初めてだった。自分の軽はずみな行動で彼女を心配させてしまい、心が痛んでしまう。
「ごめ…な、さい……お姉様。私が、わるいの、泣かないで。」
少しだけ掠れた声に長い間寝ていたのだと実感をしながらアリーナが手を伸ばすと、ギュッとナターシャがその手を包んだ。
「…うふ、そうね。目を覚ましたので安心してしまったの。まだ少し熱が有るわ。私はお父様とお母様に目を覚ました事を伝えてくるわね、寝ているのよ?」
こくりと頷いたアリーナを見て頭を撫でると、ナターシャはまだ少し心配そうに微笑み手を振ると、部屋から出ていった。
確かにまだ熱が有るのだろう、身体がダルいし頭の中がぐちゃぐちゃだった。もぞりと温かいベッドに潜るとアリーナは思い出した事を整理する。
「まず、ここは異世界?でも、こっちも現実で…ヤバ。アタシ、転生しちゃったって事?え、なにそれ、なにそれ。めちゃくちゃ凄いじゃん。」
前の記憶が蘇ったとて、覚えている範囲でアリーナの記憶は残っていて、上書きをされたというより知識が増えたという印象だった。
まだ混乱はしているが、アリーナとして十年生きていた事もちゃんと覚えていて何だか少し安心した。
それに性格も余り変わっているようでは無かった。記憶が女子高生までなので前世は早くに亡くなってしまったのだろうが死因等も思い出せず、楽しい記憶ばかりが浮かんできた。
頭がすっきりしてくると喉が乾いている事に気付き、置いてある水を飲もうと身体をゆっくりと起こした。
ベッドから抜け出して立ち上がると大きな鏡がアリーナを映す。
「え?こ、これが、アタシ?」
その姿を見て驚愕する。横を向いても平坦に見えない顔。あんなに頑張って作っていた二重も、濃く長い睫毛も、ピンク色の唇も標準装備である。つるりと長く伸びた淡い栗色の髪、穢れていない澄んだ緑の瞳に少しつり目なのがとってもチャーミングだ。まるでお人形さんのよう。
そして、寝間着の腕の部分をサッと上げて念入りに確認する。
「これ、美少女ってやつなんじゃない?しかも…あ、憧れの白い肌だ~~!アタシ、ちょーかわいじゃ~~~んっ!!」
余り大きな声を出すと心配されるだろうから小声で叫ぶと、アリーナは頬に手を当ててまじまじと自分を見つめる。今まで自分の顔等比べた事も無かったし、何とも思っていなかったのだが、前世を思い出してしまうと顔の良さに小躍りをしてしまう。
それに加え、前世憧れて止まなかった白い肌だ。地黒だった彼女は、肌を焼く事無く「日サロ行った?」と言われる程だった。それに劣等感は無かったし、地黒は地黒で格好良くて好きだったが、無い物ねだりをしてしまうのが人間である。
くるくると調子良く回りながら自分を見て、まだ熱が有り起きたばかりの身体には堪えたのかドサリとベッドへと倒れ込んだ。
「すっっっごいハッピー。だけど、この世界で一つだけ文句言っちゃうとネイルが出来ないってか、根本的に無いってことだよね~…。」
外見により封印していたフリフリの姫系の服も好きだった彼女は、短いスカートが履けないのが少し残念な位で、オシャレは十分楽しめるし、この世界には化粧の道具も技術も有る事を知っている。今の環境でも問題無いと言えば無い。
だが、爪を整える道具は存在するのに色を付ける技術が無いのは何事か。
あの幸せは変え難いものであるとアリーナは考えていた。爪を見る度に「今日もアタシの爪は可愛い」と気合いを入れたり、気分が落ち込んだ時に「それでもアタシの爪はこんなに可愛い」とそれだけで笑える元気を貰える。
あれは是非とも体験して頂きたいものなのだ。
「よしっ、決めた!アタシがこの世界にネイルを広める!みーんなの爪を可愛くするっ!」
アリーナは拳を高々と上げる。そう、この時の彼女はまだ知らなかった。ネイリストになる為の道具を揃える事自体が六年経っても叶わぬ事を。